三十八
朝霧が立ち込める中、凛がティピィーを出る頃には既にダニエルの姿は消えていた。森は静まり返っているから、包囲している軍隊の警備の目を上手くかいくぐることが出来たのだろう。
キャンプ内は重い空気に包まれていた。皆は何をするでもなく自分のティピィーから出て丸太に座っていたり、落ち着かない様子でうろうろと歩き回ったりしている。残り時間も僅かになったこの生活を名残惜しむように。軍の監視下に置かれるこれからの生活に不安を感じながら。子供達だけが、いつものようにとうもろこしのパンを頬張り朝食を摂っている。
そんな中、レッドベアは馬の手綱を引き、軍の砦に出頭するためキャンプを後にした。その後ろにはターニャが続いている。
ターニャが最初に「一緒に行く」と言った時、レッドベアは首を横に振った。しかし父親の胸の内を分かっているターニャは頑として「行く」と言い張った。その強い決意に満ちた眼差しに、ついにレッドベアは折れて娘に同行を許した。そんな二人に誰もが言葉を掛けることも出来ず、その後姿を見送った。
山を下りる途中で五人の騎馬兵がレッドベアとターニャを囲み、丸腰の二人にライフルの銃口を向けたまま砦へと追い立てた。
砦に入るレッドベアの威厳に満ちた堂々とした姿に衛兵達は、ある者は畏怖を感じて黙り込み、ある者は顔をしかめて罵声を浴びせ、その足元に唾を吐いた。そしてレッドベアの後ろを歩く美しいターニャを、口元に歪んだ笑いを浮かべて眺めている者もいた。
「インディアンにしとくにゃ、もったいねぇな……」
そんな囁き声が聞こえた。
レッドベアは自分が率いる民のために最善を尽くすつもりだった。居留地には耕せる土地をあてがって欲しいと。そこでとうもろこしや豆を植えて生きていけるようにと。政府の施しは受けずに、何とか自活の道を切り開こうとした。
命を掛けたレッドベアの嘆願をグローバー大佐は冷笑を浮かべて退けた。
「合衆国政府はインディアンを人間とは認めていない。したがってお前らはアメリカ人などではなく、いかなる権利も与えられない」
軍に監視を受けながら、凛達はレッドベアとターニャの帰りを待っていた。しかし一週間経っても二人は帰ってこない。そして皆は周りを騎馬隊に囲まれ、政府が用意した居留地への道を歩き始めた。今回は馬も没収され、子供達の手を女が引き、老人や病人は男達が背負っている。千代丸はウナを背負い、隣を歩くミアと手を繋いでいた。
山を下り、太陽の照りつける平地を列をなして歩き続ける。日が暮れてくると風が出てきた。次第に強さを増してくる風は、地上の砂や小石を孕んで襲い掛かってくる。皆は頭から毛布を被り、身を縮込ませて歩を進める。ただでさえ暗い夜の中、舞い上がる砂で灯りも役には立たない。
困難な状況ではどうしても歩みが遅くなる。それは騎乗の兵士も同じだ。打ち付けてくる砂混じりの風に馬の歩みも遅くなり苛立ちが募る。その怒りはこの任務の原因となった者達へ向けられる。
「くそ忌々しいインディアンめ! この場で全員撃ち殺してやろうか!」
凛の近くにいる騎兵が叫んだが、その悪態も風に掻き消され微かにしか聞こえない。
「こんな風の中で大きな口開けて、バカみたいね」
凛のすぐ隣を歩く女が、腕に抱いた赤ん坊をくるんでいる毛布を直しながら顔を近づけて囁いた。怒鳴った騎兵は砂が口に入ったのか、苦しそうに咳き込みながら唾を吐いている。凛は同意するように微笑んだ。
全てのものには存在する意味と目的がある。こんな時の風は機嫌が悪く怒っているのだ。そうなれば人間は互いに身を寄せ合って縮こまり、風の怒りが通り過ぎるのを待つしかない。自然の中にあっては、人間など小さな存在なのだから。それがこの軍人達には分からないのだ。力と武器で何でも思い通りに出来ると思っている。だから上手く行かないと怒り出す。凛は彼らを少し気の毒に思った。
丸二日歩き通すと砦が見えてきた。荒地の中にレンガ造りの巨大な建物がそびえている。それを囲むやはりレンガの高い塀。それが途切れた門の前、空中に黒い塊が蠢いているのが見えた。
門が近づくにつれ、それが夥しい数の蝿だと分かる。激しい耳鳴りのようなうるさいほどの羽音の中、門の前に来た誰もが目を見開いて震え出した。
皆が帰りを待っていたレッドベアがそこにいた。白髪混じりの束ねられた長い髪が門のすぐ横にあるポールに結わいつけられ、どす黒く変色した首だけのレッドベアが蝿の隙間から見えた。腐敗が進んでいることから、この砦に出頭したその日に殺されたことが分かる。
その反対側の門の横のポールには全裸のターニャが吊るされていた。全身に切りつけられた痕があり、腕や脚も変な方向に曲がっている。深い傷と血と痣で、もとの肌の色など分からなくなっていた。酷く殴られた顔は腫れあがり、美しかったターニャの面影はもはやそこにはなかった。
遺体の様子はまだ新しい。レッドベアと違い、ターニャは何日もの間、何人もの兵士に犯された挙句になぶり殺しにされたのだ。凛が憧れた流れるような黒髪も右半分が燃やされ、焼け爛れた頭皮が露になっていた。焼け残った髪も汚れにまみれ、もつれて身体に張り付いている。
「何て酷いことを……」
あちらこちらから嘆きの声が洩れ、女達はその場にくずおれて泣き出した。千代丸もすすり泣くウナを背負ったまま、きつく拳を握り締めて歯を食いしばり、叫び出しそうになるのを何とか堪えている。
「立ち止まるな! 進め!」
そこへ騎兵の怒号が飛んでくる。
一行は砦の前で方向を変え、そこから南東に向かう。その砦に寄ったのは明らかに遠回りだった。酋長とその娘の死体を見せ付けるためだ。
「逆らえばこうなるぞ」
彼らは暗にそう言っているのだ。
凛達は何度も砦を振り返りながら荒野の中を歩き続けた。
グローバー大佐は、血に飢えたケダモノどもの気落ちした姿を、口元に歪んだ笑いを浮かべて砦の窓から眺めていた。
捕まえたアパッチの中には政府が血眼になって捜している男はいなかった。そのことには焦りを感じるが、別の部族の一団を捕えたことは讃えられるべき成果だ。その指導者である酋長を殺したことも。たとえそれが至極穏やかな人物で和平を望み、丸腰で無抵抗であったとしても、だ。
新聞はこのことを賞賛の言葉で世間に伝えるだろう。奴が隠し持っていたナイフで襲い掛かってきた、報告書にそれだけ付け加えればいいのだ。それなのに、新たに命ぜられた任務はこの砦に留まり、捕えたアパッチの管理をするというものだった。グローバー大佐は激しい不満を抱えていた。本心では一刻も早く『赤い悪魔』を捕えに行きたい。このままでは他の誰かにその手柄を横取りされてしまう。奴らに酋長とその娘の死体を見せたのは、この憤りの捌け口も多分に含まれていた。
「いい気味だ」
部屋の隅で壁に寄り掛かっていたトパハ斥候長は、グローバー大佐の呟きに顔をしかめた。斥候長は大佐がレッドベアを殺したことにあからさまな嫌悪感を示していた。
「悪趣味だな……」
その言葉を聞いたグローバー大佐は斥候長を睨みつけたが、熱くなってはこっちの負けだ。務めて冷静に、戦争のルールというものをこの無知なインディアンに教えてやろうと思った。
「何を言う。戦犯である司令官を処刑し、兵隊の士気を削ぐ。戦争はそうして終わるんだ。当たり前のことだろう。それに奴らは人間などではないのだから、裁判など必要ない」
斥候長はこれ見よがしに深い溜息をついた。
「大佐殿は全くインディアンのことが分かってらっしゃらない……酋長が殺されたからといって、奴らの戦意が喪失すると思ったら大間違いだ。かえって憎しみが募るだけだ」
グローバー大佐は腕を組み、不機嫌そうに斥候長を睨んだ。その視線にも臆さず斥候長は続ける。
「インディアンはあんたらのように大義名分や物欲のために戦うわけじゃない。部族や家族、何よりも自分の魂のために戦うんだ。アパッチはあんたら白人がこの地にやってくる何百年も前から戦いの中に身を置いていた。戦うことが魂に刻まれているんだ」
また始まった、とグローバー大佐はうんざりして鼻を鳴らした。魂だの精霊だの、この男の言うことは全く理解できない。
「天上を捨て、地上に生まれてきた魂には目的がある。全ては神から与えられたと言って刹那的に生きてるあんたらとは違う。インディアンには審判の日も関係ない!」
「もういい!」
グローバー大佐は斥候長の話を遮った。
「貴様の任務は、野放しになっているインディアンを見付けることだろう。こんな所で油を売ってていいのか? 惨めな収容所で女房と子供達が腹を空かせてるんだろう?」
斥候長は表情をなくした顔でグローバー大佐を見遣ると、踵を返して部屋のドアを開けた。
「せいぜい気を付けることです、大佐殿」
斥候長が出て行き、ドアは閉まった。
グローバー大佐は忌々しげにドアを睨むと、気を晴らすかのように外の死体に目を向けた。
「ふん! 異教徒が!」
グローバー大佐には理解できていなかった。酋長は戦闘の司令官などではなく、部族の調停者であるということに。そして、戦士は一人一人が自分の意思で動くということに。