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十五

 その町で一番立派な宿を取り、凛はクリスティーナと一緒の部屋で寝ることになった。クリスティーナの解いた髪に凛がブラシを入れている時、部屋のドアがノックされた。

「リン、ちょっと来てくれ」

扉の向こうからトビーの声が聞こえる。

「あ、はい……」

凛はブラシを置くと部屋の扉に向かった。クリスティーナは椅子に座ったまま、凛の後姿を冷たい視線で追っている。

 廊下に出てドアを閉めた凛にトビーが心配そうな顔で尋ねてきた。

「クリスティーナの様子はどうだね?」

「はい……さっき店であったことがショックだったみたいです。少し落ち着かないみたいで……」

トビーは顎に手をあてて俯いた。

「ふむ、そうか……ちょっと気を付けて様子を見ててくれ。隣の部屋に居るから、彼女に何かあったらすぐに呼んでほしい」

「はい。分かりました」

凛は神妙な顔で頷いた。

「じゃあ、頼んだよ。リン」

トビーは凛の肩をポンと叩いて隣の部屋へ戻った。

 凛は、一度は裏切ってしまった妻を本当に心配しているトビーの背中を見送った。きっと深く後悔しているのだろう。自分のせいでクリスティーナが精神を病んでしまったことに。その責任と、何よりも深い愛情がトビーから感じられた。しかし、クリスティーナがそれに気付くことはあるのだろうか。一度失った信頼を取り戻すのは容易ではない。だからこそ、トビーは今までの地位も、親から受け継いだ財産をも投げ打って新しい生活を始めることを選んだのだ。傷付けてしまった妻の為に。トビーが誠心誠意クリスティーナに尽くす姿には胸を打たれる。

 どうかトビーが報われるようにと願いながら凛は扉を開けた。椅子に座ったままのクリスティーナが部屋に戻った凛に顔を向ける。その冷たい視線に捕らえられ、凛の心臓は一瞬跳ね上がったが、クリスティーナは黙って視線を逸らした。凛はクリスティーナを気遣わしげに覗き見ながら、寝るために着替えを始めた。

 もうすぐ十四歳になる凛の身体は段々と女らしくなってきている。クリスティーナは首を巡らし、成長著しい凛の身体とその瑞々しい肌を眺めた。

「あの……何か?」

絡みつくような視線を感じた凛がクリスティーナに尋ねた。

「あなたもそのうちトビーと寝るのね……」

「えっ?」

膝まである綿の白い寝巻きを被った凛は首を傾げた。言われていることがよく分からない。

「あの……何のことですか?」

クリスティーナがすくっと立ち上がった。凛を捉えたその目は激しい怒りに燃えている。

「とぼけるんじゃないわよ……トビーを誘惑するチャンスを狙ってるんでしょ? あの黒人の淫売みたいに」

クリスティーナは吐き捨てるように言いながら凛に近付いた。

「な、何のことか分かりません……」

一歩後退った凛の頬をクリスティーナが思い切り平手打ちした。堪らず凛は悲鳴を上げて床に倒れこむ。クリスティーナは鬼のような形相で倒れた凛に馬乗りになった。

「この薄汚い売女!」

口汚く凛を罵りながら、両の拳で頭や肩をめちゃくちゃに殴りつけてきた。

「やめて下さい! だ、誰か助けて!」

わけも分からぬまま責められ、凛が泣きながら叫ぶと部屋のドアが勢いよく開いた。姉の悲鳴を聞き、駆けつけた千代丸が二人の間に割り込んだ。

「やめろ!」

床に仰向けで倒れ必死に逃れようとしている凛に覆いかぶさった千代丸の頬をクリスティーナが手の甲で打った。弾き飛ばされ尻餅をついた千代丸の口の端からは血が滲んでいる。

「チヨ、あんたまで私を侮辱して……せっかく目を掛けてやったのに!」

唾を飛ばし喚きたてるクリスティーナの目に狂気が宿った。

「千代!」

凛がやっとのことで上体を起こすと、千代丸の後ろで驚愕に目を見開いているアーサーとトビーが見えた。

「ク、クリスティーナ……」

トビーがクリスティーナを後ろから抱き抱え、凛から引き離した。

「離して! あなたもこの女の味方なのね! また私を裏切るんだわ!」

クリスティーナは髪を振り乱してトビーの腕の中で泣き叫んでいる。

「すまない、リン……」

暴れるクリスティーナを抱き抱えたまま、部屋を出ようとしたトビーが泣きそうな顔で凛に呟いた。

「姉上! 大丈夫?」

千代丸が駆け寄り凛を起こした。殴られた頭や肩がどくどくと脈打っているが、痛みは感じない。それよりも心に受けた衝撃の方が強かった。身体の震えは止まらなかったが、凛は千代丸を安心させたくて頷いた。

  

 そのままクリスティーナはトビーの部屋で寝ることになった。トビーがアンディーにアーサーの部屋へ行くように告げると、廊下から大きな声で文句が聞こえてくる。

「何で俺が使用人と同じ部屋で寝なくちゃいけないんだ?」

「仕方ありませんよ」

わがままなアンディーをアーサーがやんわりとたしなめた。

 ベッドに入り横になると、殴られた場所がずきずきと痛み出した。

「大丈夫?」

隣のベッドにいる千代丸が心配そうに尋ねてくる。凛は痛む肩をさすりながら頷いた。

「うん……千代の方こそ大丈夫なの?」

千代丸の口の端にはまだ血が滲み、頬も赤く腫れている。それでも千代丸は弱々しく微笑んでみせた。

「大丈夫だよ、これくらい……でも、奥様は何でこんなことするんだろう? あんなに優しかったのに……」

 マトの一件が起こる前、クリスティーナは千代丸をとても可愛がっていた。そして千代丸もまた、クリスティーナを慕っていたのだ。きっと母親のように思っていたのだろう。その千代丸に手を上げるなど、あの頃には考えられないことだった。悲しそうな千代丸に凛は慰める言葉を掛けてやることも出来ずにいる。

 壁の向こうからはむせび泣くクリスティーナの声が聞こえてくる。疑心暗鬼に囚われているクリスティーナ、全ての人間を敵だと思い込んでいる。皆が自分を裏切り、陥れようとしていると。

 凛はふと恐ろしい考えに至った。このままでは自分も千代丸もそのうちクリスティーナに殺されてしまうのではないか、と。マトのように。

 寝付かれずに天井を見上げている千代丸の横顔を見つめた。まだ幼さは残っているものの、段々と大人の顔になってきている。純真さと思慮深さが混じり合うその瞳を決して曇らせてはならない。自分に残された家族は千代丸だけなのだ。それは千代丸にとっても同じこと。

 それでも今の凛には、どうすれば自分達を守ることが出来るのか分からなかったし、そんな術があるのかどうかも知らないでいた。


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