三十
それからというもの、凛は気分が沈みこむことが多くなった。ターニャと自分を一つ一つ比べては激しく落ち込むのだ。もともとターニャは皆の憧れの女性だ。凛とて例外ではない。美しくて優しいターニャを見て、自分もそうなりたいと願っている。
「でも……あんなに美人じゃないし、胸だって大きくないし、脚だって長くない……」
凛は鏡を見て溜息をついた。
「私がターニャに勝ってるところなんて、ひとつもない……」
「リン、どうしたの?」
凛が覗き込んでいる手鏡の脇からミアが顔を出した。
最近のミアの笑顔は以前にも増して輝いて見える。きっと千代丸と上手くいっているのだろう。自分だけの可愛い弟だった千代丸が、いつの間にか大人になり、好きな女の子が出来たということに凛は少なからず寂しさも感じていた。
「ううん……何でもない……」
凛は弱々しい笑みを浮かべた。それを見たミアは怪訝そうに眉を寄せる。
「リン、ちょっと後ろ向いて」
言われた通りに向きを変えた凛の髪をミアは丁寧にブラシで梳き始めた。凛が鏡を見て溜息をついていたので、どんな髪型にしようか悩んでいると思ったらしい。
千代丸のせいなのか、ミアは最近おしゃれに夢中だ。服に付ける装飾品はもちろん、クリスティーナの物だったトランクからブラシやヘアピン、日本で買ったかんざしまでを使って色々な髪型を研究している。
凛はターニャを真似るつもりで、ミアに「ああしてくれ」「こんな感じで」と注文をつけた。髪をサイドに流し、三つ編みにして肩から胸に垂らす。そして反対側の耳の上にミアがビーズで作ってくれた髪飾りを付けてくれた。
出来上がった髪型は確かにターニャと似ていた。しかし、だからこそターニャと自分の違いをはっきりと目の当たりにしてしまい、凛は再び大きな溜息をついた。
凛は沈んだ気持ちで一人、森の中の丸太に座っていた。
「おい!」
突然声がして凛は慌てて振り返った。背後の木にカイが寄り掛かっているのを目にし、凛は溜息混じりに返事をした。
「何?」
カイは不機嫌そうな顔でしばらく凛を見下ろした後に口を開いた。
「何か……ターニャみたいだな」
「えっ? 本当?」
「髪型だけな」
凛はガックリしてうなだれた。てっきり褒めてくれたのだと思ったからだ。憧れの女性に似ていると言われて嬉しく思わない女などいない。あまりにも意地悪な仕打ちに凛は恨みがましい目を向けた。しかしカイは腕を組み、相変わらず不機嫌そうな顔で追い討ちを掛ける。
「サンがお前なんか相手にするわけないだろう」
「な、何言ってるの? サンのことなんか別に……」
カイの言葉は凛の心に鋭く突き刺さったが、それよりも誰にも言っていないのに何故カイがそのことを知っているのかが分からず、凛は困惑を隠し必死で取り繕う。
カイは疑うような視線を凛に送った。
「へぇ、そうなんだ?」
「そ、そうよ! サンは、何ていうか……お父さんみたいっていうか……師匠……そう! 師匠よ! 弓矢も教えてもらってるし……」
心にもないことをしどろもどろで言っているのが自分でも分かる。カイは凛の話に言葉を被せた。
「どうでもいいけど。皆、とうもろこしの収穫で忙しいんだよ。怠け者は嫌われるぞ」
凛は言葉を切り、立ち上がった。
「行くわよ……」
今日は朝早くから皆が張り切って畑に向かっていたのは知っている。しかし、その活気に溢れた輪の中にどうしても入ることが出来ず、一人で森の中に入ったのだ。
ティピィーが並ぶキャンプ内では、収穫されたとうもろこしが山積みになり、女達が葉をむしったり実を挽いたりしている。誰も忙しそうだがその表情は明るく、手塩にかけたとうもろこしの出来栄えに満足しているように見えた。
「おはよう、リン」
明るい声で挨拶をされ、凛も無理に作った笑顔でそれに応えた。
畑に向かって歩いていると、前からとうもろこしを抱えたサンがこちらへ向かって来るのが見えて凛の心臓は大きな音を立てた。サンはダニエルとターニャと共に楽しげに笑いながら歩いている。
「よぉ!」
凛に気付いたサンが声を掛けた。
「あ……お、おはよう……」
緊張のあまり声が裏返る凛にダニエルが笑い掛けた。
「やぁ、リン! 今日は一段と可愛いねぇ」
「おはよう、リン」
ターニャは今日は畑仕事があることを見越していたのだろう。髪を頭の天辺から編み込んで小さくまとめている。長い髪が邪魔になることもなく、機能的であると同時にとても清楚で素敵に見えた。
凛がターニャに見惚れている間に、三人はすぐにそれまでの話に戻ると通り過ぎて行った。
「綺麗だな、ターニャ……あの髪型、今度同じにしてみようかな……」
懲りずにまだそんなことを考えている凛の後ろからは、不機嫌な顔のカイが歩いていた。
例によって英国紳士に扮したダニエルと共に街へ偵察に行く日がやって来た。ダニエルは毎回、ドレスを着た凛のことを「綺麗だ」「可愛い」と大きな声で褒めちぎる。ダニエルは「とにかく女性は褒めろ」というのがモットーらしいのだが、その隣で呆れた顔をしているサンを見ると、その大げさな褒め言葉もおちょくられているように思えてならず、凛はさらに卑屈になってしまうのだ。
街にはすんなりと到着することが出来た。ダニエルは毎回サルーンでウィスキーを飲みながら新聞を読む。それと同時に周囲の客達の噂話にも耳をそばだてる。ダニエルにとっては、ちょっとした楽しみと情報収集を兼ねているのだ。今日読んでいる新聞によると、ここ最近の政府軍とインディアンによる戦争は熾烈を極めていた。
北の方ではカスター中佐率いる部隊二百二十五人全員がインディアンに虐殺されたと伝えている。そして隣の州では収容所から逃げ出したアパッチの追跡のため、兵士が増員されるらしい。
凛はそういった記事を見るたび不安に襲われる。
「いつになったら安心して暮らせるようになるの? いつまでこんなことが続くの?」
「インディアンの最後の一人が死ぬまでだ」
表情も変えずにダニエルは答えた。
その後、街の中を歩いていても軍隊の姿を見掛けることはなかった。しかし相変わらず腰に大きな銃を提げた男達が闊歩し、彼らを誘うように娼館の前に立つ妖艶な娼婦達が目に付く。そして賑わう広場の絞首刑台には、若いインディアンの男が吊るされている。路地から走り出してきた子供達が、その亡骸に石をぶつけていった。
この街の持つ退廃的な雰囲気に息苦しくなった凛は顔を俯けた。その時大きな音で鐘が鳴り、凛とダニエルは同時に顔を右に向けた。そこには白く塗られた壁の清潔そうな佇まいの教会がある。荒れた埃っぽいこの街の中で、もし少しでも良心が残っているとするならば、その全てがここに集められている。そんな感じがした。
しばらく眺めていると教会の重そうな扉が開き、中から人が出てきた。立派な身なりの壮年の夫婦と、法衣を纏った司教が握手を交わしている。
「あいつ……」
突然ダニエルが呟いた。
「知り合いなの?」
凛の問いにダニエルは頷き、帽子のつばで隠れた目を鋭くその司教に向けている。
「ああ。あいつのことは忘れないさ。寄宿学校で宣教師をしてた奴だ。よく『ケダモノ!』って言われて鞭で叩かれたもんだ。俺だけじゃない、皆あいつにやられてた。インディアンの子供達をいたぶるのが、あいつの楽しみだったんだ。聖職者のくせしてインディアンの若い女を何人もおもちゃにしてたのも知ってる」
凛は身じろぎも出来ずにダニエルを見つめていた。いつも陽気なこの男からは想像も出来ないような、ただならぬ殺気が漂っていたからだ。そしてダニエルの話を聞いた途端、一点の穢れもなく見えていた教会の壁の白さが、さっき通りで見掛けた娼婦の悲壮感に満ちた素顔を隠すために塗りたくられた白粉を思い起こさせた。
夫婦が立ち去ると司教はローブをはたいて埃を払い、甲高い鳴き声を上げながら教会の上空を旋回するノズリを顰めた顔で一瞥し、建物の中に入って行った。
「さぁ! リン、そろそろ行こう。そうだ、キャンディーでも買ってやろうか?」
顔を上げたダニエルは、いつもの陽気さを取り戻していた。
「いらない。子供じゃないもん」
「あはは、そうだったな。貴婦人だもんな?」
ダニエルは大きな笑い声を上げながら、チュールの付いた帽子の上からポンポンと凛の頭を撫でた。全くの子供扱いに凛は不機嫌となり、頬を膨らませてそっぽを向いた。
凛とダニエルが山へ戻った頃には深夜近くになっていた。皆ティピィーの中なのだろう、人影は見えない。
「俺はレッドベアーと話があるから」
「分かった。後は任せて」
凛はダニエルから馬の手綱を受け取った。
馬を繋ぎながら、歩き去っていくダニエルの後ろ姿を見ていると、レッドベアのティピィーからサンが出てくるのが見えた。二人で二言三言言葉を交わした後、ダニエルがレッドベアのティピィーに入って行った。
凛がかいば桶を馬の前に置くと、水の入った重い桶をサンが運んでくれた。すぐ近くにサンがいるということに凛の胸は高まり始める。
「あ、ありがとう……」
「いいや、ご苦労さんだったな。どうだ? 何か変わったことはあったか?」
凛は馬の鞍を外しながら、教会の前でのダニエルの様子を話そうかと思った。司祭に向けられた、あの憎しみに燃えた目のことを。しかし、こうして夜にサンと二人きりでいることに緊張してしまい、言葉がなかなか出てこない。凛は首を振った。
「わ、私は……ダニエルについて行っただけだから……」
それだけ言うのが精一杯だった。それにあの街であったことは、後で直接ダニエルがサンに話すだろうと思った。二人はとても仲がいいのだから。
「そうか」
サンは笑って頷いた。なぜだか今夜のサンは機嫌がいい。
片付けが終わると、サンは「うーん」と唸って腕を伸ばし、夜空に顔を向けた。くっきりとした満月が空の高い所で輝いている。凛は、微笑を浮かべて月明かりを浴びるサンを見つめた。その整った端正な顔立ちに、凛の心は締め付けられるようだった。
胸を焦がすこの想いに気付いてくれる日は来るのだろうか。もしこの気持ちを受け入れてくれたなら、後はもう何もいらない。凛は心の底からそう思った。しかし、そんな言葉を口に出すことなど出来るはずもなく、ただ黙って立っているだけの凛にサンが顔を向ける。凛は慌てて目を逸らした。
「何だ、疲れた顔してるな。早く休んだほうがいいぞ」
サンは笑みを浮かべたまま凛の肩を軽く叩くと、千代丸が寝ているティピィーへ戻って行った。
その夜、凛は眠りにつくまでずっとサンのことを思い浮かべていた。月光の中のサンの穏やかな笑顔、思わず触れたくなるほど愛おしい唇からこぼれてきた言葉の一つ一つを。甘く疼く胸を抱き締めながら、夢の中に落ちて行った。
次の日の朝、凛のティピィーにターニャがやって来た。
「おはよう、皆」
いつにも増して明るい笑顔のターニャは、今までで一番綺麗に見えた。
「ねぇ聞いて、あのね……」
「どうしたの?」
自分の髪を編みながらミアが尋ねた。ターニャはそのほっそりとした頬をバラ色に染めている。
「昨夜サンがね、父さんに私との結婚の承諾を貰いに来てくれたの……」