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四十七

 シャナンと別れ、歩き出した時には陽光は既に弱まっており、日暮れが近づいていた。小屋に向かっていた二人は、途中で見晴らしのいい場所を見つけて立ち止まった。遥か西にそびえ立つ真っ黒な影になった山塊。その真上に真っ赤な太陽がゆっくりと降りていく。照らされたものは全てが赤く染まり、その背後に長い影を従える。動かざるものに太陽はその輝きで動きを与える。

 この山の大きく広がった裾野の一角に、ぽつりぽつりと灯りが灯っていった。凛もカイも今まで気付かなかったが、程近い所に街があるのだ。急激に冷え込んでいく山の空気の中で、ゆらゆらと揺れる小さな光の束はとても暖かそうに見えた。あそこではたくさんの人達が安心して新しい朝を迎えるために灯りを灯し、身体を温めながらこの夜を越えようとしている。しかし、分け隔てなく注がれる太陽の光とは違い、その灯りは輪の中に入る者を選ぶ。放つ光が大きければ大きいほど影は濃くなる。そして異質なものは光の輪から締め出され、暗闇の中で寒さに震え蹲っていなければならない。

 自分達がその輪の中に入れないのは分かっている。今立っている場所とあの街の間には、目には見えないが波の荒れ狂う大海が異端の者を排除すべく横たわっているのだ。凛は疎外感と諦めが混じり合う視線を、その街から空へ向けた。太陽は半分ほど山塊に沈んでいる。頭上の空は既に暗く、無数の星が瞬いている。その輝きはどれも柔らかく優しい。しかし、決して手の届かないもの。あの街の灯りと同じだ。

「リン……」

 それまで黙っていたカイが突然、凛の名前を呟くと肩を引き寄せ強く抱き締めた。凛はカイの腕の中で涙の溜まった目を瞬かせた。カイは震えている。

「どうしたの? カイ──」

「リン、行くな! どこにも行かないでくれ!」

切羽詰った口調に凛は驚き、首を巡らせてカイの横顔を見た。目をきつく瞑り、唇を噛みしめている。カイの細い肩に重く圧し掛かる不安が凛にも感じられた。しかし何がそんなに不安なのか、凛には分からない。

「どこにも行かないよ。ずっと一緒に居るよ。どうして?」

とにかくカイを安心させようと、子供をあやすような口調で凛が囁いた。凛の両肩に手を置いたまま、カイはゆっくりと身体を離すと俯いたまま首を振った。その姿は、今にも吐き出してしまいそうな恐ろしい懸念を必死で堪えているようだ。

 カイは昔からそうだった。強がりで天邪鬼、自分の本心をなかなか口にしない。その心はとても繊細なのだ。苦しげに絞り出した言葉の裏に、どれほどの葛藤があるのか凛には想像も出来ない。

 思えばカイはずっと、その命を掛けて凛を守ってきた。カイの深い愛をただ受け取るだけだった自分に凛は気付いた。そしてカイへの気持ちは、サンに抱いていた憧れのような幼い恋心ではなく、もっと深いものだということにも。愛し合い、子供を宿した相手でも分かち合えない物があるということに凛は寂しさを覚えた。カイの方こそが自分から離れていくのではないかと、そんな気がしてくる。

「もう戻ろうよ。暗くなってきちゃった」

凛の囁きに、カイは黙って頷いた。

 きつく手を繋いだ二人は眼下の街の灯りに背を向けた。アパッチの男が自分の妻や子供達を守るためにするように、カイは凛の手を引きながら少し前を歩く。暗い森の中、目を凝らして油断なく辺りを見回すカイの横顔はもはや少年ではなかった。少年ではいられなくなったのだ。

 ふと振り返ったカイは、凛に穏やかな笑みを投げ掛けた。ついさっき見せた激しい動揺など無かったように。不安は解消されたのか、それとも強がっているだけなのか、とにかく凛はその笑顔に胸が締め付けられた。いつまでもこの笑顔のそばにいたい。凛は繋いでいた手を解くと、そのままカイの腕にしがみついた。その複雑に入り組んだ心の奥底には辿り着けなくとも、この腕だけは放すまい、と。

 そうして二人は寄り添ったまま、暗い森の中を小屋へ向かって歩いて行った。二人だけの灯りを灯すために。


 数日後の朝、出入り口として使っている納屋に続くドアを開けた所に見慣れない籠が置いてあった。そこにはタマネギと乾燥させた豆、挽いたとうもろこしの粉が入っている。二人には送り主がすぐに分かった。シャナンだ。

 以前に会った時のシャナンの話では、彼らナバホ族と関わってはいけない、と二人はそう解釈して孤独感に苛まれた。言葉はぶっきらぼうでも、自分達を気に掛けてくれる人がいる。そのことがとても嬉しかった。

 カイは充分過ぎるほど用意してあった薪を一抱え持ち、シャナンのウィキャップの前に置いてきた。運良く、誰にも見咎められることはなかった。小屋に戻る途中でカイは冬の匂いを感じた。澄んだ冷たい空気が鋭く鼻に刺さってくるようだ。木々は葉をすっかり落とし、ちょっと前まで忙しく冬支度をしていたリスも見掛けることはなくなった。山の頂だけにあった白い部分も、確実に広がってきている。


 小一時間ほどで戻ったカイは白い息を吐き出していた。鹿の毛皮を羽織ったまま暖炉の火にかじかんだ手をかざしているカイを眺めて凛が呟いた。

「雪が降るわ」

「うん。多分ね」

薪は充分にあるし、シャナンのお陰で食料も何とかなる。カイは赤く燃える火を見つめながら余裕の笑みで応えた。しかし、凛は汚れた窓から僅かに覗く外の景色を不安げに見つめている。

 葉の抜け落ちた枝の隙間から見える遠くの山頂。強い風に煽られ積もったばかりの粉雪が、澄み切った青い空に舞い上がる。舞い上がった粉雪はすぐに吹き散らされて見えなくなった。

 凛は故郷で同じ光景を見たことがある。兄達が屋根の雪下ろしをしているのを眺めていた時だ。自分の口から出てくる白い息と舞い上がった雪を見比べて、寒がりの山が吐く白い息なのだと思って楽しんでいた。今はとてもそんな気持ちにはなれない。

「だって……その日の夜に……」

「どうかしたのか?」

振り向くと、カイが心配そうな顔で近づいてきた。凛は慌てて首を振った。

「何でもないよ。ただ、寒くなるなぁって思って……」

 カイは、鹿革のワンピースを着て窓辺に立つ凛の肩に毛皮を掛けた。カイはこの小屋のクローゼットに置いてあった白いシャツの上に茶色のツイードのベスト、同じ茶色のスラックスをサスペンダーを付けて穿いている。足元は凛と同じモカシンだ。

「大丈夫だよ」

自分が被っていたウサギの毛皮で出来た帽子を凛の頭に載せ、カイはそのまま腕を回して背後から抱き締め囁いた。頬に掛かるカイの息が温かい。凛は静かに頷き、その後は二人とも黙ったまま窓の外を眺めた。

「大丈夫」

何の根拠もない言葉だが、今一番必要な一言だった。


 凛の予報どおり夜半から雪が降り、朝には小屋の周り一面が白い雪に覆われていた。空は晴れ渡り、降り注ぐ陽射しが白い景色に乱反射している。雪が全ての音を吸収し、とても静かな朝だった。聞こえるものといえば、きつい傾斜のついた屋根から時折雪の塊が勢い良く落ちる音ぐらいだ。

 凛は物音がする度に恐怖を感じた。あの盗賊が押し入ってきた日を思い出すのだ。食事をしていても、ベッドで横になっている時でも。逃れられない記憶が凛の背筋を冷たく撫でていく。さらに、四方を雪に覆われたこの閉塞感が余計に凛を不安にさせる。

 居留区でカイの父親が死んだ時に凛は自分の身の上を話していた。それを憶えていたカイは、精神的に不安定な凛を何も言わずに優しく包み込んだ。それはまだ遠い春を待ち侘びる凛にとって、かけがえのない温もりとなった。

 冬の間中、ほとんどの時間を小屋で過ごした。カイの笑顔と優しさは一条の木漏れ日となり、あの時のまま凍り付いて止まってしまった凛の心の一部をゆっくりと溶かしていった。




 窓から見える幾つもの氷柱から、ぽたぽたと水が落ちてきて長い冬が終わりに近づいた。夜の寒さはまだ残った雪を凍らせるが、昼の陽射しの暖かさがじわじわとそれを溶かしてゆく。小屋の周りの雪は日を追うごとに少なくなっていった。カイはぬかるんだ道を歩き、久しぶりに水汲み場である川の源流に出向く。岩の隙間からは清冽な雪解け水が迸っている。桶から溢れた水が手に掛かると痛いほどに冷たく、顔を洗うとまるで長い冬眠から叩き起こされたような衝撃だった。

 小屋に戻ると凛は起きているものの、まだベッドで横になっている。この頃では大きな腹は段々と下に下がってきていた。そのせいで脚の付け根が圧迫され、痺れを訴えることが多い。さらに胎動が激しく、立ち上がるのにも難儀する日が続いていた。出産が近づいているのだ。

 それでも待ち侘びた春がやって来たことと、もうすぐお腹の子供に会えることで凛の表情は明るかった。そんな凛とは対照的に、カイの瞳に時折差す影は日増しに濃くなっていく。勿論子供が産まれることは喜びだ。しかしそれも無事に産まれてくれれば、の話だ。

 凛はベッドに手をついてゆっくりと起き上がった。

「水、汲んできてくれたのね。ありがとう。食事にしましょう」

モカシンに付いた泥を落としていたカイは慌てて凛に駆け寄った。

「いいよ! 俺がやるから、寝てろよリン」

「大丈夫よ。充分寝たから」

重い身体を左右に振りながらよたよたと歩き出し、にっこりとカイに笑い掛ける。そうするとカイはそれ以上何も言えず、ただ心配そうに凛の隣を歩くだけだ。

 そんな毎日が続いたある日の夕方、二人はいつものように夕食の仕度をしていた。ナイフで干し肉を切り分けていた凛は脚の付け根にぴりっとした痺れを感じた。いつものことだと思った凛はナイフをテーブルに置いてスカートの上から脚を擦った。しかし、いつもとは違っていた。両脚の間を何か水のようなものが伝っていく。

「ああ……どうしよう……」

「どうしたんだ?」

暖炉に薪をくべていたカイが手を止めて振り返ると、凛は目を見開いて震えていた。

「う、産まれるかも知れない……」

そう呟いた凛は呻いて片手をテーブルに、もう片方の手を腹にあてた。鈍い痛みがゆっくりと波のように広がっていく。腹の辺りが何か柔らかい物で締め付けられていくようだ。

「リン! 大丈夫か? と、とにかくベッドへ……歩けるか?」

凛は呻きながら頷いた。漏れ出した羊水はふくらはぎを伝い、くるぶしで折り返してあるモカシンの中に入り込んだ。すでに止まってはいるが、お腹の子供がずいぶん下がってきたのを感じる。

 カイに支えられて寝室へ歩き出すと痛みは退いていった。しかし膨らんだ腹は張って固くなっている。ベッドに辿り着くと、またあの痛みが襲ってきた。床に膝をつき、ベッドに屈みこんで呻いている凛をカイはただ見ていることしか出来ない。左手を腹にあて、右手はベッドの上の毛布をきつく握り締めている。苦しそうに歯を食いしばっている凛の額には玉の汗が浮かんでいた。

 その様子にカイは凛から後退った。凛が首を巡らせると、強張った顔のカイが震えているのが目に入った。

「……カイ?」

「リ、リン……待ってくれ……お、お願いだ。待ってくれ……」

今にも泣き出しそうな顔で懇願するカイを、凛は目を瞬かせて見た。腹にあてていた手を伸ばそうとした時、突然カイは踵を返して走り出した。

「どうしたの? カイ! カイ!」

掠れた声は届くはずもなく、その間にカイはテーブルの横を抜け、裏口から外に飛び出して行ってしまった。


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