二十五
ある日の朝、食事をしていた凛の元にダニエルがやって来た。
「リン、この後一緒に出掛けよう。食事が終わったら仕度をしてくれ」
そう言ってダニエルは凛の足元に革のトランクを置いた。凛は目を瞬いて尋ねた。
「あの、出掛けるって……どこへ?」
「街へ行くんだ。だからドレスアップして来いよ」
ダニエルは軽くウィンクをすると自分のティピィーに戻っていった。
食事が終わった凛はティピィーの中でトランクを開けた。そのトランクにも中に入っているドレスにも見覚えがある。クリスティーナの物だ。それを身に着けると思うと、罪悪感からなのか躊躇いもあったが、気にしないように務めた。
ミアとターニャに手伝ってもらいながらドレスを着け、肩の下まである髪を柔らかく結い上げた。クリスティーナの化粧品でターニャに眉を整えてもらい、口紅を塗る。日焼けした鼻の頭と額にだけ白粉をはたいた凛はクリスティーナの手鏡を見て驚いた。自分がまるで別人のようだ。
「リン、すごく……きれい」
ミアとターニャが互いに顔を見合わせて微笑んだ。
ティピィーの外に出た凛を上質なツイードの三つ揃えを着たダニエルが迎えた。ダニエルが着ている服もやはりトビーの物だった。長い髪をまとめ、黒いシルクハットを目深に被ったダニエルはどこから見ても白人だ。
「これは、これは……」
ティピーから出てきた凛を見てダニエルが大げさに手を開いた。その隣にいるサンは凛をちらちら見ては「クックッ」と笑っている。
サンのその反応にむすっとしている凛の肩を抱き、ダニエルはおどけて胸を張った。
「これなら英国紳士とその若き中国人妻に見えるだろう? おいおい、サン。あんまり笑うな」
「ああ、悪い悪い」
そう言いながらも笑いの止まらないサンは、赤い革の鞘に入ったナイフを凛に手渡した。
「護身用だ。持っていけ」
凛には丈の長いクリスティーナのドレスはウエストに巻いた紐で折り返して調節してある。凛はそのナイフを紐に挟み、折り返したドレスの生地で隠した。
「じゃ、行こうか、マドモアゼル」
馬を引いたダニエルが気取って凛に右肘を差し出した。凛は笑いながらダニエルの肘に左手を絡めた。
「街へ行って何をするの?」
木漏れ日に溢れる山の中の獣道を歩きながら、凛は隣で馬を引いているダニエルに尋ねた。
「買い物さ。あと偵察もね」
「偵察?」
きょとんとした顔で訊く凛にダニエルは笑顔で頷いた。
「ああ。もしこの辺りを軍隊がうろついていたら、あそこのキャンプは引き払わなきゃならないからな」
その陽気な声音から危機感は感じられなかったが、凛は初めてサンとダニエルと会った時の話を思い出した。彼らは軍の急襲を受けて逃げ出してきたのだ。彼らは追われる身であり、この山の中に身を潜めているのだということを忘れてはいけない。弓矢の練習などは厳しいが、山の暮らしは穏やかで平和に思える。しかしその平和はとても脆い物の上にあるのだ。
麓に着くとダニエルが手綱を握り、凛はその後ろに乗った。ダニエルは岩がちの荒野を街に向かってジグザグに回りこみながら馬を走らせる。人目に付かない場所を選んでいるのだ。
三時間ほど走ると、突然荒野の中にいくつもの建物が現れた。目指す街に到着したのだ。埃っぽい通りにはたくさんの人の往来があり、男は皆腰に大きな銃を下げている。この街にいるのはほとんどがアイルランドからの入植者だとダニエルが教えてくれた。
「俺から離れるなよ。危険な街だ」
穏やかな表情を崩さずにダニエルが囁くと、凛は緊張して頷いた。俯き加減で辺りを見渡したが、自分達に気を留めている者はいないように感じた。
ダニエルはまず銃砲店に入り弾薬を買った。店の外に出ると、凛はダニエルが持っている金のことが気になったので訊いてみた。
「ねぇ、そのお金って……もしかして……」
ダニエルは凛の顔をしばらく窺った後、静かに頷いた。
「そうだ。君の元ご主人様が、結構な大金を残してくれたんでね……」
それを聞いた凛は暗い顔で俯いた。
やはりロバートソン一家とアーサーが殺されたという事実は変わらない。今では自分も彼らの一員として一緒に暮らしているが、どうしても心の中ではわだかまりが消えていないのだ。彼らはやはり盗賊と変わらないのだろうか、と。凛が顔を上げると、ダニエルは腕を組んで歩きながら続けた。
「まぁ、こんな世の中じゃなければ俺達にとって金なんか何の価値もない。でも、こういう状況じゃそうもいかない。こういう物が必要になってくるんだ」
ダニエルは買ったばかりの弾薬の箱を凛に見せた。彼らもまた、生きるために闘わざるを得ないということなのだろう。それで気持ちが晴れたというわけではないが、一応納得したように凛は頷いた。
その時、突然男達の怒号と銃声が響き渡った。見ると前方の道を片手に拳銃、片手で頭の上の山高帽を押さえた一人の男が横切ろうとして飛び出した。そして直後にもう一発銃声が響き、その男が顔から地面に倒れると周りから歓声が沸いた。
撃ち合いと殺し合いが日常のこの国。失われた命の何と軽い物か。凛は震える手でダニエルのジャケットの袖を握り締めた。ダニエルは開いている方の手で自分の袖を握っている凛の拳を優しく叩くと、男が倒れている道の手前の角を曲がった。盗賊だろうが何だろうが、今凛が頼りに出来るのはこの混血のインディアンだけなのだ。
それからミアに頼まれていた布と糸を買い、ダニエルに連れられてサルーンに入った。店の奥ではバンドが軽快なアイリッシュ音楽を奏でている。まだ日が出ているというのに酒を飲み、フィドルのソロも掻き消すほどの大騒ぎに興じている客も多い。こんな荒野の街では畑仕事などもないのだろう。騒がしい店内に萎縮しながら凛はダニエルに促されるまま席に着いた。
「ちょっと息抜きだ。たまにはこういうのもいいだろう?」
ダニエルは凛にウィンクをすると新聞を読みながらウィスキーを飲み始める。凛は俯きながら冷たいレモネードを口に含んだ。
ダニエルが読んでいる新聞には、コロラド州で起きたインディアンと軍の争いの記事が出ている。
『野蛮人を撃破! 大勝利!』
軍がインディアンを何百人退治しただの、この勝利は我々文明社会の繁栄の礎となるだのということが、勝利に酔いしれ熱に浮かされたような言葉で書き連ねてある。自分と千代丸も、そのうち新聞に書かれているような争いに巻き込まれることになるのだろうか。不安が頭の中に渦巻くが、ダニエルはいつもの陽気な笑顔を浮かべ、他愛もない話で凛を笑わせた。
「そろそろ戻るか」
ダニエルが言い、二人は席を立って店を出た。そのすぐ後、同じ店で酒を飲んでいた二人組みの男が互いに顔を見合わせると、同時に席を立った。
ダニエルが手綱を握る馬は来た時とは違う方角に走り出した。街を抜けると、潅木の茂みの間に建つ崩れかけた小屋の前を通る。その先はサボテンと入り組んだ岩だけの荒涼とした景色が広がっている。
「ねぇ……ダニエル、方向が間違ってない?」
不安になって尋ねた凛にダニエルはちらっと振り返って笑顔を見せた。
「いいんだよ。ちょっと遠回りして帰ろう」
「え……ええ」
凛は腑に落ちない顔で頷いた。
ダニエルは岩が入り組んだ狭い場所をスピードを上げて駆け抜けて行く。凛は振り落とされないようにダニエルにしがみ付いた。荒っぽい乗馬を楽しんでいるとしか凛には思えない。
「私を怖がらせて楽しんでるの?」
凛がダニエルに文句を言おうとした時、大きな岩をぐるっと回り込んで馬が止まった。
「ちょっとここで待っててくれ」
「えっ? ちょっと、どこに行くの?」
馬を降りたダニエルに凛は慌てて訊いた。
「あのな、もう漏れそうなんだよ。まさかレディーの前では出来ないだろ?」
「ああ、そう……」
凛が納得して頷き、顔を上げた時には既にダニエルの姿は消えていた。
ダニエルは凛からは見えない岩の影に身を潜めた。するとすぐに自分達が通ってきた方角から二頭の馬がやって来るのが目に入る。さっきの酒場にいた二人組だ。店を出た時からずっとこの二人が後を尾けて来ていたのをダニエルは知っている。二人はダニエルが潜んでいる岩のすぐ傍を通り過ぎて馬を止め、きょろきょろと辺りを見回している。
ダニエルはゆっくり岩から出ると足音も立てずに手前にいる馬に近寄り、騎乗の男の背後にすばやく飛び乗った。馬が揺れ何事かと驚いた男が振り返ろうとしたが、声を上げる間もなくダニエルは背後から手を回して男の口を塞いだ。同時にブーツに隠していたナイフを抜き、その男の喉を切り裂いた。
二人組の男は街の酒場から尾けていた男女が突然姿を消したことに戸惑い、辺りを見回していた。しかし目に入るのは、時折吹く風に散らされる砂、まばらに生える乾いた茨と露出した岩だけだ。人はおろか馬の姿も見えはしない。
「ちくしょう! どこに行きやがった?」
先頭の男は悪態をつき、岩の陰を覗き込んだ。そこにもいない。すると後ろからどさっという何かが落ちるような音が聞こえて振り返った。後ろには相棒の馬がいるが、その背中に相棒の姿はない。
「おい……」
呼び掛けようとした時、突然馬が揺れ同時に背後から伸びてきた手に口を塞がれた。
「ん、ん……」
慌てふためき、もがく男の耳元に低い声が聞こえてくる。
「お前らみたいな飲んだくれの賞金稼ぎに、俺が捕まるとでも思ってるのか? 甘いんだよ」
必死で後ろを振り返ろうとした男の喉に、生暖かく濡れた金属が押し当てられる感触がした。
凛が馬の首を撫でながら待っていると、ダニエルが戻ってきた。驚いたことに馬を二頭引き連れている。
「いやーラッキーだったなぁ。野生馬が二頭も手に入ったよ」
「野生馬?」
凛は眉を潜めた。二頭とも背中に鞍があり、しかも荷物まで載っている。鐙にはライフルまで刺さっているのだ。
「この馬……絶対持ち主がいるはずよ」
凛の言葉にダニエルは悪戯っ子のような笑顔を向けた。
「でも誰もいないぜ?」
「で、でも……」
ダニエルが言ったとおり、辺りを見回しても確かに人の気配はない。乗り捨てられた馬なのだろうかと凛が首を傾げると、ダニエルはそのうちの一頭に跨った。
「まぁまぁ、気にすんなよ。もう帰ろう、着く頃には暗くなっちゃうぜ」
「う、うん……」
動き出したダニエルに続き凛も馬を歩かせた。ダニエルに引かれている馬の誰も乗っていない鞍を見遣る。使い込まれた焦げ茶色の鞍は何かで濡れているような気がした。
「サンに良い土産ができたなぁ。ウィスキーがあるよ」
嬉しそうにボトルを取り出し口を付け一口呷ったダニエルの手が汚れていることに気付いた凛だったが、それが血だということには思い至らなかった。