十八
幌馬車は南西へ向かって走り出した。日が高くなるにつれてどんどん気温が上がっていく。朝早く逃げ出そうとした凛と千代丸は飲まず食わずで消耗しきっていた。食料も水も貰えない。「これは罰なのだから」とクリスティーナが断固として与えようとしないのだ。
誰もクリスティーナに逆らうことが出来ない。傍らに常に銃を置いている彼女は、今やこの一行の狂った独裁者になっていた。
「ノド……渇いた……」
かさかさにひび割れた唇で千代丸が呟いた。段々視線がぼんやりとし始めている。自由になる方の手で千代丸のうな垂れた頭に触れた。ひどく熱い。
「千代……しっかりして……」
そう言った凛の口もからからに渇いて上手く言葉にならなかった。目を閉じてしまった千代丸に身体を寄せる。
その時、幌馬車の前方を馬に乗った一人の男が横切って止まった。アーサーは馬車の速度を落とすと眼を凝らした。その男は風に長い黒髪をなびかせ、浅黒い肌を薄い茶色の革の服に包み、斜に構えてこちらを見つめている。
「どうしたんだよ?」
馬車の速度が落ちたことに気付いたアンディーがアーサーに尋ねた。
「……インディアンだ……」
アーサーは斜め前方の馬に乗った男に視線を釘付けにしたまま呟いた。昨夜見た新聞の記事の中でインディアンの絵が書いてあったが、それにそっくりだったのだ。
「本当か?」
興奮した声を上げたアンディーは、御者席に身を乗り出すとアーサーの傍らに置いてあるライフルを摑んだ。
「あいつか……よーし……」
「アンディー! 何を……」
トビーが止める間もなくアンディーは男に向かって発砲した。しかし生まれて初めてアンディーが撃った弾は、銃身が跳ね上がったために大きく逸れた。
「チッ! 外したか……アーサー、ちょっと馬車停めろ!」
ライフルのレバーを引きながらアンディーが命令した。そして再度その男に銃口を向ける。
「アアアー! エー!」
男が上げた大きな雄叫びは空気を震わせ、馬車の中に緊張が走った。それでもアンディーは男に狙いをつけたままライフルを放さない。トビーが堪らずに叫んだ。
「アンディー! 止めるんだ!」
「何で? どっかで聞いたよ、あいつら人間じゃないんでしょ? 開拓を邪魔する敵だって。軍隊だってインディアンを殺してる。きっとあいつの首を持っていけば、褒美で金が貰えるよ」
アンディーは乾いた唇を舌で湿らせながらニヤッと笑った。男は右手に弓を持ち、左手で背中に背負った矢筒から一本の矢を抜いた。
「アンディー! 危ないから止めろ!」
「フン……殺せばいいのよ……」
それまで俯いてぼんやりとしていたクリスティーナが薄笑いを浮かべて呟いた。その言葉にアンディーは「へへへ」と笑った。
「大丈夫だよ。あいつ弓矢しか持ってない。あんな物で何が出来る?銃の方が強いに決まってる……」
その時アンディーの耳に「ヒュン!」という空を切る音が聞こえた。アンディーが顔を上げると、目の前には茶色の矢羽があった。
「えっ?」
アンディーは驚愕に目を見開いた。矢はアーサーの首を貫いていた。
「ア、アーサー……」
アーサーの身体がぐらりと横に傾いたかと思うと、忽然と御者席から消えた。馬に乗った男は自分の前を通り過ぎる馬車を目で追いながら甲高い口笛を吹いた。
凛の意識は朦朧としていた。アンディーが放った銃声に身体が反応してびくついたものの、今の三人の大騒ぎには気付いていなかった。ただ目を閉じてしまっている千代丸の頭を抱いているだけだ。単調な色の砂地の上に落ちていた黒い塊が目に入ったが、それがアーサーだということは分からなかった。
御者が居なくなると馬車は暴走を始めた。急に速度が上がり、地面の凹凸に乗り上げがたがたと激しく揺れる。
「もしこのステップから落ちたら……」
ぼんやりとした凛の頭の中に警鐘が鳴り響いた。腕をロープで繋がれているのだ。馬車に引き摺られてしまう。凛は縛られている手で支柱を握ると、もう片方の腕で千代丸の身体を強く抱き締めた。
ロバートソン一家の叫び声は凛の耳に届いていなかったが、遠くから近付いてくる地響きのような音と振動を感じ首を巡らせた。
荒野に立ち昇る陽炎の中、砂煙を従えた人馬の一隊がこちらへ向かって疾走して来る。
「やっぱり……やっぱり……」
興奮に心臓が高鳴り凛は呟いた。兜を被り弓矢を持っている。凛には彼らが武将に見えたのだ。
「この国にも日本人がいたんだ……もしかしたら、さっきの町で私達のことを聞いて、助けに来てくれたのかも知れない……」
凛は大きく口を開けて、熱く乾いた空気を吸い込んだ。
「助けてー! 助けてー!」
肺が痛んだが、精一杯の声を張り上げた。彼らは疾走する馬の上で弓矢を構える。
「まずい! 団体で来た! 仲間を呼んだんだ!」
トビーは御者がいなくなって暴走する馬の手綱を取ろうと手を伸ばしながら叫んだ。
「あ……あ……」
アンディーはすっかり怖気づき幌の中に引っ込んだ。荷物に背中を押し付けてしゃがみ込むと、脚の間に立てたライフルを抱き締めて震え出した。
「皆死ねばいいのよ……皆……」
クリスティーナは薄笑いを浮かべたまま、小さな声で繰り返し呟いている。
突然先端に尖った石が付いた矢が、幌を突き破って飛び込んできた。トランクに刺さった矢を見てアンディーが大きな悲鳴を上げた。
「大丈夫か? アンディー、クリスティーナ!」
御者席に身を乗り出したトビーが後ろを向いて叫んだ。アンディーはパニックに陥り、クリスティーナは狂ったように笑い出していた。
その時、馬車を引いている二頭の馬のうちの一頭の脚の付け根に矢が刺さった。馬が大きくいななき、後ろ脚を蹴り上げて前につんのめってしまった。もう一頭の馬は前に進もうとするので、馬車はバランスを崩して傾いた。
凛は馬車が倒れると気付いた時、咄嗟に千代丸の頭を腕に抱え込んだ。あっという間に横倒しになった馬車の幌の支柱に凛は額をしたたかにぶつけ、意識を失った。
「……痛い……」
ずきずきする額の痛みに無意識に呟いた自分の声で凛は目を覚ました。どれくらい気を失っていたのか分からないが、さっきまでの喧騒は消えて辺りは静寂に包まれていた。その中で、横倒しになった馬車の車輪がからからと空転する音だけが小気味良く聞こえている。
凛はハッとして上体を起こし、自分の下敷きになっている千代丸を見た。千代丸の髪や顔は砂に汚れているが、怪我はしていないようだった。
「千代! 千代!」
必死で呼びかけたが、千代丸は目を閉じたままだ。顔を寄せると「はぁっ、はぁっ」という荒い息遣いが聞こえ、凛は安堵の息を洩らした。
その時、それまで容赦なく照り付けていた太陽の光が遮られ凛と千代丸は影に包まれた。凛が顔を上げると、数人の男に取り囲まれていることが分かった。真ん中の男は黒く鋭い目で凛と千代丸を見下ろしている。日に焼けているのか分からないが浅黒い肌、両方の頬骨の間、鼻梁を横切って黄色い線が描かれている。
彼らを侍だと思ったのは自分の勘違いだったと凛は気付いた。兜だと思った物は、柔らかそうな革で出来た鉢巻だったのだ。それでも凛は無意識に彼らに向かってすがるように手を伸ばした。
「た……すけて……」
彼らに日本語が通じるのか分からなかったが、今はそれしか口から出なかった。
男達は互いの顔を見合わせて、何事か言葉を交わしている。敵なのか味方なのかも分からない。しかし今の状況ではこの男達にすがりつくしか道がないのだ。掠れる声を絞り出し凛は懇願した。
「お、お願い……助けて……」
真ん中にいる男は隣の男の顔を見て頷くと、腰に下げていたナタを手に取り頭上高く振り上げた。その刃の先端で屈折された太陽の光が凛の目を強く射る。くらくらとした凛は、振り下ろされるナタを見つめながら、再び暗闇の中へ引きずり込まれていった。