二十七
「よくやった」
サンからの労いの言葉が空虚に聞こえた。自分のしてしまったことが信じられない。
「どうして? どうして……私にこんなことさせるの?」
口からついて出た言葉も溢れる涙も、心に押し寄せる罪悪感も止めることが出来ない。
「お前、腹は減らないのか?」
サンの質問に凛は涙を拭くことも出来ずに顔を上げた。
半開きの口から一筋の血を流し、今は何も見えていない死んだ牡鹿の真っ黒な瞳が凛を捉えた。サンは顔色一つ変えずに、その牡鹿の脚をロープで縛っている。
「い、今……何て?」
「お前は何も食わずに生きていけるのか?」
「…………」
何も答えられずにいる凛をせせら笑うようにサンは続けた。
「まぁ、ロンドンじゃ切ってある肉が店に並んでるんだろうからな」
凛は俯いた。確かにそうだ。店に並んでいる物も、かつてロバートソン邸のテーブルに並んでいた皿に綺麗に盛り付けられた肉料理も、元は全て生きていた動物なのだ。
多くの人の目には触れなくとも、誰かが手を下している。誰かがやらなくてはいけないこと。美味しい食事は食べたいけれど、手を下すのは可哀想だから嫌だというのはここでは身勝手に過ぎない。あの頃のきらびやかな生活の中で、そんな当たり前のことも忘れてしまっていたのかも知れない。それでも目の前に横たわる自分が殺してしまった牡鹿を見ていると、気持ちがすぐに吹っ切れるわけでもなかった。しゃくり上げることも、涙が流れるのも自分では止められない。
サンは鹿の脚を縛っている手を止めると、座り込んでいる凛の前にしゃがみ込んだ。
「コイツの肉だけじゃない。毛皮は寒さから身を守ってくれるし、角も骨も俺達には必要なんだ。あそこの子供達を飢えさせたくはないだろう?」
凛がぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げると、サンは両の掌でぐいっとその頬を拭いた。
「生きるっていうのは、こういうことだ」
凛はハッとした。ずっと前に父親にも同じことを言われたのだ。あの時は岩魚だった。しかし死んだ岩魚がかわいそうだと言って泣いたのは千代丸だ。凛はそんな風には思わなかった。それは何故だったのか、凛は自問した。岩魚の命が鹿のそれよりも軽いということはない。命は命だ。そんなことは分かっている、筈だった。それでも無意識のうちに命に優劣を付けていたのだ。凛は頭をうなだれた。自分は父の言ったことを、本当はきちんと理解してはいなかった。
「顔を上げろ」
サンに言われて凛はその通りにした。じっと凛の顔を見たサンは、それから自分の汚れた掌を見て気まずそうな表情をした。
「悪い……顔を汚しちまった。美人が台無しだな……」
サンは苦笑いしながら凛に掌を見せた。泥で汚れた掌。でもそれはとても大きく、自分の父親の手もこんな風だったのかと凛はふと考えた。思い出せない自分が悔しい。
凛はサンの手にしがみつくと再び泣き始めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
その謝罪は何に対してなのか、命を軽視していた岩魚に対してか、殺めてしまった牡鹿に対してか。それともせっかく教えてくれた命の営みをきちんと理解していなかった自分が情けなくて、父親とサンに謝りたかったのか。凛自身にもよく分からなかった。
泣き止まない凛に戸惑ったサンは困ったように溜息をついた。
「リン、大丈夫だ。やれと言ったのも、とどめを刺したのも俺だ。この鹿が誰かを恨むとしたら、俺を恨むさ」
聞いたこともないほど優しいサンの声。
「大丈夫だ。大丈夫だ」
サンは自分の手にしがみついている凛に何度も囁いた。
その声を聞いていると、本当に全てが大丈夫だという気がしてくる。身体の震えも治まってきた。優しい音楽のように凛を包み込み、穏やかな小川のせせらぎのように全ての汚れも罪も洗い流してくれる。ずっとこの声を聞いていたい、凛はそう思った。それでも凛が泣き止んだことに気付いたサンは、手を離して牡鹿の元へ戻った。凛は少しの寂しさを感じながら、川の水で顔を洗った。
牡鹿の脚を縛り終わったサンは甲高い口笛を吹いた。鷹の鳴き声にそっくりなその口笛は森の中に響き渡る。すぐにそれに応える鷹の鳴き声が聞こえてきた。ダニエルだ。
ダニエルとカイを待つ間、サンは凛の隣に来て川の水で汚れた手を洗った。しばらく黙って何かを考えていた様子のサンが、凛に顔を向けて口を開いた。
「お前を狩に連れて来たのは……」
凛もサンに顔を向けた。サンは生真面目な顔で続ける。
「お前達を助けた俺には責任があると言ったよな。俺はお前達をサンフランシスコに連れて行くことは出来ない。その代わり、ここで生き抜く術は俺が教えてやる」
真っ直ぐなサンの瞳と言葉に、凛の心臓が一つ大きな音を立てた。さっきまで自分は、サンに父親の面影を見ていたのだと思ったが、そうではないことに気が付いた。初めて感じた胸が締め付けられるような痛みは父親に対するものではない。顔を濡らす川の水はとても冷たかったはずだが、いつの間にか火照っていた頬は真っ赤になっている。
それから程なくしてダニエルとカイ、他の戦士達もやって来た。皆笑顔だ。ダニエルとカイの獲物は、やはり一頭の牡鹿。他の戦士達も手に三羽の七面鳥をぶら下げている。七面鳥は昨日仕掛けておいた罠に掛かっていたらしい。
縛った鹿の脚に丸太を通し、狩りの成果を讃え合いながら男達が運んでいく後を、凛は七面鳥を持って俯きながらとぼとぼとついて行った。
「カイ、これはお前が仕留めたのか?」
二頭の鹿を五人の男で運んでいる。小さめの鹿だとはいえ、かなりの重さだ。カイはよろよろしながら小さい声でサンに答えた。
「あ……ダニエルが……」
「やっぱりな」
冷笑を浮かべたサンにカイはしどろもどろで弁解した。
「だ、だって……隣でダニエルがあれこれ指図するから……緊張して外しちゃったんだ。それで……その後、ダニエルが仕留めた……」
サンは黙ったままカイを見つめ、「言い訳はするな」とばかりに大げさに肩をすくめた。
しばらくしょんぼりして歩いていたカイは後ろを振り向いた。獲物を仕留めた凛が自分よりも浮かない顔をして歩いているのを不思議に思った。
「ねぇ、リンどうしたの? 何かあったの?」
カイに尋ねられたサンは後ろを振り向いた。夕闇が迫る森の中、凛が大きな溜息をついて俯くのが見えた。サンはカイに視線を戻した。
「お前も初めての獲物を仕留めた時には、きっとリンの気持ちが分かるさ」
サンは、凛がまだ死んだ牡鹿のことを気にしているのだろうと思っていた。