二十八
凛達がキャンプ地に戻る頃には、すっかり日が暮れていた。それにも関わらず、皆は戦士達が獲物を持ち帰ったことに高揚した。天にも届かんばかりに火が高く焚かれ、女達は鹿と七面鳥を捌き干し肉を作り始める。残りの者は燃え盛る火の回りで歌い、または踊ったりしている。命の熱狂、そんな言葉がぴったりだった。
疲れ果てていた凛は大きな焚き火から少し離れた所にある丸太に座ってそれを眺めていた。火の回りではカイの隣で千代丸が楽しそうに踊っている。ウナは山の精霊を讃える歌を詠唱し、ミアとターニャは干し肉作りに勤しんでいる。
ひと際騒いでいたダニエルが踊りの輪から離れて凛の隣にやって来た。
「リン! 飲め! ほら、ほら!」
ダニエルは手に持っていたウィスキーのボトルを差し出した。
「えっ? でも……」
今まで酒など飲んだことがない凛は躊躇した。それでもボトルを差し出すダニエルのきらきらとした楽しそうな目を見ていると、とても断ることが出来そうな雰囲気ではない。凛は恐る恐るボトルに手を伸ばした。ボトルにゆっくり口を付けると、それだけで酔ってしまいそうな程のどぎつい匂いが鼻をついた。
「ほら! グイッといけ!」
ダニエルに大きな声で言われ、凛はボトルに口を付けたまま思い切って一口呷った。いつもサンやダニエルがやっているように。
言われるがまま酒を飲んだ凛はすぐに後悔した。強い苦味に舌が痺れ、飲み下すと喉が焼けるような痛みに激しくむせてしまった。
ゲホッ! ゲホッ!」
「アハハハハ! もしかして初めて飲んだのか? そうなのか?」
声が出せず、喉を押さえたまま凛はダニエルに頷いた。顔をしかめて身を縮こませると、全身にぶるっと震えがきた。
「アハハハ! 全く、可愛いなぁ、リンは!」
ダニエルは丸太から転げ落ちそうな勢いで笑っている。
「笑い過ぎよ! もう、悪ふざけはやめて!」
むくれた凛と、まだ笑いの止まらないダニエルのもとに一人の女性がやって来て、笑顔で鹿肉のバーベキューと、とうもろこしのパンが載った皿を差し出した。
肉汁で濡れた湯気の立つサイコロ状の肉を見ると、凛の腹の虫が騒ぎ出した。朝早くから狩りに出ていて何も食べていなかったのだ。焼きたての温かい肉はジューシーでとても美味しい。普段は保存が出来て、持ち運びにも便利な干し肉を食べることが多かったから。この新鮮な鹿肉を使ったバーベキューは、食料をもたらした戦士への労いと褒美なのだ。
ダニエルも美味しそうに肉を食べて酒を飲み、「もっと踊れ! 歌え!」と皆を煽っている。いつにも増して陽気だった。
「いや~楽しいな~。リン、見てみろ、あの子供達の顔」
今日だけは夜更かしを許された子供達が、踊りの輪の外側をはしゃいで走り回っている。どの顔も炎に照らされ上気している。
凛は自分が育った里の、年に一回行われる祭りを思い出した。普段は真っ暗な夜の里が、焚かれた炎によって赤く照らし出されていた。見慣れたはずの木や畦道がいつもとは違って見え、見知らぬ世界を覗いているような気がして興奮したものだ。それは、その年の豊作を願う祭りだった。やはり人々は火の回りで太鼓や笛の音に合わせて踊るのだ。一年間、誰も飢えることなく生きていられることを祈りながら。
大人が踊る命のダンスに合わせ、見様見真似で身体を動かしながら子供達はその魂に刻んでいく。生きていることの喜びと、命あることの尊さを。それは彼らの子孫にも伝えられるのだろう。こうして命は繋がっていく。
いつの間にかダニエルは踊りの輪の中に戻っていた。焚き火を見つめていた凛は自分の顔が火照っているのを感じた。この宴の熱気のせいなのか、無理矢理飲まされたウィスキーのせいなのかは分からない。おそらくその両方だろう。そこへさっきの女性がやって来て、焼いた鹿肉を盛った椀を凛に差し出した。
「これをサンに持って行ってね」
その名前を聞いた凛は幸福な気持ちに包まれて頷いた。
サンは凛が今いるキャンプ地の遥か上、斜面に張り出した岩棚の上で見張りをしている。天を焦がすような大きな火を焚いているのだ。その光が遠くにいる軍隊を呼ぶ恐れもある。
今時、居留区以外にインディアンがいると分かれば、軍隊は大勢でやって来るはずだ。その時には、捕まる前にこのキャンプの形跡を全て消して逃げなければならない。そのためには近付いて来る敵をいち早く見つける必要があり、その見張り役をサンは買って出ていた。
凛はサンの食事を薄い鹿革で風呂敷のように包むと斜面を登った。崖は険しいが、モカシンは既に凛の足の一部になっているほど馴染んでいる。
「冷めないうちに届けなきゃ」
心の中でそう自分に言い聞かせながらも、心臓は別の理由で高鳴っていた。
「どうした?」
サンがいる岩棚のすぐ下、斜めに生えている木に手を掛けたところで声がした。凛が崖を登って来ていることは、おそらくずいぶん前から分かっていたのだろう。
「食事を持って来たの。よいしょ……」
木の根に足を掛け岩棚の上によじ登った。サンは山の斜面に背中を付けて胡座をかいている。その膝の上にはライフルが横たわっており、サンの視線は油断なく遠くの森へ注がれていた。山の中のどんな小さな変化も見逃さないように。
凛は食事をサンのすぐ横に置くと、その隣に膝を立てて座った。サンはほのかに湯気の立つ鹿肉を口に運ぶとゆっくり噛んでいく。その間も自分の任務を怠ることはない。
「お前は食べないのか?」
サンの問いに凛は首を振った。
「さっき食べたから。それに、焚き火の熱さで頭がボーっとしちゃって……もしかしたら、ダニエルに飲まされたウィスキーのせいかも知れないけど。ついでにちょっと涼みに来たの」
炎は二人の遥か眼下にある。いつもなら凍えるような夜の冷たい風も、焚き火の熱が混じり暑くもないし寒くもない。夜空は炎の赤を映している。濃紺から赤紫への境い目は風に呼応して揺れ、それを見つめていると自分が波の中を漂っているような気になってくる。ダニエルの行いに「クックッ」と笑うサンの声はとても穏やかで、凛がこの岩棚にしばらく居座ることを認めてくれているようだ。
「あまり前に出るなよ。斜面に影が映る」
「はい」
凛は膝を立てたままの姿勢でモゾモゾと尻を動かし、背中が斜面に当たるまで後ろに下がった。
サンが食事を終えた後、二人の間にあるのは長い沈黙だけだったが、それでも傍に居られるだけで凛には満足だった。
「時間が止まればいい……ずっとこのまま……」
凛は立てた膝に顔を埋め、声には出さずに唇だけを動かした。
「リン、何か話せ。眠くなってくる」
突然サンが静かな声で呟いた。そう言いながらも視線はしっかりと暗い闇に沈む森の方へ向けられている。
「えっ? でも……何を?」
「何でも良い。そうだな、お前の生まれた場所のことを話せ。どんな所だ?」
下から響く歌声と歓声を聞きながら、凛は故郷の景色を頭に思い浮かべた。
「あのね……山に囲まれた小さな村で、田んぼとか野菜を作ってる畑があって……近くには綺麗な小川も流れてるの。冬になるとね雪が降るの、それもたくさん。私の背丈よりも高く積もることもあるわ。あ、でも……あれは子供の頃のことだから、今の私の背丈じゃ、どうか分からないけど……」
凛は一気に喋った。その意識は一面の雪景色の中にある。田んぼも畦道も全て雪で埋め尽くされ、平らになった白い地面。ザクザクと踏みしめると、まるで雲の上に居るような気がしたものだ。
そして、あの日のことも思い出した。母と兄達が殺されたあの夜を。不意に襲ってきた悪夢の記憶を追い払おうと、凛はきつく目を瞑ると頭を振った。サンはそんな凛をちらっと見ただけで視線を森へ戻した。気を取り直し凛は話を続ける。
「春になると山に桜が咲くの」
「サクラ?」
「そう、一本の枝に小さなピンク色の花がたくさん咲くの。ピンクっていっても、赤っぽいのや白っぽいのも色々あってすごく綺麗なの。私の母は、桜が好きで……よく庭に出て山の斜面いっぱいに咲いてるのを眺めてたわ」
目を閉じると、父が死んだ後に庭で母と手を繋いで桜を眺めた時のことが浮かんだ。その時凛は不安でいっぱいだった。父が死んでしまい、これから自分達家族はどうなってしまうのか。気丈にも涙こそ見せてはいなかったが、寂しそうに桜を見つめる母が哀れに思え、あまりにも早く逝ってしまった父を少しばかり恨みもした。
凛は母の着物の袖を引っ張った。振り向いた母は凛の不安を察したのだろう、柔らかく微笑んだ。
「御覧なさいな、凛。桜が綺麗だわ」
遠くの山肌を彩る可憐な桜を指差した。凛は桜よりも母のことが気になっていて、桜を見つめる母から目が離せなかった。
「凛、私はここへお嫁に来て、とても幸せですよ。あの人は死んでしまったけれど、こんなに美しい景色を私に与えてくださったのだから」
それが母が見た最後の桜だった。
「すぐに散っちゃうけどね」
明るく言ったつもりだったが、笑顔が引きつっているのは自分でも分かった。声が震えてしまいそうで、凛は押し黙って俯いた。
「まだ、日本に帰りたいのか?」
サンの声が聞こえて凛は顔を上げた。昨日までの自分ならば「当たり前でしょ!」と即答していただろう。でも今はそんな気持ちも揺らいでいる。凛はサンの横顔を見つめた。
「あなたと、ずっと一緒にいたい……」
そんなことなど言える筈もなく、熱くなってきた顔を隠すために再び下を向いた。
押し黙り俯いている凛を見て、サンは今のが愚問だったと思い詫びを入れた。
「変なこと訊いて悪かったな。帰りたいに決まってるよな」
サンが手を伸ばして凛の頭をクシャクシャと撫でた。自分の気持ちに全く気付かないサンのことを、凛は上目遣いで覗き見ると溜息をついた。