十六
次の日トビーは二頭立ての幌馬車を手に入れた。荷物を運び入れ、調達した水と食料を積むと、人が乗る空間はかなり狭い。
トビーに幌馬車を売った男が白くなった顎鬚をさすりながら言った。
「インディアンには気を付けたほうがいいぞ。捕まったら頭の皮を剥がされちまうからな」
列車に乗る前にトビーが言っていた野蛮な先住民のことだ。捕まったらおそらく命はないのだろう。男の言葉にクリスティーナを除いた全員が恐れおののいた。そして、その男が勧めた通り、トビーはライフルを一丁手に入れた。
クリスティーナはといえば、俯き鋭い視線で凛と千代丸を睨みつけていた。彼女にとっては周りにいる全ての人間が敵なのだ。今さらインディアンという姿の見えない敵が増えたところで、クリスティーナには何の恐怖もないのだろうし、男の話も聞こえていないようだ。
アーサーが手綱を握り、ロバートソン家の三人が車に乗り込んだ。その後ろに荷物を置き、凛と千代丸は荷物の後ろの隙間に身体を滑り込ませる。西には険しい山脈がそびえている。幌馬車はひとまず南に向かって進む。岩がちの山地はでこぼことしていて、幌馬車での旅は困難を極めた。そして食料や水を調達するため、近くの町に寄らなければいけないのだから遠回りになることも珍しくなかった。
清清しい山の空気も低地に出ると灼熱地獄に変わる。時折別の馬車や人馬が見えると、トビーはライフルを手に油断なく辺りを窺っていた。トビーは十代の頃、亡くなった父親に狩猟に連れて行ってもらったことがあると言う。
「父に『撃ってみろ』と言われたんだが、怖くてね……」
恐る恐る試したが反動で尻餅をつき、一発だけ撃った銃弾は空に吸い込まれていったらしい。勿論人間を撃った経験などないと言う。百戦錬磨のガンマンに敵うはずもないのだが、トビーは家族を守るために必死だった。
乾いた荒涼とした土地は旅人の気持ちも荒れさせる。アンディーは文句が多くなり、クリスティーナに至ってはトビーの気遣いをよそに被害妄想や強迫観念を日増しに強めていった。
「こんな目に遭わせて! 私を殺そうとしているんでしょう?」
「こんな地獄みたいな所に私を一人置いてけぼりにするつもりなんだわ……」
そんなことを突然言い出しては泣き喚くのだ。その度に凛と千代丸は震え上がった。
ある日サンタフェという大きな町についた。オレンジ色の日干し煉瓦の建物が並ぶ、とても綺麗な町だ。ここに一晩滞在することになった。 その宿で凛は意外なものを目にした。ロビーに置いてあった新聞の一つの記事に、着物を着て髷を結った男達の写真が出ていたのだ。それは数年前に日本からサンフランシスコに着いた使節団の写真だった。記事は、欧米人から見たら奇異な日本人の装いをインディアンと比べて揶揄したものだった。しかし凛はここで日本人の写真を見たことに胸を躍らせた。もしかしたら、このサンフランシスコという場所に行けば、この人達に会えるかも知れない。そう思ったのだ。国の代表として渡米しているわけだから、おそらく偉い人達なのだということは分かる。それでも事情を話せば、一緒に日本へ帰ることが出来るかもしれない、と。
ロバートソン一家が部屋に引き上げた後、凛は新聞を持って宿の主人に尋ねた。
「さあねえ……もう帰っちまったんじゃねぇか?」
「そ、それじゃ……サンフランシスコという所から日本に行く船があるんですか?」
「さあ……何たって大きな町だし……大きな港もあるだろうから、外国に行く船も出てるんじゃないのか?」
主人はたいして関心もない様子で答えた。それでも凛の心には希望が湧いた。
「そこに行くには、どうすればいいんですか?」
凛が興奮して訊くと、主人は広がった額を掻きながら「う~ん」と唸った。
「まあ……行くとしたら駅馬車で北へ向かって、西行きの列車に乗るしかないんじゃないか……お嬢ちゃんには馬で行くのは無理だろう。でも、危険だと思うぞ……」
結局、数日前に列車を降りた町に戻らなければいけない。その頃には爆破された線路も修復されているだろうか。危険なのは充分承知しているが、それは今の状況も同じだ。このままではそのうちクリスティーナに殺されるだろう。マトのように。今のクリスティーナは何がきっかけで逆上するのか分からないのだ。
上手く行けば、サンフランシスコから日本行きの船に乗ることが出来るかも知れない。時間は掛かるだろうが、その可能性に賭けてみてもいいのではないか。それに何よりも、凛は故郷に帰りたくてしょうがなかった。宿の主人が言うには、その乗合馬車は朝早く出るという。
部屋に戻り、千代丸にそのことを告げた。今日は二部屋しか取れなかったため、アーサーも同じ部屋で新聞を読みながら凛の説明に耳を傾けている。
「どう? 千代、一緒に日本に帰ろう」
千代丸は凛の提案に顔をこわばらせながらも頷いた。
「うん……インディアンとか無法者とか、ちょっと怖いけど……姉上と一緒なら、どこでも行くよ」
凛は安堵の息をつくと、アーサーに顔を向けた。
「アーサーは? 私達と一緒に日本に行く?」
新聞から顔を上げたアーサーは首を振った。
「こんな歳で今さら言葉の通じない国に行ったって、どうにもならんよ」
凛は心配になった。今日クリスティーナはアーサーにも当り散らしていたのだ。手綱を握るアーサーに「とんでもない場所に連れて行こうとしている」だの「マトと同じ黒人の悪魔」だのと。そんな罵詈雑言を聞くうちに、アーサーのことが気の毒になったのだ。
クリスティーナがこうなると、アンディーはうんざりしたように目を回して肩をすくめ知らん振りを決め込む。トビーは地図を出して説明しながら必死にクリスティーナをなだめるのだ。
「でも、心配だわ……アーサーもそのうち奥様に……」
説得しようとした凛を遮ったアーサーは断固とした口調で言った。
「いいや。俺は死んだ先代の旦那様に雇われて、十代の頃からロバートソン家に仕えてるんだ。トビーのことは生まれた時から知ってる。いくら奥様の気が触れてしまったからといっても、見捨てるわけにはいかない。トビーには地獄まで付き合うよ」
「そう……」
これ以上言っても無駄だということが分かった凛は寂しさに俯いた。その肩をアーサーが軽く叩く。
「お前達はまだ若いんだ。未来もある。好きにしたらいい」
立ち上がったアーサーはジャケットのポケットから小さな袋を出し、そこから出した銀貨を凛に手渡した。
「餞別だ五十ドルある。何かの足しにはなるだろう」
「で、でも……」
掌の上の銀貨を見て戸惑っている凛にアーサーは笑った。
「大丈夫だ。カリフォルニアまでのタバコ代ぐらいは残ってる。こんなことぐらいしかしてやれないが。明日は朝早く出たほうがいい。奥様に見つからないように」
「ありがとう……アーサー。元気で……」
凛と千代丸の目から涙が溢れた。アーサーは微笑みながら頷き、三人は互いに抱擁を交わした。