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 夏が終わる頃には凛もだいぶ英語が話せるようになっていた。千代丸は凛よりも早く上達していた。結婚前は教師だったというクリスティーナが、暇な時はきまって千代丸の遊び相手になっているので当然と言えば当然だった。

 凛が掃除をしている時など、時折部屋から二人の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。家に居る時も仕事で度々書斎に篭る忙しいトビーは、その二人の様子を微笑ましく眺めている。アンディーとリサは、自分達の母親が血の繋がらない幼い日本人の使用人に愛情を注いでいるのを全く気にしていない。二人とも家族のことに関心がないように凛には見えた。


 夕食時以外はほとんどばらばらに過ごしているこの家族が一つになる時がやってきた。それは晩秋の木枯らしが吹きすさぶ寒い日の夕食時だった。帰宅した時、トビーは「ニュースがある」と興奮した様子で、出迎えたクリスティーナを抱き締めてキスをした。

 煮込んだ牛肉の食欲をそそる匂いがする料理を前に、祈りを済ませた妻と二人の子供はトビーがどんな報せを持って来たのか気が気でない様子で食事を始めた。凛は給仕の為にテーブルの傍に立っている。トビーはパンをちぎる手を急に止め、ソワソワしている家族を見渡してから、もったいぶった口調で話し出した。

「あー、聞いてくれるかな? 私の愛する妻と子供達。実は……ロンドンに帰ることになったんだ!」

それを聞いた途端、家族全員が歓声を上げた。リサがテーブルに身を乗り出し、興奮した声で尋ねる。

「いつ? いつ帰るの?」

「三週間後に出発する。クリスマスは船の上で過ごすことになるだろう」

リサはアンディーの方を振り返り、二人は笑顔を交わした。

「我が家へ帰れるんだわ!」

クリスティーナが胸の前で手を組み合わせて天井を仰いだ。その瞳は、オレンジ色にぼんやりと灯る蝋燭の炎よりも数段輝いて見える。

 そしてその日の夕食の間中、四人ともが互いの顔を見ながら微笑み合っている。故郷が特別なものだということは、日本人でも英国人でも変わらないのだと凛は知った。だからこそ、あの雪の日の夜に山賊に連れ去られて後にした里へ思いを馳せずにはいられない。自分と千代丸もいつか故郷へ帰る日が来るのだろうか、と。


「ロンドンって、どんな所?」

ロバートソン一家の食事が終わった後、台所で食事をしていた時に千代丸がサミュエルに訊いた。サミュエルは目尻に皺をいっぱい作って頷くと、遠い目をして話し出した。

「とても大きな街だよ。人がいっぱい居て、石で作られた高い建物がいっぱい建ってる。鉄道も走っているし……郊外に行けば緑も多くてきれいだ。懐かしいなぁ」

「へぇ~」

千代丸が目を輝かせた。

「一緒に行くのかな?」

千代丸の弾んだ声を聞いて凛は少し不安になった。何といってもそこは異国の地だ。行ってしまったら、もう二度とこの国には戻れないのではないかと。それでも、ここに残ったとしても自分達はまだ子供だ。千代丸と二人きりで生きていくことなどまだ出来はしないだろう。路頭に迷うことは目に見えている。

 千代丸に何と答えればいいのか分からず、凛はただ首を傾げただけだった。


 ロバートソン一家はロンドンへ帰る日をとても楽しみにしているようだ。アンディーとリサは帰ったらどこへ遊びに行こうか、という話に毎日花を咲かせている。クリスティーナは扇子やかんざし等、お土産選びに余念がない。凛はそんな上機嫌の家人達の荷造りを手伝った。

 結局、凛と千代丸もついて行くことになった。最初からクリスティーナはそのつもりだったらしい。可愛い千代丸と離れることは出来ない、と。もはやクリスティーナにとって千代丸はなくてはならない存在になっていたのだ。しかしサミュエルはここに留まることになった。彼はせっかく身に付けた日本語を生かし、ここ横浜で店を出すことを目標にしているのだ。

 出発の日にはサミュエルも見送りに来て、船に大量の荷物を積み込むのを手伝ってくれた。これから乗り込む蒸気船を見て、凛はその大きさに圧倒された。千代丸は嬉しくてはしゃぎ回っている。

 出港する直前にサミュエルは船を降りた。船の甲板に居るたくさんの人が、さらにたくさん居る見送りの人達と手を振り合っている。ロバートソン一家にもたくさんの見送りが居た。アンディーとリサも学校の友達を見付けては声を上げて手を振っている。

「サムー! サムー!」

千代丸は声を張り上げてサミュエルを呼んだ。柵を摑み、精一杯の背伸びをして。凛も腕が千切れそうになるくらいサミュエルに向かって手を振った。サミュエルも笑顔で手を振る。

 岸が見えなくなり、客室へ向かう人波の中で千代丸が凛の袖を引っ張った。

「またサムに会えるよね?」

凛は俯いた。そんなことは分からない。でも自分の期待する答えを待って輝く千代丸の瞳を曇らせることは出来ない。

「うん。きっとね」

凛の言葉に千代丸は大きく頷いた。


 冬の初めの乾いた晴天の下、船は白い煙を吐き出しながら波を切って進んでいく。しかし遠くを見遣るとあまりにも海は広過ぎて、この船がどのくらい速いのかは分からない。空と海がくっついている場所には、いつまで経っても近付かない。

 遮る物の無い大海原で、自分達がこれからどうなるのか、まだ十歳の凛には全く分からない。


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