三十六
サンの死から数日が経ち、早くもその日はやって来た。
あの日から男達はもちろん、女達の間にも緊張が高まっていた。キャンプ地の上の崖では、昼夜問わず戦士が交代で見張りに就いている。その他の者も鳥達が不自然に飛び立つ音や、馬の蹄の音に火薬の匂い、そういった物がしないか神経を研ぎ澄ました。サンを失った悲しみに打ちひしがれながらも、いつまでもそこに留まっているわけにはいかないのだ。
その日の夕暮れ時、見張り台の戦士はそれを見た。遠くの平原からこちらに向かってやってくる騎兵隊が上げる大きな砂煙を。
見張りの戦士は崖の上から鷹の鳴き声を真似て皆に注意を促し、兵士の数と位置を腕を振って示した。そうなると人々は大急ぎで身支度を始める。ティピィーを畳み、焚き火も土に埋めた。そこへ草や木切れを被せると、今までの生活の痕跡は瞬く間に消えた。
レッドベアと戦士達が、これから向かう先を確認する。肩から弾薬帯を掛けたダニエルはライフルを馬の鞍に差しこみ飛び乗った。皆が徒歩で逃げる間、全く違う方向に蹄の跡を付けて軍の追っ手を混乱させるためだ。ダニエルはその供に足が速くてスタミナのある千代丸を選んだ。
老人と病人、食料や生活必需品を馬に乗せる。その他の者は歩きで移動をすることになる。二人一組の列を縦に作り、等間隔に戦士を配置して出発した。列の一番後ろの者は足跡を消しながら歩いていく。凛も弓矢を持たされ、小さな男の子と手を繋いでいた。木の根やぬかるみに注意しながら、列を乱さぬように整然と歩いていく。
サンが眠るこの山を離れることは、凛にとって身を切られるほどに辛かった。それでも「サンの魂はもう旅立ったんだ。あそこに眠っているのはサンの抜け殻なんだ」必死にそう自分に言い聞かせ、何度も何度も振り返りながらも足を進めた。
凛達が山を下り、麓に着いた頃には夜の帳に包まれていた。どこからともなくコヨーテの遠吠えが聞こえる。この山からアパッチが逃げ出したことに気付いたのは彼らだけだ。それからは闇に紛れて北の方角へと向かった。
その頃ダニエルと千代丸は馬に乗り、地面に細かく蹄の跡を付けながら南へ向かっていた。今、兵士達は山の西側に居る。山に入った気配はなく、おそらく今夜は麓で野営を張り、明日の朝を待って捜索を始めるのだろう。ゲリラ戦を最も得意とするアパッチに対しては夜目の利かない状況で、しかも彼らの懐である山に入っての戦闘は圧倒的に軍にとっては不利となる。
そして朝が来て軍隊が山に入りダニエルと千代丸が付けた蹄の跡を見つける頃には、凛達は三十マイル以上離れた渓谷に身を潜めているのだ。時間帯も味方をした。隠れる場所のない平地を夜に移動することが出来るのだ。時間を無駄にすることなく。
夜通し歩き続けることは辛かったが、それに文句を言う者はいない。軍の急襲を受けた経験のある者達だ。軍隊の恐ろしさは分かっている。それでも足が止まりそうになる者には、戦士が駆け寄り肩を摑んで激しく叱責する。女子供とて容赦はしない。
「足を止めるな! 歩け! 生きるんだ! 歩き続けろ!」
普段はとても温厚で物静かな男の怒鳴り声に凛は驚いていた。
以前サンが言っていた通りだ。
「体力がなければ逃げられない。逃げ切れない者は死ぬしかない」
凛は乱れそうな呼吸を整えた。自分と手を繋いでいる男の子を見る。機械的に足だけは動いているが、せいぜい五歳ぐらいの子供ではやはり辛いのだろう。疲れと眠気で目がぼんやりとしている。凛はその子を励ますように話し掛け続けた。それは自分のためでもある。幼い頃に母から聞いたおとぎ話をしてやると、男の子の虚ろだった顔に表情が戻った。目を輝かせ、笑顔を浮かべて凛の話に頷いている。足取りも軽くなったようだ。その様子をみて凛の心も軽くなった。
生き抜くためにサンが教えてくれたことを無駄にしたくはない。月だけが照らす荒野を男の子と笑顔を交わしながら、遥か前方にそびえる切り立った渓谷を目指した。
ダニエルと千代丸は山から遠く離れた南の岩塊の入り口に辿り着き、そこで乗っていた馬を放した。その後は歩きで東に向かい、僅かな水が流れる谷の底を北へ向かって走って行く。
夜が明けると岩陰に身を潜め日没を待った。その間、持って来た僅かな干し肉の切れ端で空腹を紛らわし、小さな水嚢の僅かな水で喉を潤しながら。辺りが闇に沈めば、昨夜凛達が移動した平地を走って集合場所へ向かうのだ。風の匂いを嗅ぎ、自身をそれに同化させる。人目に付かぬように気配を消しながら、夜の移動のために身体を休めた。
その頃、グローバー大佐は苦虫を噛み潰したような顔で傍らに立つ斥候長を睨み付けていた。トパハと名乗るその男は、以前メスカルの群生地を調べていたインディアンだ。しかしグローバー大佐にとって、その男の名前などどうでも良かった。獣に名前など必要ない。グローバー大佐は常にそう思っている。自分と同じ軍服を着てはいるが、この男も例外ではない。
この山にインディアンがいると言ったのはこの斥候長だ。三百人の兵士を使って山狩りを行ったにも関わらず、インディアンはおろか奴らがいた形跡すら見つけられない。
「どういうことだ、これは?」
怒りを滲ませたグローバー大佐の詰問に、その斥候長は萎縮するでもなく平然とした顔で答えた。
「逃げられたんですよ」
斥候長は薄暗くなってきた森の中を見渡し、紙巻煙草に火を点ける。肩をいからせているグローバー大佐をチラッと一瞥すると、悠々と煙を吐き出して続けた。
「あんな行軍で来て、山の麓に野営を張って……逃げてくれって言ってるようなもんだ」
自分の戦略を否定され、グローバー大佐は額に青筋を立てた。一昨日の晩には州知事との会食があったのだ。自分のキャリアのためには大切な晩だった。それに砦からこの山へ来るのには半日掛かる。麓で野営をし、朝を待つことは仕方なかったのだ。エリートとして生まれた者に付き纏うしがらみが、インディアンなどに理解出来るはずはない。
グローバー大佐は、初めて会った時からこのインディアンの斥候長が気に入らなかった。前任者との契約があるからと言われたが、インディアンなど信用できない。きっと最初からここにインディアンなどいなかったに違いない。
「こいつは俺を陥れるために、いい加減なことを言っているのだ……いったい何を企んでる?」
煙草をくゆらせながら、しゃがんで小枝や落ち葉の積もった地面を眺めているトパハ斥候長に銃を向けようとした時、兵士の声が響いた。
「蹄の跡を発見しました! こちらです!」
兵士が示した場所には、草や落ち葉を踏みしめた相当数の蹄の跡があり馬糞も落ちていた。それは森の南方へと続いている。グローバー大佐は興奮に身体が震えるのを憶えた。さっきまでトパハ斥候長に疑いを持ったいたことなどすっかり忘れてしまった。
「よし、追跡だ! 奴らは馬で逃げた! 蹄の跡を追え!」
グローバー大佐は興奮した声で叫んだ。勝機が見えた。あの逃げたアパッチ『赤い悪魔』は追い詰めたも同然だ。メキシコを恐怖に陥れ、アメリカの軍隊を翻弄し続けているその悪魔も、こんな形で尻尾を出すとは。グローバー大佐はほくそ笑んだ。
「そんな物いくら追っても無駄だ。下手すりゃ、待ち伏せされて全滅だ」
せっかく高まった気概にことごとく水を差してくるトパハ斥候長の言葉を、グローバー大佐は顔をしかめて無視した。
兵士達はダニエルと千代丸が付けた蹄の跡を追って南方に向かって山を下りていく。麓に着き、そこからの追跡を明朝に持ち越し野営を張った頃、ダニエルと千代丸は兵士達が居る場所から北へ十マイルも離れていない場所を走っていた。
千代丸は弱音も文句も吐かず、ダニエルの指示通りに走り続ける。頭の中では別行動をしているミア達が気になって仕方がない。走るのが辛いとは思わなかった。皆とまた会うために、生きて集合場所まで辿り着かなければいけない。その気持ちだけだった。
二人は朝が来る前に集合場所に到着することが出来た。切り立った岩が乱立する渓谷の中、風から焚き火の匂いが微かに漂う時には二人同時に安堵の溜息が出た。しばらく岩の上に留まり、追っ手がないことを確認して皆と合流した。
子供以外のほとんどの者が起きていて二人を出迎えた。皆と抱き合いながら、一人も命を落とすことなく逃げ切ったことを喜び合った。
グローバー大佐率いる一隊は馬の蹄の跡を追跡し、それが途切れた岩塊一帯の捜索を始めた。しかしどこにもインディアンの姿は見当たらない。鞍の付いた馬が二頭、それぞれ違う場所で草を食んでいるのを発見しただけだ。
斥候長が言った通り、この捜索が無駄足だったと気付いた時には、凛達は元居た山から百マイル以上離れた森の中まで移動を終えた後だった。