四十三
居留区を逃げ出してから五回目の夜明けを迎えた時、凛とカイは目的の場所に辿り着いた。馬に積まれていた食料も既に底をついており、空腹を抱えていたが気にはならない。待ち望んだ生活がすぐそこにあるのだ。
並んで馬を止めた二人は、言葉もなくその光景を見つめた。遠くに見える山塊も岩もサボテンも変わらずにそこにあるのに、あの山だけがなくなっていた。
豊かに茂っていた木々も全て消え失せ、赤茶色の土が露出する山の残骸。鉱脈でも見つかったのだろうか、山肌には木の枠で支えられた大きな横穴が幾つも空けられている。まだ早朝で動かされてはいないが、張り巡らされたワイヤーと滑車の付いたトロッコ。そこにはもはや、あの楽園の面影はない。
サンがその種を守ってきた鹿達も、もうここにはいないのだろう。あの清らかだった小川も、きっと流れ込んだ赤茶色の土で淀んでいるに違いない。凛は激しい絶望感に襲われて頭を左右に振った。
「あいつらは狂ってるのか? 生き物が何にも居なくなった世界で、どうやって生きていくつもりなんだ?」
カイが吐き捨てるように呟いた。
彼らは過信してしまっているのだ。彼らの信じている神が人間と同じ姿をしているから。自分達が一番神に近い存在なのだと。人間は何でも創り出すことが出来るのだと。自分達が自然の一部だとは考えられない。簡単に壊れてしまうもの、でもそれを取り戻すことはとても難しい。難しいどころか、不可能であることの方が多い。凛もカイも、その事は痛いほどによく分かっていた。
もうすぐ労働者達がやって来るだろう。その前にここから立ち去らなければいけない。馬首を転じると、打ち砕かれた夢の残骸である死んだ山に背を向けた。もう枯れてしまったと思っていた涙が一筋頬を伝った。
両側に険しい岩の崖がそびえ立つ涸谷。グローバー大佐を乗せた馬車は、約五百人から成る騎馬隊を率いて南へ移動していた。いよいよ『赤い悪魔』を追うのだ。
奴は数日前にメキシコの山中でメキシコ軍と一戦交え、その後北へ向かったのが目撃されている。これから国境付近でキャンプを張り奴を待ち受ける。南からはメキシコ軍、北からは米軍が奴を挟み撃ちにするのだ。
「フンッ! メキシコ人ごときに手柄を横取りされてなるものか!」
馬車に揺られながら呟いたグローバー大佐は葉巻に火を点けた。
その一行を先導するトパハ斥候長は用心深く周囲に目を遣った。間もなく正午になろうというこの時間、左側の崖の上からは強い陽射しが照りつける。斥候長はここの地形を知り尽くしている。ここがどんなに危険な場所かということも。回り道を進言したが、グローバー大佐は全く意に介さなかった。一刻も早く『赤い悪魔』を捕らえるべく、キャンプ地に着きたいのだ。
斥候長は視線だけを左斜め上に向けた。でこぼことしているはずの崖と空の境目が、強烈な光を放つ太陽によって完全に隠されている。そして少し前から感じる、肌が泡立つような感触。斥候長は肩から掛けた弾薬帯を直し、ライフルに手を掛けた。
「全体、止まれ!」
すぐ後ろ、グローバー大佐が乗っている馬車を操る将校が号令を掛けた。大佐が小用を足すというのだ。斥候長は馬を降りるとライフルを手に取った。
ここで小休止となると、途端に馬車の後ろにいる騎馬隊の列は乱れた。水を飲む者、お喋りに興じる者、馬を降りて腰に手をあて伸びをする者。長い移動の道程で緊張感も途切れたようだ。
将校が馬車の右側の扉を開け、グローバー大佐が尊大な態度で降りてきた。足元で不安定にごろごろする石に悪態をつき、馬車の後ろに回りこむと強い陽射しに目を眇めた。その時日差しの中から一羽の猛禽が現れ、黒い影を落としながら東へ向かってグローバー大佐の頭上を通り過ぎていく。首を巡らし、何気なくその姿を追った。嘲るような甲高い鳴き声を残して、あっという間に猛禽の姿は東の崖の向こうに消えていった。
「フンッ! 鳥の分際で、人を見下しおって……」
苦々しく呟いて顔を西へ向けた時だった。何か先の尖った物が自分目掛けて飛んでくるのが目に入った。空気を切り裂く音が耳を襲う。
それが額に突き刺さる直前、グローバー大佐が最後に見たものは矢に付けられた殆どが白髪の細く束ねられた三つ編みが揺れる様だった。
「忠告したんだがなぁ……」
崖の上の射手から狙われないように、馬車の陰に入っていた斥候長は葉巻に火を点けながら呟いた。今しがた馬車の中からくすねた物だ。グローバー大佐はもう二度と葉巻を吸うことはないのだから構わない。
斥候長は馬車の陰から顔を出し、矢が飛んで来た崖の上を見た。照りつける太陽の光を背に受けて立っていた男が、長い髪を翻して姿を消すところだった。逆光ではあったが、その男の復讐に燃える冷たい眼光が見えた気がした。
「た、大佐が!」
「崖の上だ! 撃て! 逃がすな!」
将校が慌てふためきながら指示を飛ばす。しかし、今までだらけきっていた兵士達の反応は鈍かった。腰のサーベルをがちゃがちゃと鳴らしながら右往左往しているだけだ。
「無駄だよ……」
斥候長が呟くと同時に、耳をつんざくようなライフルの一斉掃射の音が轟いた。
銃声が止み砂埃と硝煙が去った後には、ほんの少し削られた崖があるだけだった。
「残念だったなぁ、大佐……」
目を見開いたまま倒れているグローバー大佐が失禁しているのを見て、斥候長は顔をしかめた。
「最初から無理だったんだ。あんたにジェロニモは捕まえられねえよ。こんな殺気にも気付かねえようじゃな……」
葉巻の煙を吐き出すと、こめかみから流れる冷たい汗を拭った。
その後、行き場をなくした凛とカイは荒野を彷徨い続けた。山の麓にあったメスカルの群生地には新しい町が出来ている。夜になるのを待ってその町に忍び込み、闇に乗じて食堂の倉庫から食べ物を盗んだ。鉱山労働者を相手にする町であり、かなり荒っぽい人間が多いようだ。万が一捕まったら命はないだろう。そう思うと怖かったが、その時の二人には恐怖心よりも怒りの感情の方が強かった。
彼らによって生きる場所である山を壊され、糧であるメスカルまでも奪われた。二人の絶望は、それを行った者達への嫌悪と憎しみに変わっていた。だからといって、ナイフぐらいしか携行していない二人が彼らに立ち向かうことなど到底出来るわけでもない。盗んだ食料を抱え、闇に紛れて逃げるだけだった。
行く当てもなければ、助けてくれる者もいない。二人は人目を忍びながら閉鎖された鉱山に入り、朽ちかけた小屋で寒さを凌ごうとした。長居をするつもりはなかったが、そこで数人の見知らぬ男達と鉢合わせしてしまった。いきなり銃口を向けられた時は「もうダメだ」と観念した。彼らは明らかに無法者だった。しかしその中の一人にナバホ族の青年がおり、彼は凛とカイがアパッチだと分ると仲間に銃口を下ろさせ、話をすることができた。
彼らもまた追われる身であるという。これからメキシコに逃げるつもりだと言っていた。
「メキシコ……」
それを聞いた凛とカイは顔を見合わせて首を振った。自分達がメキシコへなど行けるわけがない。危険すぎる。メキシコ兵に捕まれば悲惨な死が待っている。
メキシコ政府は、アパッチ族の頭の皮に賞金を払う。それは、昔からメキシコのあらゆる町に襲撃と略奪を繰り返してきたアパッチへの報復だ。不正規兵も混じり、アパッチを狙うメキシコ人はたくさんいる。自らそこへ入っていくなど自殺行為だ。
「これより東には行かない方がいいぜ。俺達を追ってる役人や賞金稼ぎがウジャウジャいやがるからな」
リーダー格である金髪の若い男が口元を歪ませて笑いながら言った。
皆からビリーと呼ばれているその男は、これがあたかもゲームであり、それを心底楽しんでいるかのような口調だった。凛は最初、その男は気がふれているのかとも思った。しかし青く澄んだ目はまったくの冷静さを保っている。知性と狂気の狭間で生きている、そんな感じがした。
彼らが持っていた新聞を見て凛は目を見開いた。グローバー大佐が殺されたという記事が出ていたのだ。『アパッチ討伐作戦』のため国境近くの涸谷を移動中、何者かの矢に射抜かれた、と。目撃者の話によれば、崖の上にインディアンらしき男が居たという。
「インディアンの男? ダニエル?」
凛が呟くと、カイも顔を寄せて新聞を覗いた。
グローバー大佐の経歴も書かれていた。『インディアン絶滅政策』の功労者であると。そして、白人と見れば見境なく襲い掛かる凶悪なアパッチの一部族を全滅させたと賞賛し、彼の死を悼んでいた。
グローバー大佐の額に突き刺さった矢には編まれた白髪が巻きつけられていた。彼が全滅させた部族の中には、薄気味の悪い呪い師の老婆がいたことが分かっており、兵士の中では「その老婆の呪いだ」と怯えている者もいる、と。軍への多少の嘲りと、インディアンとは得体の知れない不気味な異教徒であるという偏見に満ちた言葉が連ねてあった。
「これってウナのことだわ。ひどい、そんな風に言うなんて……」
ウナは確かに霊的な力を持ってはいたが、邪なまじないをしたり他人に呪いを掛けたりなどは決してしない。悔しくて涙ぐんだ凛の肩をカイが引き寄せた。
「大丈夫だ……奴らは何も分かってないだけだ。ウナ婆さんの本当の姿は俺達がちゃんと知ってる……それにしても、ダニエルは生きてるんだな……良かった」
もしかしたら、もう一度ダニエルに会えるかも知れない。そう思った二人は、朝が来ると彼らに別れを告げて南に向かった。