十三
リサの葬儀が終わってからのクリスティーナは、すっかり気落ちしてしまって全く自分のことに構わなくなった。以前あれほど身なりに気を遣っていた彼女だが、この頃は昼間でもガウンのままでいることが多い。輝いていた髪は艶を失い、まるで厩舎に積んである干草のように色褪せもつれている。さらに化粧っ気もなくなった。一日中長椅子に凭れ、落ち窪んだ目でぼんやりと宙を見ている。それでもたまに正気に戻る時があり、そうすると凛が鏡の前で髪を結い上げてやる。穏やかに話をしている時でも、一瞬でそれが破られることがあった。突然悲鳴を上げ、目の前の鏡にマトが映ったとか、部屋の暗がりを指差し、あそこにマトがいると喚いて泣き出すのだ。
一度はガウンのまま邸から飛び出し、閉まっている門に手を掛けて「助けて! 助けて!」と叫び出したことがあった。アーサーが抱き抱えるようにして邸に連れ帰ったが、たまたま通りがかった人達は、驚きに目を丸くしてクリスティーナの奇行を見ていた。
他の者にはもちろん見えないが、きっとクリスティーナには見えているのだろうと凛は思った。あんなに惨い殺され方をしたマトの怨念が、この邸にまだ漂っていても不思議ではない、と。
このような調子で、クリスティーナが精神を病んでいるという事実は瞬く間に世間に広がった。トビーの会社の同僚の夫人達を招いて頻繁に行われていた茶会もなくなり、またクリスティーナが招待されることもなくなった。潮が引くようにロバートソン家の周りから誰もが遠ざかっていったのだ。そして今度はクリスティーナが彼女達の噂話の種になっていることも明らかだった。
彼女達の噂話は自然とその夫達の耳にも入る。クリスティーナの状態はトビーの会社での立場にも影響した。それでもトビーは妻を心配し、献身的に尽くしていた。出来る限りクリスティーナの傍に居ようと心掛けていた。仕事にも差し障りがないように奮闘していたが、折りしもその頃ヨーロッパ中を襲った恐慌による不景気のためトビーは会社を追われた。
その後はどうやって生計を立てるかトビー一人で画策していたが、ある日学校からアンディーを呼び寄せると家族の前で自分の計画を発表した。
「私の従兄弟のアダムがアメリカに住んでいるのは知っているね?」
トビーはテーブルに身を乗り出し、決意に満ちた顔で話し出した。クリスティーナとアンディーは共に頷いた。今日のクリスティーナはいつになく落ち着いている。トビーはそのタイミングを待っていたのだ。
トビーはテーブルの上にアダムからの電報を出した。
「アダムから一緒に果樹園の経営をしないかと誘われてね。カリフォルニアなんだが、大陸を横断する列車に乗ればすぐだ。蓄えのあるうちに新しい生活をしたいと思ってる」
「カリフォルニア……」
クリスティーナとアンディーが同時に呟いた。
トビーは早くこの呪われた邸から逃げ出したかった。どのみち、ここまでクリスティーナの噂が広まっては、これ以上この街に住むことは出来ない。そう考えていたのだ。
「アダムの話では、とても気候が良いらしい。清清しい空気に輝く太陽。魅力的だとは思わないか?」
そんな場所ならば、家族の間に流れる暗い空気も払拭できるだろうし、経営者として労働者を雇えばクリスティーナの傍に居ることが出来る。新しい場所、新しい仕事、そこで新しい生活を始めるのだ。トビーは興奮していた。
「アメリカ……」
凛は呟いた。その国の名前は知っている。どんな所なのか詳しくは分からないが、とてつもなく大きい国だと聞いた。
トビーの提案どおり、そこへ行くことが決まった。使用人達は彼らの決定に従うしかない。凛はまだ見ぬ大国に思いを馳せた。さらに日本から遠ざかるのだろうか。それとも、ここより日本に近付くのだろうか。いつか千代丸と一緒に故郷へ帰ることが出来るだろうか。様々な疑問が頭の中を通り過ぎていく。唯一つ凛に分かるのは、また新しい波がやって来るということだけだ。
アメリカへ向かう準備は着々と進み、トビーは祖父の代からの邸をも売却した。
「もう後戻りは出来ない。新天地を目指すのだ」
ロバートソン一家は決意に満ちていた。
港へ向かう馬車の用意が済むと、千代丸は庭を見渡した。春の花園には赤とピンクの薔薇が咲き誇っている。
「新しい所にも薔薇が咲くのかな……」
千代丸が少し寂しそうに呟いた。アーサーが父親のような眼差しで千代丸の肩に手を置いた。十一歳になった千代丸はここへ来た時よりも二十センチも背が高くなっていた。
「ああ。薔薇も咲くし、もっと色んな花が咲いてるだろうな。俺たちが見たこともないような花がね」
アーサーが力強く言って微笑むと、千代丸も顔中に笑みを浮かべて頷いた。
馬車に乗り込んだ千代丸が凛の隣に座った。
「また大きな船に乗るんだね。新しい所もきっと良い所だよ」
千代丸はにっこりと笑って凛に話した。凛は馬車の中から外に居た千代丸を覗き見ていた。庭を見つめていた時の寂しそうな様子を。アーサーの一言で途端に笑顔になったのも。もう心は新天地へ向かっているのだ。
「うん」
凛も笑顔で応えた。何よりも千代丸が笑顔でいるということ、それが大事なのだ。凛は頷きながら、全てが変わってしまったあの日にたてた誓いを改めて心の中で繰り返した。
「何があっても千代丸を守るって決めたんだから……」
アーサーが掛け声を掛けて馬に手綱を打ち、馬車はゆっくりと走り出した。千代丸はにこにことしていて、もうロバートソン邸を振り返ることはない。気持ちの切り替えが早いのも千代丸の良い所だ。それでも凛にとっては少し寂しい気持ちもある。千代丸はもう故郷を忘れてしまったのだろうか、と。両親のこと、三人の兄達のことも。自分がどこから来たのかを、この長い旅路の途中で思い出すことはなくなったのだろうか。
船に乗り込むと港にいるたくさんの人達が見えた。これから船出をする乗客の見送りに来た人達だ。しかし、クリスティーナの悪い噂が広まり、トビーも会社を追われたロバートソン一家には一人の見送りもいなかった。日本から出港した時はたくさんの人が集まっていたのに。凛と千代丸のことも、あの時はサムが見送ってくれた。
「せいせいするな……」
甲板の柵に背中を預けたアンディーが呟いた。アンディーの同級生もいないようだ。彼が通っていた学校には、トビーの会社の同僚の子供もたくさんいたのだ。最近では友達もアンディーから離れていったそうだ。
普段は皮肉屋で使用人を見下し、良い印象を持っていなかった凛だが、この時ばかりはアンディーに同情した。強がっているが、本当は寂しいのだ。もう二度と戻れないかもしれない、故郷を離れる時の気持ち。凛にはそれがよく分かった。
船が外洋に出ると、遥か彼方にある水平線に目を凝らした。その向こうに目指す場所がある。凛は背伸びをして、まだまだ見えるはずもないその大陸を捜した。