三十七
木立の中に立つティピィーから出た凛は、大きく息をして森の空気を吸い込んだ。あれから数ヶ月が経ったが、キャンプの中にはまだ緊張感が漂っている。
しつこい軍隊は追跡の手を緩めない。偵察隊の姿を見掛けることもあり、既に二回も移動を繰り返してきた。インディアンの行動パターンを熟知する斥候によって、包囲網は確実に狭まってきている。そして一ヶ所に長く留まれないということは、穀物も植えることが出来ない。備蓄の食糧が底をつけば、飢えが深刻な問題として襲い掛かってくる。敵は軍隊だけではない。
そんな日々の中にあっても彼らは楽しみを忘れない。その日は凛にとって特別な日だった。十六歳になった凛に成熟の儀式が行われるのだ。日が落ちると、高く焚かれた火の周りに独身の男女が集まった。凛はこの日のために用意した綺麗なビーズが散りばめられた服を着ている。
男と女がそれぞれに輪を作り、焚き火の周りを回る。その外側では既婚者が儀式を盛り上げるために手拍子をし、足を踏み鳴らして歌を歌う。喪に服しているターニャも既婚者の中で歌っている。
歌が止むと立ち止まり、内側を回っている男達の中からダンスの相手を一人選ぶのだ。凛が誰を選ぶのか、誰もが微笑ましく見守っている。焚き火の前ではおどけたダニエルが、してもいない蝶ネクタイを整える仕草で凛に自分を売り込み、皆の笑いを誘っていた。その隣ではカイが顔を俯かせているが、緊張に揺れる瞳で凛の一挙手一投足を見つめている。
くすくすと笑う女の子達に肩を叩かれ、はにかみながら凛が一歩前へ足を踏み出した時だった。その場に突然緊張が走った。
暗い森の中から、青い軍服に身を包んだインディアンと白人の将校が現れた。皆、すぐに行動を起こした。女達は子供達を庇い、男達はナイフを抜く者もいれば、ライフルを手に取る者もいた。凛の目の前にいたはずのダニエルも、いつの間にか姿を消している。
「リン」
不意に呼ばれて振り向くとダニエルから弓矢を渡された。ダニエルはライフルを持ち、焚き火に背を向けて辺りに油断なく目を走らせている。
軍服のインディアンは両手を揚げて、交戦の意思はないことを示した。その後ろにいる白人の将校も嫌悪感剝き出しの顔をしてはいるものの、腰に提げた銃に手を掛けてはいない。その将校を守るように、やはり白人の兵士が二人、手にしたライフルの銃口を下に向けて歩いてくる。
「ここの酋長との会談を申し入れたい。こちらは連邦政府軍グローバー大佐だ」
軍服のインディアンがアパッチの言葉で叫んだ。皆は突然の来訪者と一定の間合いを取りながらその動きを見張っている。
凛は矢羽を弦に掛け、鏃を下に向けたままインディアンの斥候を見つめていた。
「あ、あの人……インディアンなのに、どうして軍隊に?」
凛は背中合わせに立っているダニエルに小声で訊いた。
「斥候だ。金で雇われてる。隠れてるインディアンを捜すのは、同じインディアンじゃなけりゃ無理ってことさ」
「どうして、そんなことを?」
「きっと居留地暮らしが退屈で仕方ないんだろう。さもなきゃ、家族を人質に取られてるんじゃないか」
どんな気持ちで軍隊に手を貸しているのか、その男の全く表情のない顔からは推し量ることは出来ない。
それまで丸太に座っていたレッドベアがゆっくりと腰を上げた。
「大事な儀式の途中だったんだ。邪魔をしないでもらいたかった」
レッドベアの穏やかな、それでいて毅然とした態度の抗議に斥候は丁重に詫びを入れた。
「それは申し訳ありません。ですが、こっちの兵士もあなた方を捜すのに疲れてヘトヘトでしてね、お時間を割いていただけるとありがたい」
レッドベアはいつもの思慮深い目で斥候と大佐をしばらく見た後、自分のティピィーに二人を招き入れた。
会談とはいうものの、内容は一方的なものだった。この土地は連邦政府が所有しており、今現在不法に占拠されている状態だというのだ。即刻の立ち退きを命じられた。
「君達が安心して住める場所の用意はある」
グローバー大佐の言葉をそのまま斥候はレッドベアに伝える。
そこでは食料の配給もあるという。これは文化的な生活を拒否し、政府に反旗を翻し続けるアパッチ族に対する懐の深い政府からの恩恵だということだ。しかもグローバー大佐はこう付け加えた。
「これは提案ではなく、政府の決定事項である。受け容れない場合は武力による排除も辞さない」と。
もはや選択肢はなかった。要求を突きつけるとグローバー大佐と斥候は二人の兵士を引き連れて引き上げて行ったが、この山一帯を軍が包囲しているのは皆分かっている。
すでに自分達が囚われの身なのだということを凛は理解した。
そのまま凛の儀式は中止となった。男達はレッドベアのティピィーに集まり、これからのことを話し合う。
皆は逃げ続ける生活に疲弊していた。だからこそ軍の侵入を許してしまったのだ。政府の要求に応じなければ戦いが起きる。この状態では多くの者が死ぬ。女子供だろうと軍隊は容赦しない。皆殺しになるだろう。元々政府はそれを望んでいるのだ。インディアンが死滅することを。
レッドベアは目を閉じて細く長い息をついた。妻を軍に奪われ、そして娘の最愛の伴侶だったサンをも失った。もうこれ以上、誰も失いたくはない。
重たそうに目蓋を開いたレッドベアは静まり返った男達の顔を一人ずつ見つめた。男と言っても年端も行かない少年も多い。レッドベアは静かに口を開いた。
「降伏するしかない……」
女達が集まったティピィーでは、レッドベアの意思を受けてざわめきが広がった。「もうそうするしかない」と頷く者、嘆くように首を横に振る者。
「レッドベアは死ぬ気だよ」
ウナの一言で皆のお喋りが止まった。ウナは相変わらず腰を屈めて座り、長い白髪の三つ編みの先端が床に輪っかを作っている。ウナは呟くように続けた。
「デルシャイ、マンガス……降伏したアパッチの酋長がどうなったかは、皆分かっているだろう?」
和平を求め軍に白旗を掲げたにも関わらず、殺されてしまった別の部族の酋長の名前を出すと、皆は表情を曇らせて俯いた。
「戦いになれば多くの死者が出る。降伏して政府が用意した居留区にいけば、何とか生きていくことは出来る……レッドベアは自分の命と引き換えに、皆が生きていく道を開こうとしているんだ」
全員が押し黙り、ティーピーの中は重い空気に満たされている。父親の決意にターニャは声を出さずに身体を震わせて泣いていた。
その時、「うぐっ、うぐっ」という声がして、全員がそちらに目を向けた。まだ一歳にも満たない赤ん坊に母乳を含ませている女がいる。赤ん坊は目を閉じ恍惚とした表情で懸命に唇を動かしている。誰もがその赤ん坊に魅せられていた。その柔らかい頬を銃火に晒すことは出来ない。
政府に投降することが決まり、ティピィーに戻ったが凛はどうしても眠ることが出来なかった。きっと皆が眠れぬ夜を過ごしているに違いない。横になっていても胸がざわつき、息苦しくなった凛はそっとティピィーを抜け出した。
外に出て頭上を見上げると、木々の隙間から大きな三日月が見える。静まり返った暗い森の中、その中に一つだけ煌々と燃えている焚き火があった。そこに人影が見える。ダニエルだ。
ダニエルは焚き火の前の丸太に座り、膝を抱えてぼんやりと火を見ている。凛が近付き、隣に座るとダニエルはゆっくり顔を向けた。
「何だ? 眠れないのか?」
凛が頷くとダニエルはフッと笑った。
「まぁ、そりゃそうだろうな……」
ダニエルは肩から毛布を被っているが、その中はジャケットにスラックスを穿いていて、まるで街に偵察に行く時のようないでたちだった。
「ねぇ、ダニエル、まさか……」
不安になった凛の問いに、ダニエルは頷いた。
「そうだ。俺は皆とは一緒に行かない」
愕然として言葉を失う凛にダニエルは顔を向けた。
「俺、お尋ね者なんだよ。俺の首に賞金が掛かってるんだ」
そう言って親指を自分の喉の前に立てると、ウィンクをしながらスッと横へ引いた。
凛は訳が分からず一瞬眉をひそめたが、一番最初に会った時の話を思い出した。インディアン寄宿学校を逃げ出した後、無法者と一緒にいたということを。
「いったい、何をしたの?」
「やめとけ。血生臭い話は聞きたくないだろ」
凛が戸惑いながら頷くと、ダニエルは続けた。
「皆と一緒に行っても、居留地に着く前に俺は絞首刑台行きだ。レッドベアも分かってくれた。それに、俺を匿ってたことが分かれば、ここの皆もどうなるか……」
凛は以前目にした街の広場の絞首刑台を思い出した。いつも陽気で頼りになる兄貴分という存在のダニエルが、あのような忌まわしい所に吊るされている姿など凛は想像したくもない。
そしてダニエルがいなくなるということに激しい不安を覚えた。これからどうなってしまうのか。どうして軍や政府はここまで彼らを追い詰めるのか。
「ねぇダニエル、どうしてなの? この国はこんなに広いのに、どうして私達には行き場がないの? どうしてあの人達はインディアンを放っておいてくれないの?」
凛の問いにダニエルは「う~ん」と唸ってから静かに口を開いた。
「きっと、あいつらは俺達を可哀想だと思いたかったんだ」
「どういうこと?」
「人間は大抵、他人よりも優位に立ちたいと思うものだろう?」
凛は黙って頷いた。
「どんなクズでも、自分より蔑むべき存在を見つけると安心できるものなんだよ。あいつらは俺達にそういう存在でいてもらいたかったんだ。あいつらの言うところの文明ってやつに背を向けた俺達が許せないんだ」
「許せない?」
ダニエルは首を傾げて苦笑いした。
「許せないってのは、ちょっと違うかも知れないな……あいつらは自分の見たいものしか見ようとしないし、信じたいものしか信じようとしない。あいつらとは違うものを信じて、あいつらには見えないものを見てる俺達に恐怖を感じるんだ」
凛はこの国に来た時、トビーや新聞などから得た知識でインディアンは野蛮だと認識していた。しかし今では軍人達の方が遥かに恐ろしいと思っている。ダニエルは続けた。
「恐怖は敵意に変わったんだ」
「……自分達と違うから?」
ダニエルは頷いた。
凛は俯き、震える自分の手を握り合わせた。そんな人達の管理下で、これからどうやって生きていけばいいのか、そもそも生きていられるのか。凛は震える唇から途切れ途切れに息を吐き出した。
「リン」
ダニエルは凛の肩に手を置くと、顔を覗き込んだ。
「お前は遠い国から来て、今まで色んなことがあったんだろ? それでも今こうしてここで生きてる。そのことに自信を持て。自分の判断力を信じるんだ」
凛が顔を上げるとダニエルは身体ごと凛に向き直った。
「いいか、あいつらに虫けらのように扱われても卑屈になるな。あいつらはお前に金や物をちらつかせて甘い言葉を掛けてくるかも知れない。でも、そんなものに惑わされるな。そんなものを追い求めるようになれば、お前の魂の自由はなくなっちまう」
ダニエルは自分の胸を拳で叩いた。
「魂はいつだって、自由でなくちゃいけないんだ」
頷いた拍子に零れた涙が凛の頬を伝い落ちた。
「ありがとう、ダニエル。どうか無事で……」
ダニエルは凛をきつく抱き締めた。
「リン、会えてよかった……」
抱き締めるダニエルの腕の力で、これが今生の別れになるということが凛には分かった。