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三十二

 ターニャの結婚の報告から数日が経った。木々の葉の間からこぼれる柔らかい光が森を踊る中、凛は千代丸のティピィーを訪れた。サンがターニャと結婚したため、今千代丸は一人でティピィーを使っている。きっと散らかしているだろうと思い、必要ならば掃除をするために様子を見に来たのだ。

「千代、いる?」

ティピィーの入り口で声を掛けると、すぐに返事が聞こえてきた。

 ティピィーの中は思いの他きれいに片付けられている。衣類は畳まれて木を組んだすのこの上に置かれているし、きれいに洗ってある食器も隅の方に重なっている。

「ちゃんと……きれいにしてるのね……」

ティピィーの中を見渡しながら感心すると、千代丸はバツの悪そうな顔をして笑った。

「うん……あ、でも俺がやってるんじゃないけどね、あはは……」

凛はすぐにピンと来た。

「もしかして、ミアにやらせてるの? そうなんでしょ?」

結婚する前のサンは、時々愚痴をこぼしていた。「チヨはすぐに物を散らかして片付けない」と。

 後から聞いた話だが、最初に凛と千代丸をどうするかという会合が持たれた時、他の者からは「異国から来た子供など、白人に売ってしまえ!」という意見も出たそうだ。しかしサンはそれに反対したらしい。千代丸が、すぐにここの子供達と仲良くなってしまったからだ。

「チヨが居なくなれば、ここの子供達が悲しむことになる。俺が責任を持ってこいつの面倒を見る」

そう言って皆を説得したそうだ。

 『面倒を見る』というのは、可愛がり甘やかして世話を焼くということではない。この部族のしきたりを教え、自立を促す教育をするという意味だ。あの厳しいサンが注意しても直らなかったのだ。一人になった今、千代丸が急に片付けが出来るようになったとは思えない。

 千代丸は胸の前で掌を振りながら弁解した。

「や、やらせてるわけじゃないよ……その……ミアが、自分から片付けてくれるんだ。『サンが居なくなったから、大変でしょ?』って……」

「まぁ、ミアったら……」

 凛は大きな溜息をついた。ミアに千代丸を甘やかさないように警告しようかとも考えた。しかし、それでは仲睦まじい二人をやっかんでいるみたいだろう。それに、千代丸はその顔立ちのせいで、小さな頃から身近にいる女性のほとんどから甘やかされてきた。しかも好きな女の子がこうして世話を焼いてくれるのだから、千代丸にとっては自然に喜ぶべきことなのだろう。凛は腕を組んでもう一度溜息をついた。

 ここ数日、凛には考えていることがある。ここを出て行こうかと思っているのだ。もちろん千代丸も一緒に。自分達は日本人であり、元々ここの人間ではない。彼らが幌馬車を襲撃し、ここへ連れて来たのだ。

 確かにあのまま馬車に乗っていれば死んでいたかも知れないし、生きていたとしても、精神錯乱状態のクリスティーナによって殺されていたかも知れない。しかし自分達は彼らに受け入れられ、ここで彼らと共に生きている。

 果たして自分達は彼らにさらわれたのか、それとも助けられたのか。なんとも複雑な身の上だ。

「一緒にここを出て行こう」

ミアのことを嬉しそうな笑みを浮かべて話す千代丸の顔を見て、凛はその言葉を飲み込んだ。はたして、それを言ったらどうなるのだろうかと考えた。千代丸はその提案に渋々頷くかも知れないが、きっと悲しい顔をするだろう。凛の一番見たくないものだ。それに、もしかしたら千代丸はきっぱりと拒否するかも知れない。

「俺は行かない。ここでミアと一緒に居る」

そう言われたら、凛にはどうすることも出来ない。千代丸はもはや小さな子供ではないのだ。もう自分の人生は自分で決めるだろう。たった一人でここを出たら、どうなるのだろう。

 凛はあれこれと想像してみた。考えられる限りに明るい未来を。しかし、一人ではきっとどうすることも出来ないだろうと思い至る。凛は以前偵察のために訪れた街の娼館を思い出した。命をすり減らし、危険を承知で僅かな金のために無法者を誘う女達を。彼女達の様に銃を提げた男達がうろつく物騒な街で、生きるために娼婦になるのが自分の末路だろう。

「チヨー!」

 ティピィーの外からミアの声がした。姉は自分に呆れているのだと思い、しゅんとしていた千代丸の顔がパッと明るく輝いた。

「ミアだ! 行かなきゃ! あ、そういえば何か俺に話があったの?」

立ち上がり出口に向かいかけた千代丸が凛に尋ねた。凛は首を振って答えた。

「ううん、何でもない。散らかってないか、様子を見に来ただけ……」

 千代丸の後からゆっくりとティピィーを出た凛は、仲良く手を繋いで森へ向かう二人の後姿を見送った。その向こうには、出来たばかりのティピィーに楽しそうに鳥の絵を描くサンとターニャが見える。

 傷付いた心を抱える凛には辛い光景だが、恋人達が幸せそうに笑っていられる平和がここにはある。そのことは認めざるを得なかった。サンとターニャの仲睦まじい姿を見るのが辛いからと言って、ここを出て行くのは愚かなことなのかもしれない。凛は穏やかに降り注ぐ木漏れ日の温かさを感じながら、自分のティピィーへと戻った。

 

 その頃、山から百数十マイル離れた場所では、ささやかな幸せなどあっという間に呑み込んでしまう程の大きな砂煙が上がっていた。


 東部から来たグローバー大佐は、新しい赴任先の砦に向かう途中で早くも荒れ果てた西部にうんざりしていた。綺麗に整えられた軍服も口の上の髭も、馬車を降りて用を足す間にすぐ埃まみれになる。

「ペンシルヴァニアじゃ、こんなことはなかった」

最近のグローバー大佐の口癖だ。

 彼の任務とは、アリゾナの保留地から逃げ出したアパッチの一団を追跡することである。この国の繁栄を阻む敵だ。

 インディアンなど東部にはいない。東部で起きたインディアンとの戦争など、もはや過去の話だ。豊かで洗練された生活を送っていた自分が、今さらインディアンを相手にするということは憤り以外の何物でもなかった。

 獣のような蛮行を重ねる悪しき異教徒。きっと虫けらほどの知能も持ち合わせてはいないだろう。文明などとは程遠い野蛮人相手に、なぜ軍がこれほど手を焼いているのかが彼には理解出来ないでいた。

 その一団を率いている指導者の噂は何度も聞いている。過去にメキシコの町を幾つも壊滅させたことから、『赤い悪魔』という異名で恐れられている男だ。獰猛かつ狡猾、そして神懸り的な人物だとも。ほぼ同時刻に何百マイルも離れた場所で報告された目撃証言などのせいだろう。

「フン! 臆病者の見間違いだ。大方、黒熊か何かだろう」

グローバー大佐は、そんな獣のような男に神が宿るなどとは考えない。

「神は常に我々と共にある」

グローバー大佐は唾を付けた指で自慢の髭を撫で付けた。

 そのアパッチの一団はメキシコへ向かったと言われているが、神出鬼没で軍は何度も出し抜かれているらしい。先程のような目撃証言も多数あることから、近隣の州に渡って捜索の命令が出ているのだ。奴らを討伐して、初めてこの国の開拓は完成する。

「まったく不可解な連中だ。大人しく政府に従えば良いものを……もはやこの国にインディアンが生きる道などありはしないのに」

不可解なことは不愉快に繋がる。グローバー大佐はガタガタと揺れる馬車の中で腕を組み、大きな息をついた。

「まぁいい。その男の首を捕れば、俺は英雄だ」

そうなれば、こんな荒野になど用はない。いずれは政界に打って出るつもりだ。

 岩とサボテンしかない不毛の地で、むさ苦しい兵士達の陣頭指揮など自分の柄ではない。祖父も父も軍人であった慣習に従ったまでだ。金とビロードに彩られた執務室こそが、自分の本来の居場所だ。彼はそう信じていた。

 ロッキー山脈の麓、台地の上に建つ砦に着くとグローバー大佐は八方に偵察隊を出した。


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