十二
夏休みの間、邸に戻っていたアンディーとリサもマトの一件を聞いてクリスティーナの様子に違和感を感じていたようだ。邸の中ではクリスティーナだけが楽しそうに振舞っている。しかし、それは以前のように家族のためのものではない。この家の厄介事の後始末をしたのは自分だと、さも誇らしげにしていたのだ。
「リン、リン?」
「は、はい!」
食堂の隅で考え事をしていた凛は、クリスティーナに呼ばれているのに気付くと慌ててテーブルへ向かう。クリスティーナは空になっているパンの籠を手で示した。
「パンを持ってきてちょうだい。どうしたの? ぼんやりして」
「す、すみません。ただ今」
籠を持ってキッチンへ向かおうとした凛に、冷たい目をしたクリスティーナが言った。
「きちんとしてくれないと困るわよ。あなたも厩舎の屋根に登りたい?」
凛は足を止め、蒼ざめた顔でクリスティーナを振り返った。テーブルにいた家族全員が食事の手を止め、言葉もなく不安げにクリスティーナを見ている。
「いやぁねぇ、冗談よ」
皆の視線に気付いたクリスティーナは鈴を転がすような笑い声を上げた。しかし笑っているのはクリスティーナ一人だ。
彼女だけがこの邸に垂れ込める暗い空気に気付いていない。この時既に、クリスティーナは壊れていた。
陰鬱な夏休みが終わり学校に戻ったアンディーとリサは、週末になっても邸に帰ってこないことが多くなった。課題が間に合わないだの、友達の家に泊まるだのといった電報を受け取るたび、クリスティーナはがっくりと肩を落とす。その激しく気落ちした様子は、見ている方が辛くなるほどだった。そして、気落ちしたクリスティーナは奇行に走る。その被害を被るのは使用人達だ。
庭にはセージが咲き誇っていた。アーサーと千代丸が丹精込めて育てたのだ。しかしクリスティーナは千代丸にそれを全部抜いて燃やせと言い付けた。この匂いが頭痛を引き起こすと言って。アーサーと千代丸は日中その作業に追われた。
摘んだ花を邸に飾り、それを見れば元の優しいクリスティーナに戻るだろうと思っていた千代丸にとって、それは辛い作業だった。涙を堪えながらせっかく咲いたセージを焚き火に放り込んでいる千代丸の姿は、邸の窓を拭きながら見ていた凛の胸を締め付けた。
クリスマス前のことだった。突然リサの学校から電報が届いた。リサが高熱を出していると言うのだ。急いでアーサーが迎えに行き、家に戻ったリサは意識が朦朧としていて身体中に赤い発疹がある。医者は猩紅熱だと診断した。高熱による脳炎も引き起こしている、と。
医者はうろたえながらすがるトビーに沈痛な面持ちで首を横に振った。
「残念だが、もう手の施しようがない……本来はもっと小さい子供が掛かる病気なんだが……」
首を傾げる医者の言葉を聞き、トビーは頭をうなだれた。
「そ……そんな……」
クリスティーナは呆然とした顔でリサのベッドの脇にへたりこんだ。
「マ、マトだわ……」
「何だって?」
クリスティーナの呟きにトビーが蒼ざめた。
「そうよ……マトの呪いだわ……あの売女……」
クリスティーナは震えたまま吐き捨てるように呟いた。
医者が引き上げると全員が頭を抱えた。このままではリサが死んでしまう。
「別の医者を呼ぼうか……ロンドンで一番の名医を紹介してもらおう……」
「いいえ。医者には無理よ」
ソファから腰を浮かしたトビーを制し、クリスティーナが決意に満ちた顔で立ち上がった。
その日の夜、クリスティーナに呼ばれて初老の男がやって来た。骸骨を思わせる痩せこけた顔には、ほとんど白髪になった口髭があり、黒く長い外套を脱ぐと修道士のような格好をしている。
「非業の死を遂げた黒人メイドの呪いがリサに掛けられているに違いない」
クリスティーナの必死な説明を聞いたその男は、落ち窪んだ目を閉じ顎をさすりながら訳知り顔で同調した。
男は「これから悪魔祓いの儀式をする」と言ってリサの部屋へ入って行った。それを聞いたトビーと、報せを聞いて帰って来ていたアンディーは共に困惑して顔を見合わせた。
その男は苦しそうに喘いでいるリサの胸にロザリオを置くと、まじないのように何かをぶつぶつと呟いた。そして聖水だと言う小瓶に入った水をリサに振り掛け、それが済むとクリスティーナから大金を受け取り、数えながら帰って行った。その様子にトビーもアンディも眉をひそめたが、クリスティーナだけはこれでリサの病気が治ると本気で信じていた。
その後もリサの容態は変わらない。それどころか時間が経つにつれ、どんどん衰弱していった。トビーとアンディーが止めるのも聞かず、次の日もその次の日もクリスティーナはその怪しげな男を呼んだ。
連日同じ儀式を繰り返し、クリスティーナも一緒になって祈ったが、リサはこの邸に帰ってきてから四日目の深夜に息を引き取った。一度も目を開けることなく、静かに呼吸が止まり弱々しく上下していた胸が動かなくなった。魂が抜けてしまった後のリサは、前よりもひと回りほど小さくなったように凛には感じた。
「リサ! リサ……」
リサの枕元でトビーが叫び、その横でアンディーが嗚咽を洩らした。凛はベッドの足元でアーサーと手を握り合って啜り泣いていた。
「ああ……嫌!」
トビーとアンディーの反対側でクリスティーナが頭を抱え、叫びながらベッドに覆い被さった。俯いていたアンディーが顔を上げ、取り乱し泣き叫んでいるクリスティーナを睨みつけた。
「母さんのせいだ! 母さんがマトを! だからリサが…甘いr」
「やめなさい!」
トビーがアンディーを制した。クリスティーナはベッドから涙に濡れた顔を上げ、涙を流しながら首を振るトビーを見つめた。
「クリスティーナのせいじゃない。彼女をここまで追い詰めた原因は私だ……私が悪かったんだ……」
トビーはベッドを回り込むとクリスティーナの手を取った。
「クリスティーナ……今まで辛い思いをさせてしまって悪かった。許してくれ……」
トビーはクリスティーナをきつく抱き締めるとむせぶように泣き出した。アンディーはまだ温かいリサの手を握り、ベッドに顔を埋めている。激しく嗚咽を漏らし、最愛の妹をこちらの世界へ引き戻そうと名前を呼び続けた。
トビーもアンディも使用人達も、互いに寄り添ってリサの死という悲しみを分かち合おうとしていた。それでもクリスティーナの細い手はだらんと垂れ下がったまま、トビーを抱き締めることはなかった。口を半開きにし、虚ろな何も見ていない視線が部屋の空間を彷徨っているだけだった。
今にも雪が降りそうなほど、どんよりと曇った空の下でリサの葬儀が行われた。たくさんの参列者が集まり、茫然自失のクリスティーナの姿は皆の涙を誘った。しかし棺が埋葬される時になると、支えていたトビーの手を振りほどき、クリスティーナはリサが眠っている棺にしがみつこうとした。
「私も一緒に! リサ! 私のせいなの、ごめんなさい! 私のせいでマトの呪いが……」
泣き叫ぶクリスティーナをトビーとアーサーが押しとどめた。
そのクリスティーナの様子に参列客の多くはもらい泣きしながらも、なにやらひそひそと囁き合っていた。