二十四
次の日の朝、言われた場所で待っていると、手に麻袋を持ったサンがやって来た。黙って凛の横を通り過ぎ、いつも的にしている杉の木の手前に立った。これから何が始まるのか、不安に襲われた凛はサンに声を掛けた。
「あ、あの?」
「お前はそこにいろ」
戸惑っている凛の足元を指差したサンは、手に持った二十センチ四方の麻袋のひとつを凛に見せた。
「これをよく見ろ」
そう言うとサンは麻袋を放った。凛の十メートルほど先の視界を、綺麗に弧を描いた麻袋が通り過ぎる。土が詰められた麻袋はどさっという音を立てて地面に落ちた。凛は首を巡らせ、地面に落ちた麻袋をしばらく見つめてからサンに顔を向けた。
「……見ましたけど?」
自分の真意が伝わらなかったことで、サンはあからさまに脱力したように肩を落とすと溜息をついた。
「これが的だ。地面に落ちる前に射るんだ」
凛は目を瞬いた。
「そんな難しいこと……無理です! やったことないもの!」
「無理かどうかは、やってから決めろ。ここにある麻袋は五つだ。今日のところは掠るだけでもいい、全部に当てることが出来たら終わりにする」
有無を言わさぬサンの言葉に凛は絶望的な気分になった。日が暮れる前に終わるだろうか、そんな不安が頭をよぎる。
「ほら! 矢を構えろ! 行くぞ!」
サンがまた麻袋を投げた。凛は矢を構えたまま麻袋の軌道を追ったが、放つタイミングを失った。
「やっぱり無理だ……」
そんなことを思う間もなく次の麻袋が飛ぶ。凛は麻袋目掛けて矢を放ったが、大きく外れてしまった。
「遅い! 的は動いてるんだぞ! 動きを予測しろ!」
「そ、そんなことを言われたって……」
動く物を射る時、矢をその的に合わせても当たる訳がない。的がどの軌道を通るか、そして矢を放ってから的に到達するまでの時間を瞬時に見極めなければいけない。理屈は分かっても、実践できるかどうかは別の話だ。
サンが麻袋を投げると、凛は当てずっぽうに矢を放った。自分でも当たるはずはないと思えたが、矢の先端の石は麻袋の側面を擦り、中の土をばら撒かせた。
凛は予期せぬ成功に驚き目を見開いて破れ落ちた麻袋を見た後、サンに得意げな顔を向けた。しかしサンは表情を全く変えずに凛をじろっと睨んだ。
「まぐれだな。ちゃんと理解してるわけじゃない。真剣にやれ」
サンに見抜かれていたことで凛はがっくりと肩を落とした。
その後、何度も同じことを繰り返したが、やはりさっきのはまぐれだったようだ。矢は全く当たらないまま、陽はすでに頭の真上を通り越していた。
凛は落ちた矢を拾い集めながら痛くなってきた腕を振った。土の詰まった麻袋を投げ続けるサンも疲れているのではないかと目を遣ったが、顔色ひとつ変えず汗の一滴すら浮べていない。強靭な戦士だ。
凛は絶望的な気分で空を仰いだ。父親がここにいれば、何と言うだろう。
「もう諦めなさい。凛、お前はよく頑張ったよ」
そう言ってくれるだろうか。いや、そんなはずはない。
「最後まで諦めるな。お前は俺の娘だ。きっとやり遂げられる。的に集中するんだ。心を無にしろ」
そう言うに決まっている。ここで諦めたら、きっと父はがっかりするのだろう。凛は唇を噛み締め目を閉じた。
「そうだ。的に集中して……他のことは一切頭の中から追い出そう。放った矢が的と出会う瞬間を心に思い描くんだ……」
凛は目を開いて頷いた。その顔つきが生来の負けず嫌いを取り戻している。凛の変貌にサンも気付いていた。
投げられた麻袋を見つめた凛は、それが上昇し頂点に達した時、描くであろう放物線が見えた気がした。凛は矢を放った。到達するのに掛かる時間は、今までの経験で分かっていた。要は落ち着くこと、そして集中すること。
粗い目の麻を突き破る爽快な音と共に、矢が刺さった袋が後方へ吹っ飛んだ。この瞬間、凛の今までの疲れも一緒に吹き飛んだような気がした。満面の笑顔をサンに向ける。
「思った通りだ……お前なら出来ると思ってた。気を抜くなよ、まだ三つ残ってるからな」
サンに冷静な口調で言われると、凛は拍子抜けして溜息をついた。一緒に喜んでくれると思っていたのだ。しかし、もう絶望感はなかった。やり方が分かったのだ。あと三つ、当てる自信はあった。
それから程なくして二つの麻袋に矢を当てた。あと一つという時、サンは突然矢を構えている凛に向かって麻袋を投げてきた。
「えっ? 何?」
慌てた凛の肩に麻袋が当たり、バランスを崩してそのまま尻餅をついてしまった。
「何するの!」
堪らずに凛が抗議すると、サンは呆れたような顔で言い返した。
「お前なぁ……何のためにやってると思ってるんだ? 敵はお前に向かって来るかも知れないんだぞ。矢を向けるなり避けるなり、とにかくすぐに反応しろ!」
凛は唇を尖らせたまま、服に付いた土を払い矢を構えなおした。サンが次の麻袋を放り投げた瞬間、その手元の上空目掛けて矢を放った。矢は勢い良く麻袋に突き刺さり、中に入っていた土の塊がサンの顔目掛けて飛んでいく。サンは手の甲で飛んで来た土を払いのけた。その反射神経に凛は驚いたが、それで全ての土が払えたわけではない。残った土がサンの顔にまともに掛かった。
「ぶはっ!」
手で顔に付いた土を払うサンを凛はにやにやしながら見ていた。こうなることは分かっていてわざとやったのだ。
「やってくれたな……」
サンが手の甲で顔を擦りながら凛を睨んだ。凛は怯むことなく肩をヒョイッとすくめた。
「油断したら、いけないんじゃないですか?」
「ふん! たいした奴だよ」
サンは呆れた声で言い、二人で破けた麻袋を拾って中の土を落とした。
「サン! リン!」
二人を呼ぶ声がして目を遣ると、ミアが手を振りながら傾斜を駆け下りてきた。
「食事! 一緒に……カイも……」
ミアに誘われ凛が頷くと、少し離れた所にいたカイも歩み寄ってきた。少し前から矢の練習を見学していたことは凛もサンも気付いている。
「サン、顔をどうしたの?」
ミアの後ろからゆっくり傾斜を降りてきたのはターニャだ。ターニャは酋長であるレッドベアの娘で、十九歳だと言っていた。凛と五つしか違わないのに、ターニャはとても大人っぽく見えた。背が高くほっそりとしていて、優しくて綺麗な皆の憧れのお姉さんといったところだ。
「リンにやられた」
皆で傾斜を上りながらサンが答えると、ターニャは驚きに目を見開いて凛を見た。
「ここの最強の戦士の顔に土を付けるなんて、すごい女戦士になりそうね」
「えっ? 女戦士?」
凛は驚いてサンを見た。サンは自分を戦士にするつもりなのか、そんなことは聞いていなかったし、だとしたらとんでもないことだ。
ぽかんと口を開けたままの凛に目を遣ったサンは、ターニャに顔を向け肩をすくめた。
「別に戦士にしようと思ってるわけじゃない。リンが望めば別だけど」
それを聞いて凛は安堵した。女である自分が戦いに行くなど考えたこともない。
凛とミアのティピィーの前に来ると、サンは破れた麻袋を凛に渡した。
「繕っておけ。明日またやるから。それから、カイも来い」
後ろで俯きながら歩いていたカイが顔を上げた。
「本当に? 俺もいいの?」
興奮して尋ねるカイにサンが頷いた。
「ああ、ついでだ。でも、今日リンがやってたことを見ただろう。手加減はしないからな」
「もちろん! へっちゃらだよ! やった! チヨ、チヨ! 聞いてくれよー!」
明日もまた同じことをすると聞いてうんざりしている凛の横でカイは嬉しそうに叫び、食事の支度を手伝っている千代丸の元へ駆けて行った。
次の日もまたその次の日も弓矢の練習は続いた。サンが狩などに出掛けている時は、凛は弓矢の練習を早めに切り上げてミアと一緒に脚の不自由なウナの世話をしたり、食事の仕度や繕い物などをする。サンはそのことを知っているが、それについて凛を咎めることはなかった。戦士になるかならないかは凛が決めることであり、必要なのは部族の一員として自立することなのだ。
「弓矢の練習は少しの時間でも、とにかく毎日続けることが大事なんだ」
凛に弓矢の才能を見出したサンはそう言っただけだった。
カイはといえば、戦士になるための訓練を熱心に積んでいる。弓矢の練習のほかに、千代丸に木の枝を自分目掛けて投げさせ、それを巧みに避けることで俊敏さを養うというサンに教えてもらった訓練を真面目にやっていた。
時には長い距離を走らされることもあった。半日ずっと山の中を走り続けなければいけない。それだけの体力がなければ敵から逃げることが出来ないからだとサンは言う。
「捕まれば、あとは殺されるだけだ」
走るのがあまり好きではない凛も、真剣な顔のサンの前ではやらざるを得なかった。最初のうちは脚が痛くなり、夜寝るのも辛かったが、慣れてくると自分でも体力が付いてきたのを自覚するほどになった。
サンは特にカイには厳しかった。口に水を含ませて半日走らせるのだが、走り終わった後に口の中の水が残っていなければならない。最初のうちカイには全くそれが出来なかった。
「もう諦めろ」
サンに冷たく言われても、何度も何度もカイは食らい付いていき、決して諦めようとはしなかった。
たまに千代丸がカイに付き合って一緒に走ることもあった。この時に千代丸はとても足が速いのだと気付いた。そして同じ距離を走りながらも、息が上がっているカイを明るく励ましているその姿は皆の度肝を抜いた。