四十六
急いでティピィーに戻ったカイと凛は、干してあった鹿の毛皮と干し肉が入った包みを持って、この楽園を後にした。
二人は更に山の奥へと入って行った。見上げれば、幾つもの山が連なる高い所の峰は白く染まっている。冬はもうすぐそこまで来ているのだ。早急に寒さを凌げる場所を探さなくてはいけない。
二人は渓谷の岩の隙間などで休息を取りながら歩き続けた。一週間ほどが過ぎた頃、草木が生い茂る山の中で、明らかに人工的に作られた道を見つけた。そこだけ一直線に木が切り倒されているのだが、随分前に作られたらしく地面には膝ほどの高さの草が蔓延っている。長い間使われていないことはすぐに分かった。二人は慎重に歩みを進めた。
その道の終わりには一軒の山小屋があった。きつい傾斜の付いた三角の屋根と煉瓦の煙突が、潅木と絡みつく蔦の上から覗いている。二人は小屋の近くの茂みに身を潜めてしばらく観察した。人が居る気配はない。カイは小屋に近づき蔦をかき分けると汚れた窓から中を覗いた。周りを囲む草木のせいで中は薄暗い。テーブルなどの家具があるが、動くものは見えなかった。出入り口の前の伸びきった雑草がなぎ倒されていないのは、ここに住人が居ない証拠だ。
裏に回ると小さな納屋があった。木の壁に打ち付けられた釘にナタが掛かっている。その下には少量だが薪が束ねられていた。その反対側には小屋の室内に通じる裏口がある。カイはナイフを口に咥えると、音を立てないようにそっとドアを開けた。
小屋の中は埃っぽい匂いがした。窓から差し込む僅かばかりの日光が、部屋の中央に置かれたテーブルを照らしている。くすんだ金属の燭台に立てられたいびつな形の三本の蝋燭。テーブルに載っているのはそれだけだ。椅子は四つ。裏口の横にある煉瓦造りの暖炉は灰が残っているのか、埃が積もっているのか分からない。とにかく、長いこと全く使われていないのだろう。
カイがゆっくりと一歩踏み出すと床板が軋んで音を上げた。その直後、テーブルの下からがたがたと音がし、カイが慌ててナイフを向けると何か黒っぽいものが勢い良く飛び出してきた。思わず短い叫び声を上げたカイの脚をかすめたそれは、開けっ放しの裏口から一目散に外へ逃げて行った。野ウサギだった。
「はぁ……脅かすなよ……」
胸の動悸を抑えながら呟くと、ダイニングの奥にある半開きの扉を覗き込んだ。
「おい……誰か居るか?」
さっきウサギに驚いて声を上げてしまったのだ。今さらこそこそしてもしょうがない。
予想はしていたが何の返事も聞こえない。それでもカイは慎重にテーブルの横を通り過ぎ、ゆっくりと奥の扉へ近づいた。今度は熊が飛び出してくるか、それとも白骨死体を見つけることになるか。そんなことをあれこれ考えながら扉を開けた。そこは寝室で、埃を被った空のベッドが二つあるだけだった。カイは気が抜けたように大きな息をついた。
二人はその小屋に落ち着いた。ところどころ修繕は必要だが、屋根と壁と暖炉まであるのだ。冬を越すにはうってつけだ。部屋はきれいに掃除をしたが、窓は汚れたままにしておいた。そして切ってきた木の枝を壁に立て掛け、人目に触れないようにした。
寝室の隅には屋根裏へのはしごがある。カイが薪を割っている間、凛はその屋根裏へと上がってみた。一つだけある跳ね上げ式の窓から光が差し込んでいる。屋根裏は全体が厚い埃で覆われ、蜘蛛の巣まで張っていた。隅に凛の肩幅ほどのトランクが一つだけ置いてある。凛は好奇心に駆られてそのトランクを開けた。蓋から埃が落ち、凛は窓を開けて山の新鮮な空気を入れた。
トランクの中にはアイボリーのドレスが入っていた。さらに豚の毛で出来たヘアーブラシと、隅の方には綺麗な緑の宝石がついたブローチ。この小屋で初めて見つけた女性の持ち物だ。寝室に置いてある木箱には男物の服などが入っていたのは知っている。この小屋の持ち主はどんな人だったのだろう。そんなことを考えながら後ろを振り返ると、背後の壁に作られた棚の上に何かが置いてあるのが目に入った。何だろうと思い近づいてよく見てみると、それは高さ三十センチほどの陶器で出来た聖母マリア像だった。埃と蜘蛛の巣にまみれているが、聖母マリアは赤子を腕に抱えて穏やかな笑みを浮かべている。キリスト教徒ではない凛も、その笑みには神々しいものを感じて心を動かされた。
不意に自分の母親の顔が浮かんだ。そしてクリスティーナとウナの顔も。彼女達も、かつてはこんな慈愛に満ちた眼差しで、産まれたばかりの我が子を見つめていたのだろう。人種や宗教が違っていても、子供を思う母親の心は変わらないはずだ。凛は自分の腹にそっと触れた。
自分は、こんな風に逃げ回る生活を続けながらも母親になろうとしている。この子は生まれながらにして逃亡者になるのだ。
「……それでいいの?」
凛はマリア像に尋ねた。しかし聖母は何も応えてはくれず、ただ腕の中の赤子を慈しんでいるだけだ。
凛はトランクに入っていたハンカチでマリア像を綺麗に拭いた。それからそのハンカチで丁寧に包むと、トランクの中にしまい屋根裏を後にした。
小屋の片づけが済むと、二人は山の中を散策した。陽射しが当たる場所は心地よく暖かいものの、日陰に入ると途端に身を切るような寒さが襲ってくる。しばらく歩くと、ごつごつした岩の隙間から水が溢れ出す場所がある。毎日カイはそこで水を汲んでくる。複雑に入り組んだ岩の間を流れ、やがてそれは小川となって流れていく。二人はその流れに沿って山を下っていった。
三十分ほど歩いた頃、ふと食べ物の匂いが鼻に届いた。見れば、木立の上に微かな煙が昇っている。二人は顔を見合わせると慌てて木の陰に隠れ、身を潜めながらゆっくりとそこへ近づいていった。煙が出ている場所の手前にインディアンの住居である半円形のウィキャップが見えた。
「インディアンだ! インディアンがいる」
隠れている木の幹を摑み、カイが興奮した口調で凛に囁いた。
さらに近づいてみると、ウィキャップの前で椅子に座った女が機を織っている後姿が見えた。木を組んで出来た機織機の縦糸に、流れるように横糸を絡ませていく。そのリズミカルな動きは、まるで優美なダンスのように感じられた。女の手首には、屋根裏のトランクにあったブローチの宝石とは違う色合いの緑の石を付けたブレスレットが嵌められている。ターコイズだ。
機織をしている女の奥に、屋根付の囲いに入れられた五頭の羊が見えた。ふかふかの白い毛皮を纏い、狭い小屋の中をうろうろと歩き回っている。時折聞こえる間の抜けた鳴き声が、この光景を牧歌的で平和な雰囲気にしていた。
「ナバホ族だ……」
カイが凛に顔を向けて小声で呟いた。
「そこに居るのは分かってるよ! 隠れてないで出て来たらどうだい?」
女はカイと凛に背を向けたまま、咎めるような声を上げた。強い訛りがあるが、言葉はアパッチ語とほとんど変わらない。
カイと凛はばつが悪そうにしばらく互いの顔を見合わせた後、手を繋いでおずおずと女の元に歩み寄った。
女はかなりの高齢に見えた。長い髪はまだ黒いものの、顔全体に深い皺が刻まれている。しかしウナとは全く違い、この老女は大柄だった。がっしりとした輪郭の顔を向け、ぎょろりとカイを一瞥すると不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふんっ! アパッチか。 揉め事はごめんだよ」
「ご、ごめんなさい。驚かすつもりじゃなかったんです……」
こそこそと覗き見していたことを謝罪した凛の大きな腹をちらっと見ると、老女の眼差しが少し柔らかくなった。
「あそこの小屋に住んでるのかい?」
機を織る手を一度も休めることなく、老女は鼻先をついっと川の上流へ振った。カイが頷いた。
「ええ。あの小屋を知ってるんですか? 持ち主のことも?」
「大丈夫だよ。今は誰も住んでない。持ち主はもう死んじまったからね」
カイと凛は顔を見合わせ、ほぼ同時に老女に向き直った。
「死んでしまった? 何故?」
カイの問いに、老女はやれやれといった様子で溜息をついた。
「詮索好きだねぇ。あそこに住んでたのは白人の中年の夫婦だった。金でも掘りに来たんだろう。でも、奥さんがすぐに胸の病で死んじまってね、それから旦那の方は酒浸りになっちまった。二年前の冬の朝、川の中で浮かんでるのを私が見つけたんだよ。結局、金なんて見つからなかったみたいだね」
自分から質問したものの、事情を聞いたカイは黙り込んでしまった。伏目がちに俯いているカイは凛と繋いでいる手に力を込めた。凛は不思議そうにカイを見たが、その時木立の向こうから数人の話し声と笑い声が聞こえてきた。今居る場所から木立の向こうは見えないが、さっきから肉の焼ける美味しそうな匂いと立ち昇っている煙には気付いていた。首を伸ばして木立の向こうを覗こうとした凛に、老女は掌を向けて制止した。
「やめときな。彼らに姿は見せない方がいい。アパッチを嫌ってる者も多いからね」
凛は慌てて頷いた。
インディアンの中には、この期に及んでまだ連邦政府や軍に抵抗しているアパッチを快く思わない者も多い。そのせいでインディアン全体への締め付けが強くなっている、そう考えるのだ。迫害されている先住民の同胞といえど、全ての者が味方というわけではない。
「ごめんなさい。迷惑を掛けるつもりはありませんから……」
凛が頭を下げると、老女は何も応えず仕事に戻った。
凛は老女が作っている毛布を見つめた。茶色地に赤と緑と黄色の模様が散りばめられている。それは色付いた紅葉や銀杏が落葉した山道を思わせた。晩秋のこの季節にぴったりだ。しかしよく見てみると、その模様はでたらめに散りばめられているわけではない。きちんと規則性を持って並んでいるのが分かった。複雑に計算された幾何学模様だ。老女はそれを、考える素振りもなく流れるように織り込んでいく。とても優れた職人なのだということが分かる。
「とても綺麗……」
思わず出た凛の感嘆の言葉に、老女は初めて口元を綻ばせた。
「ああ。ここでこのシャナンの右に出る者はいないよ」
怒っているようなしかめつらしい顔の老女が相好を崩し、凛は一気に緊張が解けた。
「シャナン……私は──」
名乗りかけた凛にシャナンは掌を向けて制止した。
「名前は聞かないでおくよ。そうすれば、あんた達があの小屋に住んでいても皆に知らん振り出来るからね。さあ、もう行きな。ここに長居は禁物だよ」
シャナンのぶっきらぼうな優しさに、凛とカイはほっとして微笑を交わした。
仕事の邪魔をしたことを詫び、その場を後にしようと歩き出した。
「身体を冷やさないようにね。気を付けるんだよ」
シャナンは紡いでいる毛糸から目を離さずに言った。凛は自分の腹に目を遣り、掌で優しく撫でた。
「ありがとう」
凛の言葉にシャナンが小さく頷くのを見届けると、手を繋いだまま川沿いとは反対側の山道を登り始めた。