二十六
「リン、これ……履いてみて」
ミアが差し出したのは鹿の革で出来たモカシンブーツだった。凛が元々履いていたブーツはぼろぼろになっていて、それを見かねたミアが作ってくれたのだ。
「ありがとうミア!」
感激した凛が礼を言うと、はにかんだようなミアはとても可愛らしく笑った。しかもブーツには茶色の柔らかい鳥の羽根が縫い付けてあり、歩くたびにそれがふわりと揺れるようになっている。凛にはそれがとても気に入った。そしてミアは自分のモカシンのくるぶしの所を指差した。同じような鳥の羽根が付いている。
「お揃いね。ミアはとっても上手だわ」
「うふふ……お婆ちゃんがね、教えてくれるの。ね、お婆ちゃん」
この間ダニエルと一緒に行った町で買ってきた糸を使い、服に刺繍を施していたウナが微笑んだ。細めた目と広がった口が、皺だらけのその顔にさらに深い溝を作る。
少しではあるが、凛にも彼らの言葉が分かるようになってきた。今度、自分にも教えて欲しいと頼むと、ウナは微笑んだまま頷いてくれた。
鹿の革で出来たモカシンはゆったりとしていてとても柔らかいが、甲の部分と底には厚くて丈夫な革が縫い合わせてある。袋状のブーツは最初、中で足が遊んでしまう感じだったが、ミアに教えてもらった通りに水に濡らしてそこらじゅうを歩き回った。そうすることで段々と革が足の形に馴染んでくるのだ。
そのモカシンが足にしっくりと馴染んだ頃、凛は戦士達と共に森の中へ分け入った。背中に弓と矢筒を背負い、水嚢とわずかな食料を持って。
獣道を進み、キャンプ地からは反対側の山の中を流れる小川に近付いた。ダニエルとカイはそのまま下流の方へ向かい、他の戦士達は上流へと上っていった。凛はサンと一緒に川岸から五メートル程の所にあるメスキートの下の茂みに身を潜めた。草の上に毛布を敷き並んで腹這いになると、底の浅い小川の水が岩に当たるチャプチャプという澄んだ音と鳥の鳴き声が聞こえる。
サンは息を潜めたまま小川に目を凝らしている。全く動かないでいるサンを眺めながら凛が口を開いた。
「あの……」
「しっ!」
サンに一喝され凛は声を潜めた。
「あの、いつまでこうしてなくちゃいけないの?」
「さあな。次に瞬きするまでの間か、三日か四日か……俺に分かるのは、何かを獲って帰らなきゃ皆が飢え死にするってことだけだ」
凛には顔を向けず小川を見たまま言い放つ。サンのその言葉に凛は気が遠くなって俯いた。
それから長い時間が過ぎたが、二人は押し黙ったまま小川を見張り続けていた。降り注ぐ柔らかな木漏れ日は暖かく、時折吹き抜ける風は山の冷気を孕んでとても爽やかだ。草木の揺れる音と小川の水が流れる音が眠気を誘う。しかも朝早くから山を半周してきたのだ。
「ふあ……」
思わず欠伸が出るとサンに睨まれ、凛は慌てて手で口を塞いだ。
「気を抜くな」
「……はい」
サンに叱られた凛はしゅんとして謝った。しかし再び小川に目を向けたサンを睨んで不満げに唇を尖らせる。
「しょうがないじゃない……こんな場所で横になってて、「寝るな」って言うほうが無茶よ。それに、何で女の私を狩になんか連れ出したの? 私は戦士になるなんて一言も言ってないのに……」
心の中で不満を並べ立て、その怒りで何とか眠気を追い払おうとした。口をへの字に結んで荒く息をついた時、再びサンが凛に顔を向けた。
「気を鎮めろ。そんなんじゃ何も寄って来ないぞ」
凛は脱力して俯いた。もはやどうしていいのか分からない。諦めて仕方なく小川に目を向けた。そうしていると、やはり睡魔が襲ってくる。目の前の草がぼんやりと霞んできて、勝手に瞼が下りてくる。
「起きてなきゃ……起きてなきゃ……」
そう思えば思うほど意識が遠のいていく。
サンは腹這いのまま、不意に重くなった自分の右肘に目を遣った。それを枕にして凛はぐっすりと眠っていたのだ。サンは呆れて溜息をつくと、小川に顔を戻した。
「ク……ッション!」
「おい!」
凛は不意に襲ってきた寒さに震えて目を覚ました。それまでは、何かすごく楽しい夢を見ていたような気がするのだが。
「あ……あれ?」
目の前には呆れた顔のサンがいた。さっきまで頭上の高い所で輝いていた太陽は、だいぶ西の方へ傾いてしまっている。
「あの……私、寝てました?」
サンは凛をじろっと睨んで頷いた。しかもサンの肘の所が濡れている。どうやらよだれまで垂らしていたようだ。
「ご……ごめんなさい……」
凛は慌てて自分の服の袖でよだれの痕を拭いた。と、突然サンが左手で凛を制した。
凛がサンの視線を追って顔を上げると、小川の対岸の森がざわつき始めた。息を潜めていると、木々の陰から十頭ほどの鹿の群れが出てきた。サンはまだ動こうとしない。鹿は用心深く辺りを窺っている。
やがて鹿は警戒を解いたように、緩やかな流れの小川の水に口を付け始めた。木の葉の間から差し込むオレンジ色の日差しを浴びたその姿は、まるでおとぎ話の一場面のようで神々しくさえもある。ロンドンにいた頃、貪るように読んだ詩集を思い出した。しかし、その中に群れから少し離れて水を飲んでいる一頭がいた。群れの真ん中にいる身体も角も立派な牡と比べると、身体も小さいし角も貧弱だ。同じ群れの他の鹿達の様子を窺い、遠慮しながら水を飲んでいるようなその姿に凛は哀れを感じた。
「リン、アイツをやれ」
隣のサンが囁き、凛が見ている貧弱な牡鹿を指差した。
「えっ? 私が射るの?」
「当たり前だ。何のために連れて来たと思ってるんだ?」
凛は戸惑いながらサンと牡鹿を交互に見た。あの哀れな牡鹿を殺すつもりなのだ。
「で、でも……あの子、何だか可哀想……」
「アイツは牡同士の争いに負けたんだ。雌と強い牡が残れば、この森に住む鹿の種族自体が強くなる。そうすれば、この先もこの森には命が溢れるんだ。どの道、アイツに子孫は残せない」
サンの言っていることは凛にも分かる。それでも弱い者いじめのようで気が進まない。凛はサンの傍らにあるライフルに目を遣った。
「そ、それならサンがやってよ。ライフル持ってるじゃない!」
「これは万が一の時にしか使わない。鹿は臆病で警戒心が強いんだ。こんな所で発砲してみろ、あいつらは当分ここには近寄らなくなる。ここはあいつらの貴重な水場なんだ。そんなことは出来ない」
凛は渋々矢筒から一本抜いた。矢を指で挟み、弦と一緒に引く。バッファローの腱で出来た弦は凛の耳元でキリキリと音を立てた。
牡鹿が頭をもたげ、真っ黒な瞳で頭上を見上げた。少し首を傾げるその姿が愛らしい。凛はきつく目を瞑った。
「嫌だ……可哀想……」
呟いた凛に顔を寄せ、牡鹿を見つめたまま冷徹な声でサンが囁いた。
「そう思うなら一発で仕留めろ。苦しませるな。首を狙うんだ。やれ!」
凛は矢から指を離した。矢はヒュンと空を切る音を発し、牡鹿の首に突き刺さった。牡鹿は弾かれたように頭を仰け反らせ、前脚を跳ね上げるとそのまま倒れた。
「ああ……」
凛が思わず悲痛な声を上げると、他の鹿が一斉に頭を上げ、踵を返し飛び跳ねながら森の中へ消えていった。同時に立ち上がったサンは走り出し、水飛沫をあげながら浅い小川を横切っていく。
全身の震えが止まらない凛がよろよろと立ち上がり近付いていくと、倒れた牡鹿の脚は痙攣し腹は大きく上下に動いているのが目に入った。
「ま、まだ生きてる……」
凛は怖くなって後退ったが、サンは牡鹿の首を脇に抱えると一気に力を込めて締め上げた。目を逸らした凛の耳に何かが砕けるような鈍い音が聞こえ、へなへなとその場に座り込んだ。