四十五
二人の兵士は、泣き叫びながら抵抗する凛の腕を摑み、引き摺るように森の中を連行していた。
「やめて! 離して!」
「大人しくしろ! この女インディアンめ!」
腰を後ろに落として両足を地面に踏ん張りながら、虚しい抵抗を続ける凛に一人の兵士が吐き捨てるように怒鳴った。それぞれが肩に掛けられたライフルを片手で握っている。尋ねたことには決して口を割ろうとしないこの女インディアンの仲間を警戒しているのだ。
うんざりした声で兵士同士が話し出した。
「これを連行するのか、面倒臭えなぁ。いっそのこと、ここで殺しちまうか?」
「砦に戻るよりも国境の方が近い。メキシコ兵にでも引き渡すか? 金になるぞ」
凛は激しく頭を振り腕を解こうともがくが、男の兵士二人の力には到底かなわない。その時、突然左側の茂みが揺れ、中からカイが飛び出してきた。カイは物凄い勢いで前を歩いていた兵士に体当たりをくらわせた。不意打ちをくらった兵士はもんどりうって倒れ、そのまま反対側の急な傾斜を転げ落ちていく。
「カイ!」
「くそっ!」
残った兵士は舌打ちのような悪態をつくと凛の手を離しライフルを構えた。
カイは体当たりをした勢いのまま地面を転がり、根元に草が生い茂る木々の隙間に姿を消した。
「出て来い!」
兵士は怒鳴りながら、カイが逃げ込んだ木の幹に向かって発砲した。
「やめて! 撃たないで!」
凛がライフルを持つ兵士の手元にすがりついたが簡単に振り払われ、その場に座り込んだ。
「カイ逃げて! あんたまで捕まることない! 逃げて!」
姿の見えないカイに向かって泣きながら叫ぶと、膨らみかけている腹を両腕で抱え込んだ。
「くそっ、どこに行きやがった!」
兵士はライフルに銃弾を装填しながら周囲を見渡した。銃声を飲み込んだ山の中はシンと静まり返っている。動くものは見えない。
「ふんっ! 女を置いて逃げやがったか……おい!」
連れの兵士が転げ落ちていった崖の下に呼びかけた。落ちた兵士は二十メートルほど下の斜面に生えている木の根元に引っ掛かっており、呼び声に手を挙げて応えた。
「怪我はないか?」
膝をついてよろよろと立ち上がる兵士に大声で尋ねる。
「ああ、身体中痛いが大丈夫だ。畜生……」
「なら早く上がって来い! インディアンが一人逃げて行ったぞ!」
凛はしゃがみ込んだまま、もはや動くことが出来ない。
「これでいいんだ……カイまで死ぬことはない。私が一緒にいたんじゃ足手纏いになる。カイ一人なら、きっと何処にでも逃げられるだろう……」
そう自分に言い聞かせていた。
両手で大事そうに腹を抱え目に涙をいっぱいに溜めている凛に兵士が向き直った。恐怖に凍りついたその顔を兵士はまじまじと見て眉をひそめた。これまでに数多くのインディアンを見てきたが、この女の顔立ちに違和感を覚えたのだ。
「お前は……」
「うわぁぁー!」
何の前触れも気配もなかった。突然カイが叫び声を上げ、兵士目掛けて頭上から飛び降りてきた。いつの間にか木に登っていたのだ。カイに襲われた兵士はライフルを落として尻餅をついた。
「くそっ!」
悪態をつきながら立ち上がった兵士は、呆然としたまま動けないでいる凛の右手首を摑んだ。カイとぶつかった時に口の中を切ったのだろう。血の混じった唾を吐き捨てる。カイは兵士が落としたライフルを奪い、草の上を転がって後ろへ退がった。
「彼女を放せ!」
カイはライフルの銃口を兵士に向けて叫んだ。ライフルを奪われた兵士は凛の手首を摑んだまま歯軋りをした。
「そんなことが出来るか! ここはお前らが居ていい場所じゃない! 何故命令に従おうとしないんだ? 逃げ回って何になる!」
唾を飛ばし激しい言葉で責め立てる兵士を、カイは荒い息をつきながら睨み据えている。
黙ったままのカイとしばらく睨み合った後、兵士は凛へ顔を向けた。
「大体、お前はインディアンじゃないだろう。中国人か? あいつにさらわれたのか? そうなんだろう? それなら、こんな獣みたいな生活をすることはない。助けてやるから一緒に来るんだ。暖かい家にも住めるし、綺麗な服だって着れるんだ」
兵士のその言葉にカイの心が揺れた。元々凛はインディアンではないことを思い出した。千代丸と共に異国からやって来たのだ。こんな風に軍隊に追われる謂れなどない。この兵士の言っていることが正しいのかも知れない。凛とお腹の子供の幸福を考えるなら、ここで別れた方がいいのかも知れない。ずっと一緒に居たいという熱望と、凛を愛するならば巻き込むべきではないという理性の間を漂いながら、カイは彼女の決断を待った。
凛は不安そうに瞳を揺らしているカイを見つめた。カイの迷いが伝わってくる。そして自分自身どうするべきなのか分からないでいた。凛は兵士に向き直った。四十がらみのその男は、まるで聞き分けのない娘を優しく諭すような微笑を浮かべて凛を見つめている。
「分かったら一緒に来るんだ。家族の元へ返してやる」
「家族……」
凛が呟くと、兵士は頷いた。
「そうだ。約束する」
何故この人は、と凛は不思議に思って首を傾げた。何故この人は、そんなことを約束できるのだろうか。家族は皆殺されて、千代さえも死んでしまった。そんなことを知っているはずもないくせに。
考えあぐねる凛の頭の中で突然ダニエルの声が聞こえた。
「惑わされるな」
凛は兵士の顔を凝視した。優しい笑顔のままだったが、そのこめかみから汗がひと筋流れるのを見た凛は目を見開いた。
「この人は嘘をついてる」
確信めいた思いが凛の頭の中に満ち、自分の腹に手をあてた。この兵士のいいかげんな言葉など信じてはいけない。お腹の中の子供とカイこそが自分の家族なのだ。
凛は自分でも驚くほど素早く兵士の腰にある拳銃を奪っていた。銃口を兵士に向け撃鉄を起こす。
「馬鹿な! なっ、何をする!」
慌てふためく兵士の腕を解き、凛はゆっくり立ち上がると銃口を兵士に向けたままカイの元へと歩み寄った。
「愚かな女だ……逃げたって無駄だ! どうせすぐに捕まるんだ!」
吐き捨てるように呟いた兵士を睨みながら、カイは自分の元に戻ってきた凛を背後に隠した。もうカイに迷いはない。
「お前らの将軍に伝えろ。もう俺達に構うな。お前らに迷惑は掛けない。世界を喰い荒らし続けたいなら勝手にすればいい。俺達は静かに暮らしたいだけだ。もしそれすら許さないと言うなら、追ってくる奴らは皆殺しにしてやる」
もはやカイは矢が的に当たらなくて悔しがっている少年ではなかった。守るべき家族を得て、勇敢なアパッチの戦士になっていた。
「ハァ……ハァ……」
その時後ろから声が聞こえて兵士は振り返った。崖下に落ちた連れが這い登って来たのだ。
「くそっ! 木の根に躓いて足を挫いた……ん、あのインディアンはどうした?」
兵士は振り向いたが、既にカイと凛は姿を消していた。二人がいた場所には、晩秋の冷気を孕んだ風に撫でられた草木が揺れているだけだった。
「逃げられたのか?」
ブーツの上から挫いた足をさすり、苦虫を噛み潰したような顔の兵士に尋ねた。
「構わん。どうせすぐに捕まえてやる……あの娘、妊娠してた。今捕まえても金は二人分しか貰えないが、ガキが産まれてから捕まえれば三人分だ。外国人だろうが知ったことか、インディアンの子供を身籠ってるんだ。あの女も既にインディアンだ」