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十九

凛、見てみろ! こんなに獲れたぞ!」

長兄の藤丸が、竹で編んだザルを凛に差し出した。水面から突き出した岩に座り、素足で小川の水をじゃぶじゃぶと蹴っていた凛は、ザルの中の丸々と太った三匹の岩魚を見て歓声を上げた。

「うわぁ、すごい! あと四匹、頑張って獲ってね兄上!」

凛の歓声に誇らしげに笑った藤丸だったが、その後の激励に顔をしかめた。

「えっ? あと四匹も?」

「そぉよ! だってうちは七人家族でしょ? あと四匹いなくちゃ」

凛が笑いながら言うと、藤丸は頭を掻きながら弱った声で呟いた。

「しょうがないなぁ……三匹獲るのも大変だったんだけどなぁ……」

三人の兄は皆、凛に甘かった。男兄弟の中のたった一人の妹を、まるで姫のように扱っていた。その姫から何かを頼まれるということは彼らにとって身に余る光栄なのだ。

「あと四匹だ! 早くしないと日が暮れるぞ!」

藤丸は竹丸と桐丸に声を掛けると身をかがめて川床に目を凝らした。凛も岩に腰掛けながら水面を見つめる。

「何をしている?」

声がした川岸を見ると父が立っていた。お勤めから帰ってきたのだ。

「父上!」

皆が一斉に声を上げた。父は川岸に置いたザルの中身を見ながら微笑んだ。

「ほう、岩魚か。よし、手伝おう!」

荷物が入った風呂敷包みを置くと着物の裾を捲り上げ、岩魚が逃げないよう静かに川の中へ入って来た。

 夕暮れ間近の小川に歓声が響く。皆で協力して家族全員分の岩魚が獲れた。家に戻ると庭先で母と千代丸がえんどう豆の筋を取っている。父の帰宅に気付いた千代丸は嬉しそうな笑みを顔いっぱいに広げて駆け寄ってきた。

「父上! お帰りなさい!」

ゆっくりと歩み寄って出迎えた母に、凛は七匹の岩魚が入ったザルを見せた。

「皆で獲ったんだ。今日の夕飯だ」

「まぁすごい。立派な岩魚ですこと」

「見せて! 見せて!」

喜ぶ母の隣で千代丸が背伸びをしてザルの中を覗こうとした。

「ほら」

凛が誇らしげにザルを千代丸の目の前に差し出した。

「うわぁ……」

千代丸は一瞬目を輝かせたが、エラから血の滲む岩魚を見て表情を曇らせた。

「これ……死んじゃったの?」

「えっ? う、うん」

悲しそうに訊いた千代丸に戸惑いながら凛は頷いた。

「何か……可哀想だよ……」

千代丸が泣きそうな顔で俯いてしまい、困った凛は父を見上げた。

 父は千代丸の前にしゃがむと、その肩に大きな手を置いた。

「いいか千代丸、皆、何かを食べなければ生きていけないんだ。その食べ物というのは全て生き物だ。命あるものは他の命を貰って生きているんだよ」

「そ……そうなの?」

生きるという行為の罪深さに衝撃を受けた千代丸に父は優しく微笑んだ。

「そうだ。でもこの魚は無駄に死んだ訳じゃない。お前が食べることによって、この魚はお前の血となり肉となり骨となる。お前と共に生きていくんだ」

 千代丸は父の言葉に静かに耳を傾けながら、ザルの中の岩魚を見つめている。

「千代丸、お前に出来るのは、この魚を残さずに食べて丈夫で強い男になることだ。それがお前のために死んでくれた魚への、せめてもの償いなんだ」

千代丸は真っ直ぐな目で父親を見ると、こくんと頷いた。

「分かりました……お魚にありがとうを言って、残さずに食べます」

 その日の夕食は家族全員いつもよりも丁寧に手を合わせ、「いただきます」と「ごちそうさま」を言った。塩を振って焼いた岩魚はとても美味しかった。そして凛が母と一緒に作った大根の味噌汁に口をつける。

 凛の唇にひんやりとした液体が触れた。夢うつつの状態の凛だったが、それが味噌汁ではなく水だということは何となく分かった。誰かが自分の身体を支えて、水の入った器を口にあてがっていることも。薄っすらと開けた凛の目に白っぽい光が見えてくる。

 凛は水を夢中で飲んだ。与えられた水を飲み干し、深い息をついた途端に頭がずきずきと痛み出すと再び眠りに落ちた。


 遠くから子供達のはしゃぐ声が聞こえる。その中には聞き慣れた千代丸の声もあった。

「千代……千代……」

呟きながら重い目蓋を必死にこじ開けた。すると目の前には、自分を覗き込む見知らぬ三人の女の顔がある。

「あ……あの……」

身体を起こした凛は戸惑いながら声を掛けた。

 三人の女はそれぞれに口を開いたが、何を言っているのか凛にはさっぱり分からない。英語でも日本語でもない。三人とも顔立ちは東洋人に似ているが、どこの国の人なのだろうと凛は不思議に思った。

 言葉が通じないと分かった様子の一人の女が、きょとんとしている凛に掌を見せて待つように命じると立ち上がった。他の二人もその女に倣い口を閉じる。

 凛は周りを見渡した。二メートル四方ほどの部屋、壁ではなく布のような革のようなものが張り巡らされている。四隅の柱は上に行くほど幅が狭くなり天井からは柔らかな外の光が差し込んでいた。凛が寝ていた床には動物の毛皮が敷かれているが、真ん中は土そのままで囲炉裏のように焚き火が置いてある。今はほとんど消えていて白く細い煙が一筋、天井へと伸びていた。

 立ち上がった女はくるぶしまで届くベージュ色の服を着て、スカートの裾を揺らしながらテントの出入り口まで歩いていった。布を開き、そこから上半身を出すと声を上げた。

「チヨ! チヨ!」

「はーい!」

外から返事が聞こえ、女に促されて千代丸がテントの中に入ってきた。起き上がっている凛を見ると、満面の笑顔で近付いた。

「良かったぁ! 姉上、丸一日寝てたんだよ。このまま目を覚まさなかったら、どうしようって思っちゃった」

「千代こそ! 無事だったのね!」

大きな声を出すと頭が鈍く痛んだ。額を触ると、かさかさとしたかさぶたがある。その傷の周りが少し腫れているのが分かって思い出した。幌馬車が倒れて頭を打ったのだ。そして縛られていた手首も赤く擦り剥けている。

 クスクスという笑い声が聞こえて目を上げると、入り口から二人の男の子が顔を覗かせていた。千代丸よりも少し小さいくらいの子達だった。それに気が付いた一人の女が、子供達に手を振って外へ行くように促した。

「ちっちゃい子がたくさんいるんだ」

千代丸が楽しそうに言った。

「ねぇ千代、ここはどこなの? この人達は? 奥様や旦那様はどこにいるの?」

その質問に千代丸は表情を曇らせて下を向いた。

「旦那様達はいないよ。ここに連れて来られたのは僕と姉上だけ……ここの人達はインディアンだよ。聞いたことあるでしょう?」

「えっ?」

凛は驚き、千代丸の肩に手を置いて自分へ引き寄せると声をひそめた。

「インディアンて野蛮だって聞いたわよ。大丈夫なの?」

千代丸はきょとんとして頷いた。

「うん……みんな親切だよ。英語を話せる人達もいるし……」

「……そう」

これまでに聞いたインディアンにまつわる話はいい加減な噂だったのだろうか。確かに親切な人達ではなかったら、こうして助けてはくれないだろう。そう考えると凛は脱力して千代丸の肩から手を下ろした。千代丸はそわそわした様子で出入り口を指差した。

「ねぇ、もう行ってもいい? あの子達に草笛の吹き方を教えてあげてたんだ」

「う、うん」

戸惑いながらも頷くと、千代丸はテントを飛び出して行った。三人の女達はその元気な千代丸の後ろ姿を微笑んで見つめている。すぐに外から千代丸と他の子供達の笑い声が聞こえてきた。


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