四十四
ダニエルを捜して南へ向かった凛とカイだったが、この広い大地で一人の人間と会うことは容易ではない。しかもお互いに身を潜める逃亡者であり、情報も全く入らないのだ。依然としてダニエルの行方は分からない。
二人が国境付近に辿り着いた頃、突然凛が体調を崩した。いつも胃がむかむかとして気持ち悪く、食べ物を受け付けなくなってしまった。カイは凛が何かの感染症にでもかかったのかと心配した。凛自身もそう思っていた。しかし食べた物を吐き戻した直後は驚くほどにすっきりとする。さらに、乳房が張り急に大きくなったことで気付いた。凛はカイの子供を身籠っていたのだ。
こうなっては、これ以上荒野を移動し続けるのは無理だと判断した。二人は渓谷の底を流れる川沿いを上流へと向かい、ついに人の手の入っていない山奥に辿り着いた。ブナやナラの原生林の中を清らかな小川が流れる。その川岸を少し登った場所にティピィーを建てた。爽やかな山の冷気に、降り注ぐ暖かな木漏れ日。小川には魚が泳ぎ、森の中では鹿やリスが顔を出す。上を見上げればカササギが実った果実をついばんでいる。豊かな自然がそこにはあった。
風は全てを奪い、その代わりに新しい種を運んでくる。二人はこの場所で子供を産み、生きていくことを決めた。
新しい生活の中でカイは全身全霊を掛けて身重の凛に尽くした。部族の男達が皆、自分の妻にそうしていたように。苦手だった狩にも必死で取り組んだ。サンにもダニエルにも一人前の戦士とは認めてもらえなかったが、自分がやらなければ凛のこともお腹の中の子供も守ることが出来ない。
最初のうちは地面に穴を掘って罠を作り、ウズラやウサギを獲っていた。しかしやがてやって来る冬に備えなければいけない。一冬を越せるぐらいの食料と、身体を温める毛皮が必要だ。
カイは意を決して獣道の脇に一昼夜身を潜めた。その間、ティピィーで一人待っていた凛は心配と心細さで張り裂けそうになっていた。カイが掘った穴で脚をくじいた一頭の鹿がいた。カイは死に物狂いでその鹿にナイフを突き刺した。足元をふらつかせながら獲物を担いでティピィーに戻ったカイは、身体中が土にまみれ小枝で作った切り傷だらけだった。どさっとティピィーの前に獲物を下ろし、満身創痍の身体を草の上に投げ出したカイは誇らしげな笑顔を凛に向けた。そのカイの姿を見た凛の頬を熱い涙が流れる。大の字に横たわり荒い息をつくカイを覆い被さるように抱き締めた。嬉しかったのは鹿が手に入ったからではない。カイが無事に還って来たことが嬉しかったのだ。自分がどれほどカイに愛され、そして愛しているのか、凛はこの時身を以って理解した。
時は穏やかに過ぎていった。二人きりの森の中、ここへ来てから他の人間を見掛けたことはない。カイとの愛に満ちた暮らしの中で、深まっていく実りの秋と共に凛のお腹の子供も次第に存在感を増してきた。
そんなある日の午後、カイは薪を集めに出て行った。凛はカイを見送った後、ティピィーの近くの木に干してあったカイのシャツを枝から外した。乾いたシャツは日向の匂いがする。それを胸いっぱいに吸い込んで空を見上げた。今日は抜けるような青空で、この季節にしては珍しく陽射しが暖かだった。すると突然遠くの森からばさばさと木がざわめく音が聞こえ、鳥の群れが飛び立ったのが見えた。きっとその場所にカイがいるのだ。
このところすぐに眠くなる凛はティピィーに戻り、床に敷かれた鹿の毛皮の上に横になった。カイはまだ戻ってこない。きっともうすぐ両手にたくさんの薪を抱えて帰って来るだろう。凛は微笑を浮かべたまま、重い瞼を閉じた。
不意に人の話し声が聞こえて凛は目を覚ました。強い睡魔の割に眠りは浅く、ちょっとした物音ですぐに起きてしまうのだ。凛はすぐに上体を起こした。両の掌を毛皮の敷物についたまま、耳を澄まして蒼ざめた。
「おい、見ろよ。インディアンのテントだ」
「ああ、毛皮が干してあるし、薪も積んである。誰か住んでるな……」
「気を付けろよ。何処かに潜んでて、いきなり襲ってくることがあるからな。相手はインディアンだ」
二人の男の声がする。
凛の身体が震えだした。ティピィーの外から聞こえるかちゃかちゃという金属音。居留区のティピィーの中でコナーズ中尉に襲われた時のことを思い出した。あの時も、コナーズ中尉の腰に提げられていたサーベルがかちゃかちゃと不気味な音を立てていたのだ。
「ど、どうしよう……カイ……」
凛はくるぶしまで下げていたモカシンを急いで膝まで伸ばした。しかし、手が震えていてなかなか紐を縛ることが出来ない。そのうちに男達は声を潜め、ティピィーに忍び寄る摺り足の音が聞こえるだけになった。しかし、その不気味な気配はしつこく纏わり付く蟻のように、凛の皮膚を這い上がってくる。サンからもらった赤い鞘に入ったナイフを、やっとの思いで結んだモカシンの紐に挟み、出入り口とは反対側へ這って行った。敷物の下に織り込まれているティピィーの天幕を必死で捲り上げる。
男がティピィーの出入り口を開けたのと、凛が天幕の隙間から外へ出たのはほぼ同時だった。潅木の茂みの中を這ったまま進む。小枝が頬を引っ掻き血が滲んだが、そんなことを気にしてはいられなかった。
「カイ、カイ……」
凛は何度も呟いた。なぜ帰ってこないのか。まさかカイは既に捕まってしまっているのだろうか。そんな不安が渦巻き、目に涙が浮かんできた。
「いたぞ! あそこだ!」
ティピィーの天幕が不自然に捲られているのに気付いたのだろう、後ろから声が聞こえて凛は振り返った。
「やっぱり……
二人の男の青い服が見えた。軍人だ。背筋に冷たいものが走る。凛は震える脚で立ち上がると走り出した。
「おい! 待て! 止まれ!」
兵士の怒声が響き、次いで銃声が響き渡った。恐怖で凛の肩が跳ね上がったが、それでも止まるわけにはいかない。もう一発銃声が聞こえたのと同時に、走る凛の右前方の木の幹が被弾し、抉り取られた木っ端が飛んで来た。ついに凛の足が止まってしまった。
「もうダメだ……」
一度止まった足は竦んでしまい、もう動いてはくれなかった。それに身体が重い。お腹に子供がいるのだから当たり前だ。身体が走ることを拒否している。凛はくず折れるようにその場にしゃがみ込んだ。
「いやぁぁ!」
二発の銃声の後に凛の叫び声が聞こえ、カイは両手に抱えていた薪の束を放り出して走り出した。腰から提げた革の袋が揺れて太腿に当たる。中には山頂付近まで登って採ってきた松の実がぎっしりと入っている。
何が起こっているのかは分からない。しかしただごとでないのは確かだ。カイの心臓の鼓動が激しく跳ね上がる。それでも凛の声がした方を目指し、全速力で走り続ける。幼い頃、戦士だった父親が戦いの神に捧げていた祈りの言葉を呟いた。最後の最後まで、戦う勇気を失わないように、と。
「何があっても守ると約束したんだ……」