二十
言葉の通じない見知らぬ三人の女に囲まれて所在無げにしていた凛の肩を、四十代ぐらいのその中で一番年長の女が軽く叩いた。動揺して警戒している凛に、その女は手を口に運ぶ仕草をして「何か食べるか?」と訊いてきた。
そういえば、ロバートソン一家から逃げ出そうとした前日の夜から何も食べていなかった。このキリキリとした胃の痛みは、お腹が空ききっているせいだと気が付いた。凛が躊躇いがちに頷くと、さっき千代丸を呼んだ女が頷き、テントの外へ出て行った。
しばらくして戻ってきた女はパンのような物と水が載った盆を持っていた。それを凛の前に置くと、三人の女は揃ってテントを出て行った。それは黄色味が掛かった色で、少しパサパサとしているが素朴な味のとうもろこしで出来たパンだった。一口食べると、お腹が大きな音を立てた。凛は夢中でそれを口に運んだ。
食べ終わって落ち着いた凛は立ち上がり、テントの外を覗いた。木立の中に同じような形のテントが幾つもあり、そのテントとテントの間を子供達が駆け回っている。
「食事……終わった?」
突然たどたどしい英語で話し掛けられ、凛は声のした方に首を巡らせた。そこには長い三つ編みを垂らした少女が立っていた。手には凛の風呂敷包みを持っている。
「はい……あの、それ……私の?」
凛は少女が持っている風呂敷包みを指差した。
「着替え……必要かと思って……」
少女はニッコリと笑って風呂敷包みを凛に差し出した。
少女の歳は千代丸と同じくらいだ。凛は着替えを受け取りテントの中に戻ると少女も一緒に中に入ってきた。着替え始めた凛をきらきらと好奇心に満ちた黒い瞳で見つめている。なかなかの美少女だ。
「私、ミア……あ、あなたの名前は?」
「私は……凛」
純粋さがこぼれ出る少女の微笑みに凛は安心し、二人はしばらく見つめ合って笑顔を交わした。
着替えが終わった凛は脱いだ服が随分汚れていたことに気付いた。一度砂にまみれたようで埃っぽい。ブラウスは肩の身頃と袖の継ぎ目の部分が大きく裂けている。
「いったい何があったの?」
乗っていた幌馬車が倒れたことは何となく憶えている。しかし何故そうなったのか、そして何故自分と千代丸だけがここへ連れて来られたのかが分からない。
「そうだ」
この少女なら何か知っているかもしれないと思った。たどたどしくはあるが、英語も話せるようだ。凛はミアの前に正座すると、円く黒い目を真っ直ぐに見つめ、自分と千代丸がここへ連れて来られたことについて何か知っているかと尋ねた。するとミアは笑顔を崩さぬまま凛を指差しながら口を開いた。
「あ、あなたとチヨ……サン達……連れて来た。あの……えっと、幌馬車……」
ミアの話はどうも要領を得ない。それでも考えながら一生懸命に話すミアの一言一言を頷きながら聞いていた。だが、ミアは口をパクパクさせたかと思うと黙り込み、俯いて上目遣いに凛を見た。
「ごめんなさい。英語……うまく話せない……あっ! サンなら……英語分かる。サンに……」
「うん。あの……サンって?」
ミアは再びにっこり笑った。
「サンは……戦士」
それから凛はミアと一緒にテントを出た。ひんやりとした空気に柔らかな木漏れ日が降り注いでいる。ここは山の中だ。テントの間を抜けるとちょっとした広場があり、数人の女が火を焚いていた。一人の女の背中には赤ん坊が背負われていて、その横には小さな女の子がしゃがんで焚き火を見ている。
別の場所では年老いた男が木の枝をナイフで削っていた。その老人の前には木の枝で出来た小さな檻があり、中から鳥の鳴き声がする。凛が目を凝らして見ると、どうやらウズラが二羽いるようだった。
たくさんの人達が皆それぞれの仕事をしているが、広場をミアと並んで歩く凛に気付くと手を止め、黙って二人を眺めている。
広場の隅の方に焚き火を囲んで丸太が横たえられていた。その一本の丸太に座った二人の男の後姿が見える。ミアはその二人に近付いた。
「彼がサン」
丸太の横に来ると、手前にいる男が顔を向けた。腰に届きそうなほど真っ直ぐな長い黒髪、細身の顔に切れ長の鋭い目。凛はその男に見覚えがあった。あの日、侍だと勘違いした男だ。そして自分にナタを振り上げた男。
「やっと目が覚めたのか」
紹介されても、にこりともせずにサンは低い声で言った。
「は、はい……」
あの時は夢中で助けを求めたのだが、今さらになって恐怖が込み上げてきた凛は緊張して応えた。
「彼はダニエル」
サンの隣に座っている男をミアが示すと、ダニエルは顔を前に突き出して人懐っこい笑顔を凛に向け、手を振った。
二人とも二十代前半に見える。何から聞けばいいものか考えあぐねている凛にミアはにっこりと笑い掛け、先ほど脱いだ汚れて破けている服を見せた。
「私……これ洗って……直す」
「そんな……悪いわ。自分でやるわよ」
凛がそう口に出す前にミアは踵を返してさっさと歩き去っていった。
戸惑ったまま突っ立っている凛にダニエルが声を掛けた。
「座ったら? 君、名前は?」
「あ……凛です……」
名乗りながら、彼らが座っているのとは隣にある丸太に腰を下ろした。
サンは黙ってライフルを布で磨いている。そのウィンチェスターには見覚えがある。トビーが買ったものだ。凛はおずおずとサンに話し掛けた。
「あ、あの……旦那様は……えっと、そのライフルの持ち主は……」
「殺した」
にべも無く言われた凛は言葉を失った。
サンは開いた機関部から銃筒を覗きながら付け加えた。
「最初にあいつらが俺に向かって発砲してきた」
「旦那様が? まさか……」
トビーが自分から発砲するなんて凛には信じられなかった。その凛の呟きをサンは聞き逃さず黒く鋭い目を凛に向ける。
「旦那様? ライフルを持っていたのは、俺よりも年下の若い男だったぞ」
「アンディー……」
アンディーならやりかねないと思った。列車から撃ち殺されるバッファローを見て、とても興奮していた様子を思い出したのだ。
「俺も撃ってみたい!」
そう言っていた。
サンはライフルを傍らに立て掛け、紙巻煙草に火を点けた。そのライフルの隣には拳銃が置いてある。クリスティーナがアーサーと凛と千代丸に突きつけた銃だ。あの冷たく光っていた銃口とクリスティーナの目は忘れられない。
丸太の上に置かれたその銃の下には所々赤黒く汚れた布が敷いてあった。ライフルを磨いていた布も同じように汚れている。おそらく銃に付着した血を拭っていたのだろう。
「あの……全員?」
そうなのだろうとは思ったが、訊かずにはいられなかった。サンは煙草をくゆらせながら頷く。
「ああ。白人三人と、御者の黒人」
予想していたことではあったが、実際に耳にすると身体が震えた。もうトビーもクリスティーナもアンディーも、アーサーまでもが殺されてしまっていたのだ。今頃あの四人の死体は灼熱の荒野に打ち捨てられ、ハゲタカにたかられているのかと想像すると胸の奥から悪いものが込み上げてきそうだ。