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四十八

 薄闇に暮れる山の中をカイはひたすらに下っていった。「はぁっはぁっ」と口で息をしながら、恐怖に押し潰されそうな心臓を抱え、次々に迫り来る木の根を飛び越えていく。子供の誕生。それは待ち侘びていたものでもあり、永遠に来ないで欲しいと思う瞬間でもあった。

 母親は自分を産んですぐに死んでしまった。出産が原因で死んだ女は母親だけではない。部族の女達の中で、そういう悲劇が何回かあったのを記憶している。そして死産だったり、産まれてもすぐに死んでしまった赤ん坊も。母親と子供、両方死んでしまうことだってある。生まれることと死ぬことは背中合わせだ。

 そして、あの小屋にまつわる夫婦の悲劇。妻に先立たれた男の悲しい末路。その話を聞いた時から、ずっと恐怖に囚われていた。凛を死なせることになるかもしれない。そうなったら自分の責任だ。凛と愛し合ったことを後悔するだろう。

「嫌だ……嫌だ……」

祈るように呟きながら走るカイの目の前に、突然張り出した木の枝が迫った。まばらに小さな緑の若芽を纏った枝は、嘲笑うようにカイの頬を引っ掻いていく。それでも立ち止まることも、流れ出る赤い血を拭うこともなくカイは走り続けた。


「カイ……お願い……戻って来て……」

 毛布を握り陣痛に耐えている凛の呟きは、荒い息でほとんど声にはなっていなかった。もうどれくらいの時間そうしているのか分からない。辺りはもう真っ暗で、テーブルの向こうにある暖炉の灯りが遥か遠くに思える。カイは出て行ったきり戻ってこない。陣痛は今ではひっきりなしに襲ってきていた。一人痛みに耐えていると、暗闇の中に引きずり込まれていきそうな感覚に陥る。

「カイ……カイ……」

毛布に頬をあてた。鼻梁を横ぎった涙が毛布に染み込み、心細さに絶望感が這いこんでくる。凛は息を喘がせながら顔を上げた。今は雪が完全に溶けたため、窓があるはずの場所も真っ暗だ。ガラスが汚れているので星も月の光さえも入らない。自分が目を開いているのか、閉じているのかもよく分からなくなってきた。死ぬということは、こういうものなのかと凛は考えた。痛みに苦しみながら暗闇に落ちていくものなのか、と。

 その時、裏口の扉がけたたましい音を立てて開いた。

「こっちだ!」

カイの声が聞こえて凛は顔を寝室のドアの向こうへ向けた。暖炉の火を背に、二つの人影が見える。

「真っ暗じゃないか! 可哀想に!」

ランプを持って寝室に入ってきたのはシャナンだった。凛の汗で濡れた顔に涙が滲む。

「あ……あ……」

凛は言葉にならない声を発してシャナンに手を伸ばした。シャナンはランプを窓辺に、持って来た荷物を隣のベッドに置くと凛の元にしゃがみ込んだ。

「このシャナンが来たからには、もう大丈夫だ。私は部族の子を百人以上取り上げてるんだよ。ああ、まだまだこれからだ。頑張るんだよ、一緒にいるからね」

自信に満ちたシャナンの言葉に、凛は弱々しい笑みを向けた。シャナンは立ち上がり、寝室の入り口で不安そうに凛を見ているカイに用意する物をてきぱきと指示する。カイは慌てて頷くと寝室を飛び出して行った。

 カイが寝室へ戻ると、シャナンは水で濡らした布で凛の顔の汗を拭いていた。

「身体の力を抜いて、上手く痛みを逃がすんだ。ほら、そんなに力んだら赤ん坊が苦しいよ」

必死で痛みと闘う凛にシャナンが声を掛け続ける。言いつけられた用事が終わると、カイは所在無げにうろうろするだけで、ついにはシャナンに寝室から追い出された。

 カイは知っていた。こういう時に男が出来ることは何もない、と。部族の男達もそうだった。百戦錬磨の屈強な戦士でさえ、ティピーから洩れる苦しそうに喘ぐ妻の声を聞きながら忙しなく煙草をふかし、熊のように焚き火の周りを歩き回っていたものだ。

 カイは椅子に腰を下ろし、テーブルに両肘を載せると手を組んだ。まだ震えている。そんな自分を情けないと思った。それでも最悪の事態が頭から離れない。カイはそれを追い出そうとするかのように頭を振ると椅子から立ち上がった。テーブルの周りを二周ほどするとまた椅子に腰掛ける。どうにも落ち着かない。そんなことを繰り返しているうちに、寝室から聞こえてくる凛の苦しげな声が大きくなっていく。ほとんど泣き叫んでいるようだ。それに負けないくらい大きなシャナンの声。

「今だ! 思い切りいきんで! 頭が出てきたよ!」

凛の絶叫が聞こえた後、小屋は静寂に包まれた。カイは口で息をしながら閉じられた寝室のドアを見つめた。心臓が早鐘を打つ。

「リ、リン?」

不安でいたたまれなくなったカイが呟いた時、凛でもシャナンでもない甲高い泣き声が響いた。それが産まれたばかりの自分の子のものだと理解するのに数秒掛かった。心地良かった胎内から押し出され、初めて吸い込んだこの世界の空気が苦しいと、激しい抗議をしているようだ。

 なぜだかカイまで息苦しくなってきた。感情が昂ぶり、自然と熱い涙が込み上げて視界を曇らせる。それと同時に、凛の安否が気になって仕方がない。カイは服の袖で目を拭うと、寝室のドアの前に駆け寄った。

「リン、リン! 大丈夫なのか?」

「ええ、大丈夫よ……」

切羽詰ったカイの問いに、凛は弱々しい声で応えた。そのすぐ後にシャナンの大きな声が響く。

「そこで待ってな! これを見て気絶しない自信があるなら入ってもいいけど。あんたの面倒までは見切れないからね!」

それを聞いて蒼ざめたカイは、急いでテーブルに戻った。


「まったく、男っていうのは……」

シャナンは開かれないドアを一瞥し、呆れて首を振りながら呟いた。その間も手は休みなく動いている。赤ん坊の身体をきれいにすると、自分が持って来た毛布で包み、ベッドに横になっている凛の腕に抱かせた。すると真っ赤な顔で怒っていた赤ん坊は泣くのを止め、代わりに甘ったれた声で鼻を鳴らし始めた。その様子に凛とシャナンは目を合わせて微笑んだ。

「ありがとう、シャナン。あ、この毛布……」

それは、初めて会った時にシャナンが織っていた毛布だ。シャナンはにっこりと笑った。

「あげるよ。私からのお祝いだ」

「でも、これ……」

凛は躊躇った。とても美しいその毛布は芸術品ともいえる。売ればいい金になるだろう。シャナンは笑った。

「いいんだよ。あんたはこれを綺麗だって言ってくれたからね。この子の誕生に間に合って良かったよ。……いいかい?」

シャナンは赤ん坊の胸の前で合わせた毛布を指差した。

「これは世界なんだよ。この下地の茶色は大地、赤は太陽そして緑は木、すなわち命だ。父なる太陽は母なる大地を温め、そして命が産まれる」

それからシャナンは黄色の模様を指差した。大きさが様々な黄色は、しかしちゃんとした規則を持って並んでいる。

「命は月の満ち欠けを見て時を知る。それが生きるために必要な知識となるんだ。何事にも時期というものがある。とうもろこしの収穫も、鳥が空を渡っていくのも。この子がこうして今日産まれてきたのにも、ちゃんと意味があるんだよ」

今では目を閉じてすやすやと眠る赤ん坊に目を遣り、凛は頷いた。シャナンは少し寂しげな顔で微笑んだ。

「あんたの言うとおり、世界は本当は美しいものなんだ。人間が必要以上の物を求めて争いを始めるまではね」


 寝室からシャナンが出てくると、テーブルに肘をついていたカイが顔を上げた。

「何だい? 情けない顔をして、アパッチの男が。怖いのかい?」

不安に揺れるカイの瞳を覗き込んだシャナンがからかうように訊いた。カイが黙ったまま顔を俯かせるとシャナンがふんっと鼻を鳴らす。

「初めてのことが怖いのは当然さ。だからこそ勇気が出せる。勇気ってのは恐怖心の後からついてくるんだ。『怖いもの知らず』なんて、言葉はいいけど私に言わせりゃただの馬鹿だね」

カイはそっと顔を上げた。

「リン……彼女は大丈夫なのか? 赤ん坊は?」

「ああ、大丈夫さ。あんたが思ってるほど、あの子達は弱くはないよ。それじゃ、私はそろそろ帰るからね」

自信に満ちたシャナンの言葉に励まされ、カイは大きく安堵の息をついた。今までに積もった心の澱が僅かながら消えていったようだ。

 シャナンの優しさにカイは心から感謝した。初めて会った時は、これ以上関わってはいけないと暗に警告されたのだ。それでもシャナンはこうして助けてくれた。カイは椅子を引いて立ち上がった。

「本当に助かったよ。ありがとうシャナン。送っていくよ」

「結構だよ。もう夜も明けてきた。一人で帰るよ。それより早く行ってやりな。あんたに良く似た可愛い女の子だよ」

汚れた窓がぼんやりと光を放っているのに今気が付いた。

「これからは、あんたが頑張らなくちゃいけない。あの子は自分の血を乳に変えて子供を育てていくんだ。そのためには、あんたがちゃんと食べさせてやらなきゃね。まあ、そんなことはもう分かってるだろうけどね」

カイが神妙な顔で頷いている間に、シャナンは裏口から出て行ってしまった。


 カイがゆっくりと寝室のドアを開けると、ベッドの中にいる凛と産まれたばかりの我が子が見えた。眠っている二人を窓から差し込む柔らかな光が包んでいる。シャナンが持って来た毛布に包まれている赤ん坊を覗き込んだ。シャナンはカイに似ていると言っていたが、正直なところ赤ん坊の顔は皺皺で自分に似ているかどうかはよく分からない。顔の下で握られている手が、あまりにも小さくて戸惑った。とても脆く、すぐにでも壊れてしまいそうだ。

 カイはベッドの傍らに跪き、その小さな手を握ると暖かい掌に自分の親指を差し入れた。インディアンの子。生まれながらにして追われる身だ。頼りない自分がこの命を掛けたところで、守りきることなど出来るのだろうか。そう考えると胸の奥に鈍い痛みが走った。失いたくないものが増えていく。それが良いことなのか、そうでないのかはカイには分からない。それでも愛おしくて仕方のない小さな手を自分の唇にあてた。

 不意にくすくすと小さな笑い声が聞こえて顔を上げると、寝ていたはずの凛がいつの間にか目を覚ましていてこちらを見ている。額に薄っすらと汗をかき、上気した顔で微笑む凛は妖艶であると共に、侵しがたい神聖さを漂わせていた。自分の子供を産んだ凛が、こんなにも美しかったことにカイは改めて気が付いた。その凛がゆっくりと口を開く。

「ねぇカイ、この子の名前、サクラって付けてもいい?」

「サクラ?」

凛は頷いた。

「私の大好きな花の名前。小さな花だけどとても綺麗なの。永い冬を乗り越えて春に咲くのよ」

嬉しそうな凛の顔を見つめ、カイは話に耳を傾けた。今のこの幸福が永遠に続けばいいと願いながら。

 心の中に浮かぶ遠い故郷を見つめながら凛は続ける。

「厳しい冬の寒さを耐え忍んで、誰もがその開花を待ち侘びる花……それが桜よ」

カイは目を細めて凛に微笑みかけた。

「サクラ。うん、可愛い名前だ。この子にぴったりだよ」


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