十七
次の朝、凛と千代丸は日の出と共に目を覚ました。着替えなどのわずかばかりの二人の荷物は、凛の白いブラウスを風呂敷代わりにして包む。アーサーはまだ眠っている。もしかしたら、すでに目を覚ましてはいるが寝たふりをしているのかもしれない。
「別れが辛くなるから寝ている間に行ってくれ」
昨夜アーサーに言われていたので、凛と千代丸は寂しい気持ちを抑え起こすようなことはしなかった。
ロバートソン一家がいる隣の部屋の前を忍び足で歩き、二人は宿の外に出た。
「ごめんなさい……」
ロバートソン一家が寝ている部屋の窓を見上げて呟くと、昨夜宿の主人に教えられた停車場へ千代丸の手を引いて急いだ。
しかし、いくら待っても馬車はやって来ない。そのうち辺りに人通りが多くなってきた。正直、ここら辺の人達にとって何時が『朝早く』なのかは凛には分からない。それに馬車がやって来るのは御者次第だし、馬次第なのだろう。
「遅いね……」
千代丸が不安そうに呟き、凛は黙って頷いた。
どの方角から来るのかも分からないまま辺りを見回していると、宿がある方角からアーサーの姿が目に入った。手を頭に載せ、俯きながらこちらに歩いてくる。
「アーサー、どうして……」
その時アーサーの後ろにいるクリスティーナが見えて凛は愕然とした。アーサーが両手を頭に載せている訳、それはクリスティーナが拳銃を持っているからだ。その銃口はアーサーの背中に押し付けられている。
「ここにいたのね……」
薄笑いを浮かべたクリスティーナの陰鬱な目の光に凛と千代丸は震え上がった。
「良かったわねアーサー、この子達がもう出発してたら撃ち殺されてたところよ」
「リン、チヨ……すまない……」
アーサーが悲痛な声で言うと、クリスティーナは細い身体を仰け反らせて高笑いをした。しかしすぐに険しい顔に戻ると、凛と千代丸に罵声を浴びせ掛ける。
「私から逃げようとするなんて、この恩知らず!」
「クリスティーナ!」
血相を変えたトビーが駆けて来た。
「ここにいたのか……何だそれは! 何で銃なんか持ってるんだ?」
蒼ざめて問うたトビーに、相変わらず薄笑いを浮かべたクリスティーナは手にした銃を自慢げに振ってみせた。
「昨夜、知らない男から買ったの。だって、こんなロクでもない町にいるのよ。銃は必要でしょ? さあ! 戻りなさい!」
凛は向けられた銃口から守るように千代丸を背中に隠した。繋いだままの千代丸の手が震えている。
もうこうなってしまっては仕方がない。駅馬車の姿もまだ見えないし、どこにも逃げることが出来ない。千代丸を庇いながら凛は宿への道を歩き始めた。
「もっと早くこうしていれば良かったのよ……見てトビー、銃があれば皆が私の言うことを聞くのよ」
怒気を含んだ声で嘲るようにクリスティーナが言った。
宿の前に停められた馬車に寄り掛かり、不機嫌そうに腕を組んでいるアンディーが凛達に気付いた。その足元には荷物が山積みに置かれている。
「早く積めよ!」
アンディーが荷物を指差して怒鳴った。アーサーと凛と千代丸の三人は、急いで馬車に駆け寄った。
「まったく……母さんを怒らせるなよ!」
荷物を積み込んでいる凛の耳元にアンディーが声を潜めて叱責した。
「す、すみません……」
凛の謝罪の言葉も聞かずにアンディーは踵を返すと馬車に乗り込み、不機嫌さを露にどっかりと腰を下ろした。
トビーはクリスティーナを馬車に促した後、凛の元に近付いた。
「従兄弟の農園に着いて落ち着いたら、サンフランシスコまで送り届ける。約束するよ……だから、それまでは我慢してくれ」
トビーに懇願され、凛は力なく頷くことしか出来なかった。
アーサーと千代丸が馬車の一番後ろに水を乗せようとした時だった。アンディーがうんざりしたように呟いた。
「陽射しに当たると、すぐ熱くなるんだよな……」
確かに金属のタンクに入れられた水は、日中の強い陽射しによって瞬く間に熱湯に変わってしまう。アンディーの呟きを聞いたクリスティーナは馬車を降りた。
「水をもっと奥に入れなさい。リン、チヨ、あなた達は馬車の後ろに座るのよ」
クリスティーナは凛と千代丸を馬車の後部に付いているステップに後ろ向きに座らせ、二人の手首にロープを巻きつけると幌を支えている支柱に結いつけた。
「あれじゃ干上がりますよ」
御者席のアーサーが振り返ってトビーに言った。
凛と千代丸が座っている場所は幌の影が届かない。トビーは頷くと、強張った声でクリスティーナに呼びかけた。
「ク、クリスティーナ……それじゃ、あまりにも可哀想だよ」
「この子達は私が拾ったの。私のものよ。これは逃げようとした罰」
薄笑いを浮かべ、こともなげに言い放ったクリスティーナは首を巡らせて広場を見た。そこには絞首刑台があり、昨夜から三人の男が吊るされたままになっている。
「あれを見なさい! 悪いことをした者はああなるのよ! 何だったらロープを首に巻いてもいいのよ」
「そう言う自分が、マトにしたことは悪いことではないの?」
凛は憤りを感じて心の中で呟いたが、それを口に出す勇気はなかった。何故ならクリスティーナの目は今や完全に正気を失っているからだ。
嫉妬や絶望や裏切りが彼女の心に大きな傷を作り、以前はそこに溢れていたはずの優しさや情愛を全て押し流してしまったのだ。凛は悔しくて唇を噛んだ。隣の千代丸は俯き、悲しそうな目で陽の当たる地面を見ていた。