三十一
サンとターニャが結婚する。凛は呆けた顔で、その報告を聞いた。
「ええっ! それで、それでレッドベアは何て?」
ミアが興奮して叫んだ。ターニャは幸せそうに微笑んでいる。それを目の前に、凛は胸がちぎれるような痛みを感じた。ただ引きつった笑いを顔に貼り付かせているだけだ。
「すごい! すごい!」
自分のことのように大喜びしているミアの隣で、凛は涙を堪えるのに必死だった。それと同時に、昨夜のサンがあんなに上機嫌だった訳が分かった。サンもまたターニャと同じ喜びに震えていたのだ。それを勘違いしていた自分を恥ずかしく思った。
「すごいね……ターニャ……お、おめでとう」
凛が何とか絞り出した言葉にターニャは輝くような笑顔を向けた。今朝のターニャは、凛が何をしても辿り着けない程の美しさを持っている。凛は眩しそうにターニャの顔を見つめた。
男なら誰でも、ターニャみたいな女性と一緒に居たいと思うだろう。こんな笑顔を見せられたら、一生守りたいと思って当然だ。自分を納得させようとしたその事実も凛の心に深い傷を負わせただけだった。
「でも、ずっと前から愛し合ってたでしょう? 当然だよね!」
ミアが嬉しそうに言うとターニャは頷いた。
「ええ、軍隊が攻め込んできて私の母さんが殺された時、一緒に手を繋いで逃げたのよ。その後もサンは私を慰めてくれて……自分は両親も兄弟も皆殺されてしまったのに……」
当時の惨劇を思い出したターニャは悲しそうに目を伏せ、それから再び凛とミアに顔を向けて微笑んだ。
「お互いの気持ちに気付いたのはリンと同じ歳の頃だったかしら。でも、サンは戦士になるために頑張っていたから……」
この二人の間に自分が入り込む余地など全くなかったのだということを知り、凛は気が遠くなった。その後はターニャとミアの会話もほとんど耳に入ってはこなかった。段々と広がっていく心の傷が大きな穴となっていくのを止める術もなく感じているだけだ。
ミアとの話が終わると、ターニャはウナの前に跪いた。ウナはほとんど裂け目のような目をターニャに向ける。皺だらけの左手をターニャの手に重ね、右手を艶やかな漆黒の髪に伸ばして優しく撫でた。
「ウナ……」
親しみを込めたターニャの呼びかけにウナは頷き、穏やかな声で語りかける。
「おめでとう、ターニャ。早く子供を作った方がいい」
ターニャは微笑むと、恭しく頭を下げた。
凛の初めての恋は気持ちを伝えることもなく、誰に気付かれることもなく静かに終わった。凛は激しく落ち込んだ気持ちを抱え、俯きながらキャンプ地を歩いていた。部族に久し振りにもたらされた祝い事、殊更憧れのターニャの婚姻に興奮しているミアの傍にいるのが辛いため、凛は「散歩をしてくる」と言ってティーピーを出てきたのだ。
サンがキャンプ地の端っこで、切った木を組み上げて革を張り、新居用のティピィーを造っているのが見える。これから始まるターニャとの生活に思いを馳せているのだろう、十メートル程も離れていない場所に佇む凛にも気付かない。その光景から目を逸らした凛は森に向かった。
いつの間にか小川のほとりに出ていた。初めて鹿を狩った場所だ。川岸に手頃な石を見つけて腰を下ろすと、モカシンを脱いで素足を冷たい川の水に浸した。小さな頃、故郷の小川でよく遊んでいたのを思い出す。母に叱られて落ち込んだ時などは、清らかな水が嫌なことを全て洗い流してくれた。しかし今はもう、そんなことは起こらない。恋することを覚え、それが儚く散ってしまった今では、もう小さな子供に戻ることは出来なかった。
「うう……」
息を吸い込むと自然に嗚咽が洩れた。呼吸が小刻みにしか出来ない。視界が滲み、涙がとめどなく溢れてくる。
「サン……サン……」
呼べば辛くなるだけの名前を何度も何度も呟いた。スカートの膝の部分に幾つもの滴が落ちて染みを作っていく。
「よぉ! リン!」
突然誰かに呼ばれて、飛び上がりそうなほど驚いた。泣いているのを気付かれたくなくて、俯きながらそっと後ろを振り返る。カイだった。
カイは落ちている小枝をパキパキと踏みしめながら大股で歩いてくる。
「ど、どうしたの?」
凛は動揺したまま、震える涙声を何とか隠そうと無理に明るい声を作った。
川岸まで来たカイはそこでモカシンを脱ぎ、鹿の革で出来たズボンの裾を膝まで捲り上げるとザブザブ水飛沫を上げながら小川に入ってきた。
「たまに来るんだよな。気持ち良いだろ? 川の水、冷たくてさ」
凛には目もくれず、手で水をすくうとバシャバシャと音を立てて顔を洗い始めた。
「もう! よりによって……何でこんな時に来るのよ?」
凛は心の中で毒づいた。泣いているなんてことが分かったら、また意地悪をされるに違いないと思い、カイが顔を洗っている隙に涙を拭いてしまおうとした。
カイは鼻の先と顎、濡れた前髪から雫を垂らしたまま、俯いて必死に涙を拭いている凛を覗き見て表情を曇らせた。ぎゅっと唇を引き結んだカイは、手ですくった水を凛の顔に勢い良く引っ掛けた。凛は顔も服もびしょ濡れになり、驚いたために一瞬言葉が出なくなった。
「な……な、何するのよ!」
怒り出した凛にカイはニヤッと笑った。
「な? 冷たくて気持ち良いだろ?」
凛は呆れ果てた。
「まったく、何て意地悪なの。っていうか、すごく子供っぽい!」
凛は水遊びに興じているカイから顔を背け、びしょ濡れの顔を腕で拭った。元々涙でぐしょぐしょだった顔は川の水が混じり、もうどれが涙なのか分からなかった。膝の上の涙の染みも、掛けられた水に紛れてしまっている。
もはやあの状況ではめそめそ泣いている場合ではなく、凛はカイと憎まれ口を叩き合いながらキャンプ地に戻った。すると、ティピィーの中で焚く焚き火用の薪を抱えたサンと出くわした。凛は凍りついたように動けなくなり顔を俯かせた。サンをまともに見ることが出来ない。
汚れた格好の二人にサンは眉をひそめ、それから意味ありげな笑みを浮かべた。
「何だ、二人で水遊びか? お前ら最近仲良いな」
サンに冷やかされ、カイはムスッと不機嫌な顔になった。
「そんなんじゃねぇよ」
カイは素っ気無く返すとプイッとそっぽを向き、自分のティピィーへ向かってずんずんと歩いて行く。凛も黙って俯いたままサンの前を通り過ぎた。
しばらくしてから後ろを振り返ると、サンはティピィーから顔を出したターニャと笑顔を交わしながら肩をすくめていた。幸せそうな二人の姿に、締め付けられた胸を抱えながらティピィーに戻るとウナが一人で座っていた。
「そんな格好でどうしたんだい?」
「あ……」
戻ってくる間に服は乾いていたが、森の中を濡れた服で歩いたのでスカートの裾には土やら埃がこびり付いている。
新しい服に着替えた凛は、自分が脱いだ服を眺めた。前だけでなく、後ろの身頃の裾にも跳ね上げた泥や葉っぱまで付いている。自分のことを、まるで泥んこ遊びをしていた子供のように思えて情けなくなってきた。
「リン、こっちへおいで」
ウナに手招きされ、凛は目の前に正座をした。その垂れ下がった瞼の奥の目は、どこまでも優しく凛を見つめている。凛は無理に笑顔を作ってみたが、きっと情けない顔をしているのだろうと思った。
ウナはゆっくりと凛の肩に触れると口を開いた。
「喜びも悲しみも心の傷さえも、全ては魂に刻まれる。そうしてリンの魂は強くなっていくんだよ」
全てのことは無駄ではない。そうウナは言いたいのだと分かったが、今の凛にはそこまで人生を達観出来るような心の余裕はなかった。
サンを好きになってしまったこと。こんなに傷付くのなら、それがそもそもの過ちだったのだ。出来ることなら、恋などというものを知る前の自分に戻りたい。サンと出会う前の自分に。そんな後悔ばかりが心の中に渦を巻いている。
涙を堪えているせいでひくひくと震えている凛の左の頬をウナの右の掌が包んだ。その手はとても温かく、自然と凛の目から涙が零れ落ちた。ウナは頷いた。辛いときは泣きたいだけ泣けばいい、と。