三十五
凛はターニャとミアと共に地面に掘られた穴を覗き込んでいる。革のグローブを嵌めたターニャが熱い球根を慎重に取り出した時、狩りに出ていた戦士たちが戻って来た。
ターニャは立ち上がり、美しいその顔に弾けるような笑みを浮かべた。が、次の瞬間その笑顔は凍りつき、持っていたメスカルの球根を落とした。
凛はしゃがんだまま不思議そうにターニャを見上げた。何かが変だ。いつもなら帰って来た戦士に皆が労いの言葉を掛け、陽気にそれに応えるダニエルの声が聞こえるはずだった。今は誰ひとり言葉を発することもなく、皆呆然と立ち尽くして帰って来た戦士達を見ている。
ターニャの隣にいるミアが息を飲み、震える手を口元に当てた。胸騒ぎを覚えながら凛は振り向き、その悪夢を目にした。
「サン……」
呟いたターニャはふらふらとした足取りで、ダニエルが抱えているサンの亡骸に近付いた。
「すまない……ターニャ……」
ダニエルが呟くと、ターニャは黙ったまま首を振った。カイはその横で俯いたまま震えている。
誰かが敷いた毛布の上に静かに横たえられたサン。その周りに皆が集まり嗚咽の声を洩らしている。凛はどうすることも出来ずに、ただ立ち尽くしてその光景を見ているだけだ。頭の中では「この悪夢から早く目覚めればいいのに」と願いながら。
乾いた血と土がこびりついて汚れたサンの顔を、ターニャが涙を流しながら濡れた布で愛おしそうに拭いている。凛はサンを挟んでターニャの向かいに跪くと、新しい布を用意してターニャに渡した。何かをしていないと泣き崩れてしまいそうだったし、それよりもサンの傍に行きたかったのだ。
凛がそっと触れたサンの手は、信じられないほどに冷たくなっていた。初めての狩りの時、涙を拭いてくれたこの手。その後の宴の見張り台で頭を撫でてくれたこの手。あの温もりが、この手に戻ることはもうない。
涙がはらはらと落ちてきた。凛はそれを拭うことも出来ずに自分のスカートの膝の辺りをぎゅっと握り、声を押し殺して泣き出した。
サンの埋葬が済んだ後も、その死を悼む嘆きの声が止むことはなかった。それは大きなうねりとなり、葬送の詠唱と共に森を包み込む。
正直で真っ直ぐなサンは、ここの皆から愛されていた。子供が好きで、皆を守るため責任感も人一倍強かった。肉親全員を軍に殺されたサンにとって、この部族全員が家族同然だったのだろう。
悲しみに暮れるターニャ。ターニャの父である酋長のレッドベアが娘を強く抱き締めている。戦士の妻になったからには、それなりの覚悟はあったのだろうが、こんなにも早く夫を失うことになるとは誰にも予想し得なかったに違いない。そう考えた凛だったが、ウナだけはこうなることが分かっていたのだろうと思い直した。だからこそ、結婚の報告をしに来たターニャに早く子供を作るように薦めたのだ。その証拠に、サンの死を知らされた時、ウナは驚いてはいなかった。ただ悲しみに満ちた嘆きの声を上げただけだった。
人の魂が見える巫女。しかし運命を変える術は持たない。それはどんなに辛いことだろうと凛は想像した。サンの魂が永くこの世界に留まれないことが分かっていても、どうすることも出来なかったのだろう。
父親から離れたターニャは、サンとの新居であったティピィーに火を放った。それは、遺産相続を許さない彼らの風習だ。仲間の死によって誰かが得をするのを嫌うためだ。ターニャはティピィーの外に干してあったサンの服も、サンの為に縫っている途中だったモカシンも燃え盛る炎の中に投げ入れた。形見はなくともサンが生きていた証は、皆の魂に刻まれているということだ。それでも凛はサンから貰った赤い革の鞘に収められたナイフを火にくべることはどうしても出来なかった。決して手の届かない初めての想い人を凛は忘れるはずがない。だとしても、何かしらサンとの繋がりが欲しかった。このナイフを手離したら、きっとサンは凛の存在などすぐに忘れてしまう。そう思えてならなかったのだ。
夜が明ける気配が漂い始めたが、ほとんどの者は自分のティピィーに戻ることもなく焚き火の前でまんじりともせずに座っている。朝が来ても悪夢が覚めることはない。
ターニャは燃え尽きようとしているティピーの前で立ち尽くし、ウナはレッドベアの隣でずっと歌を詠唱している。千代丸とミアはぴったりと身を寄せ合い、手を握りながら涙を流していた。
焚き火の前で丸太に座っていた凛がふと顔を上げると、カイのティピィーの前でカイの父親が困った顔をしてうろうろと歩き回っているのが目に入った。隣で俯きながら火を見つめていたダニエルもそれに気付いて立ち上がり、カイの父親に近付いて声を掛けた。
カイの父親はかつて戦士だったが今は肺を患っており、普段あまりティピィーから出て来ることはない。カイの母親は、カイを産んですぐに亡くなったらしい。
ダニエルは深刻な顔で戻ってきた。
「どうしたの?」
「カイがどこかに行っちまって戻ってこないらしいんだ。埋葬の時にいたのは知ってるんだが……」
そういえば凛もずっとカイを見掛けていない。ダニエルは顎をさすりながら辺りを見回した。
「まったく……斥候がウロウロしてるかも知れないのに……リン、カイの行きそうな所、心当たりないか?」
凛は首を傾げた。
「え? そんなの分かんない……あ、でも、もしかしたら……」
凛とダニエルは朝霧の立ち込める薄暗い森の中へ入って行った。
二人が小川に着く頃にはすっかり明るくなっており、東の空にある太陽が木々の間から柔らかな光を放っている。
「やっぱり……あそこ」
川岸のメスキートの横で膝を抱えて座っているカイの後姿が、手前にある潅木の茂みの隙間から見えた。その途端、眉根を寄せた厳しい表情のダニエルは凛の肩に手を置きその場に留まるように促すと一人で前に進んでいく。
「おい、カイ!」
小川に近付きながらダニエルが呼び掛けると、カイは驚いた様子で弾かれたように振り返った。泣いていたのか汚れた顔、サンの血が付着したままの服。普段は猛々しく見える戦闘用の鉢巻と両頬を繋ぐ黄色の条が、今のその弱々しい表情とは全く釣り合いが取れていない。戦士というよりも、まるでピエロだ。
「一晩中ここにいたのか? 危険だぞ、それぐらい分かるだろう?」
ダニエルの叱責にカイは顔を背けた。
「……俺のことなんかほっといてくれよ。本当なら、俺が死ぬべきだったんだ……何でサンは……俺なんか助けたんだよ? 皆だって、そう思ってんだろ?」
ダニエルはカイの腕を乱暴に摑んで立ち上がらせた。
「冗談じゃない。それじゃあ、サンは無駄死にだったのか? ふざけるな!」
ダニエルの厳しい眼差しに、カイは泣きそうな顔で目を逸らした。普段の鼻っ柱の強さは完全に影を潜めている。そんなカイの両肩を摑んでダニエルは強く揺すった。
「お前が必要のない人間なら、サンはお前を助けたりはしなかった! お前は戦士なんだろう? だったら、お前の命はもうお前一人の物じゃない! 自覚しろ!」
「うっ……うっ……」
カイは感情が昂ぶり嗚咽を洩らした。流れ出した涙を見せまいと一生懸命顔を背けようとしている。ダニエルがカイから手を離し背を向けて、もと来た道を戻り始めた。
「さあ、戻るぞ。ついて来い!」
カイは黙ったまま下を向いて動こうとしない。脇を通り過ぎ歩いていくダニエルの背中とカイを交互に見ながら凛が口を開いた。
「ねぇカイ、戻ろうよ……お父さんが心配してるの……」
しばらく口を一文字に結んでいたカイは、踵を返すとダニエルの後を追った。
森の中を縦一列に歩きながら三人ともが押し黙っていた。一番後ろを歩く凛は、ぼろぼろのカイの背中を眺めて溜息をつく。きっとその心の中もぼろぼろに違いない。そんなことを考えながら。どんな言葉で慰めたとしても、きっとカイは一生背負っていくのだろう。
サンの死は、誰の心にも影を落とした。そしてそれが全ての始まりであり、終わりでもあった。
その夜、戦士たちはレッドベアのティピィーに集まった。
「きっとあちこちに偵察隊がいるはずだ。今急いでここを出るのは得策じゃない」
老練の戦士の言葉にレッドベアは頷き、ダニエルへ顔を向けた。ダニエルが口を開く。
「俺とサンが殺した偵察隊を探しに来るはずだ。もし奴らがここを見付けたからってすぐに攻撃はしてこないだろう。山の中でやみくもにアパッチに戦いを仕掛けてくるほど軍も馬鹿じゃない。その時は……大勢で来るはずだ」
それを受けて一同が頷いた。
レッドベアは眉間に深い皺を刻み、焚き火の煙が吸い込まれていく天井を見上げた。
「まずはインディアンの斥候が来る。もう、ここを突き止めているかも知れんな……姿の見えない奴らは、今この瞬間も我々を見張っているかも知れない」