三
次の日、朝食を摂った後すぐにお梅に連れられて一晩泊まった女郎小屋を後にした。途中で役人の制服を着た男と合流し、洋館が立ち並ぶ界隈へ来た。ほんのりと潮の香りがする。
役人が立ち止まり手で示した家を見て、凛と千代丸は口をあんぐりと開けたまま立ち尽くした。凝った装飾の鉄の門、綺麗に手入れされた庭の向こうには二階建ての白亜の洋館がある。こんな建物を見るのは初めてだ。
家の中へ促され、ふかふかと柔らかい椅子に座らされその感触に楽しんでいると、この家の住人が出てきた。黄金色に輝く髪、雪のように白い肌の婦人だ。胸元にたくさんひだの付いた藤色の服を着ており、床に届きそうなスカートはたっぷりと膨らんでいる。その優雅な佇まいに驚いている千代丸の顔を見るなり、婦人の大きな青い瞳が輝いた。
昨日の会話で、女中を探しているのは異国の人だとは聞いていたが、こんな姿の人は見たことがない。凛も千代丸も目を見開き、言葉もなく固まっていた。
「この子達は、家族が山賊に襲われてみなしごになってね……」
お梅が哀れを誘う口調で説明を始めた。それを役人が異国の言葉で異国から来た婦人に話す。
「オオ……」
異国の婦人は大きく開けた口元に手を当て、悲しそうな顔をして首を振った。
少々大げさとも思えるその仕草に、凛と千代丸は唖然として互いの顔を見合わせた。その睦まじい二人の様子が余計に婦人の心を捉えたのか、歩み寄った婦人は千代丸を愛おしそうに抱き締め、それから凛の肩を抱いた。
それから凛と千代丸はロバートソン一家が住むこの洋館に住み込みで働くこととなった。
その家の主はトビーという名前で、日本に出来たばかりの鉄道の技術者として英国からやって来た。茶色の髪に、やはり茶色い髭が鼻の下で綺麗に整えられている。大きな身体に優しそうな目の穏やかな人物だ。
一番最初に会った婦人は彼の妻であり、名前をクリスティーナという。彼女は明るく常に活力に溢れ、外国の生活を楽しんでいるように見える。機知に富んだ感情表現豊かな彼女の話を、夫のトビーはいつも微笑みを浮かべて聞いている。
彼らには男女一人ずつの子供がいる。アンディーは十三歳、その妹のリサは十歳だ。二人とも母親と同じ金色の髪と青い目をしている。白い肌の両頬に揃って無数のそばかすが散っており、性別も年齢も違うが、凛には二人が同じ顔に見えた。しかし情の厚い母親とは違い、二人はいつも意地の悪そうな冷めた視線で凛と千代丸を眺めている。
最初はあまりにも違う生活様式や、通じない言葉に戸惑っていたが、この家の料理担当をしているサミュエルという初老の男性が日本語に通じていた。彼と言葉を交わすうちに段々と彼らの生活に溶け込めるようになっていった。
白いブラウスにひだの付いた紺のスカート、千代丸も白いシャツに紺の半ズボンを穿き、今までしたこともない格好に互いを見てクスクスと笑い合う。言葉も段々分かるようになってきた。「ウォーター」と言えば水、「ティー」と言えばお茶というように。
ロバートソン一家は毎日午後にお茶を飲む。同じ英国人の子供が行く学校に通っているアンディーとリサも一緒に。そして近所に住む奥様方が来て、賑やかな茶会が開かれることもある。それは凛と千代丸にとって、とても楽しみな催しだった。テーブルを囲む婦人に茶のお替りを持って行くと、二段になった皿の上の菓子が褒美に貰えるのだ。その菓子はそれまで食べたことがない物で、とても甘くて美味しかった。
菓子を受け取って嬉しそうに笑う千代丸を、婦人達も目を細めて楽しそうに見ている。お替りの声が掛かると、「お菓子が貰えるよ」と言って凛は千代丸を促していた。
サミュエルから言いつけられた買い物の帰り、港町を歩きながら凛は海を見ていた。ここに連れて来られるまで海を見たことはなかった。家族で海を見たことがあるのは父だけだ。父は自分が見た海について教えてくれた。青く、どこまでも果てしなく続くと。
何隻もの船が空と海が一つになる所を目指して行くのが見える。その先には広い広い世界があるのだと父は教えてくれた。しかし今の凛には、それがどういうものなのか想像も出来ない。
藩からの命を受けて新政府軍と戦った父だったが、こんなことを言っていたのを憶えている。「もうすぐこの国は変わる」と。海のように新しい波が幾つもやって来るのだと。その波の中をしなやかに泳いで行かなければいけなくなる。
「しかし、きちんと己というものを持っていなければならない」
父はそうとも言った。そうでなければ波に飲まれ、いいように弄ばれるだけだ、と。
凛には父が何を言おうとしていたのかはよく分からない。「新しい波」というのは今のこの状況を示しているのだろうか。凛は先ほど買い物をしてきた賑わっている界隈を振り返った。ロバートソン一家のように異国から来た人々を多く見掛ける。凛が生まれ育った場所では考えられない景色だ。自分は今、この波の中を泳げているのだろうか。それとも弄ばれているだけなのだろうか。
凛はふと故郷のことを思った。既に春は過ぎ、こうして荷物を持って歩いていると汗ばむほどの季節になった。きっと今頃は、雪溶けの豊かな流れを湛えた小川のおたまじゃくしには小さな手足が生え、タニシが姿を見せる頃だろう。父が死んでからはそんな余裕もなくなったが、それまでは三人の兄や千代丸とよく小川で遊んだものだった。あちらこちらに紫陽花や雪ノ下が咲く凛の大好きな季節。
「みんな、どうしてるんだろう……」
急に郷愁に駆られた。帰りたくて堪らなくなったが、もう母も兄達も居ないのは分かっている。それに使用人といっても今の暮らしは以前とは比べ物にならないほど豊かだ。食事も着る物も。九歳の自分と七歳の千代丸二人だけで生きていけるほど、この世の中は甘くないことも分かっている。それに自分達は幸運だったのだ。普通に考えれば山賊が家に押し入ってきた時に殺されていただろう。
そして自分には千代丸がいる。独りではない。何があっても千代丸と二人で生きていかなければならない。凛は海を見ながら頷くと、ロバートソン邸に戻るため高台への道を歩き始めた。
邸に戻ると庭では千代丸が柄杓で植木に水を撒いていた。その隣ではクリスティーナが薔薇を摘んでいる。二人とも笑顔でとても楽しそうだ。クリスティーナは千代丸を可愛がっている。千代丸も素直にその愛情に応えていた。殺された母が不憫にも感じたが、千代丸が幸せである、そのことが一番大事だと凛は思った。