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十一

 アーサーの忠告も空しく、事態は何も変わらぬまま過ぎていった。ただマトのお腹だけが日を追うごとに大きくなる。それでもマトはいつものように働いていたが、あの細長い脚で大きなお腹を支えるのは大変だろうと、凛はマトを気遣っていた。

 クリスティーナは来客がある時にはマトを部屋に閉じ込めておいた。客がマトの姿を見て、良からぬ噂が立つのを恐れているのだ。

「子供が産まれたらどうするつもりなのだろう……」

そんな懸念を抱いているのは凛だけではなく、この家の者全てが頭を悩ませていることだった。

 普通なら、子供の誕生というのはおめでたいことのはずだ。凛は生まれ育った里でのことを思い出した。子供が産まれる時は村中の女達が協力して手伝う。そこには身分の違いなどという物は存在しなくなる。あんなに小さな村では女達は皆協力しあうのだ。そして無事出産が終わると、命の誕生を村の皆で祝う。

 子供が産まれるとはそういうものだと思っていた。


 ある日のことだった。もうすぐ夏が来るとは思えない程、どんよりと暗い雲が広がっていた。居間の掃除をしていた凛のもとへ、千代丸が血相を変えて駆けて来た。

「姉上! 奥様が!」

「どうしたの?」

呼吸を整えて千代丸が外を指差した。

「お、奥様がマトに厩舎を掃除しろって……僕がやるって言ったんだけど、奥様がどうしてもマトがやれって……」

 厩舎の掃除など今までマトや凛が言いつけられたことはなかった。今のマトにそんな重労働は到底無理だ。アーサーは馬車でトビーを会社に送っているところで、今邸にはクリスティーナと使用人しかいない。凛と千代丸は急いで邸を飛び出した。

 凛と千代丸が厩舎へ向かうために母屋の裏へ回ったところでマトの姿が目に入った。重そうな木の桶を両手で提げ、よろよろとした足取りで厩舎から出て来た。その後ろからは腰に手をあてたクリスティーナが怖い顔でマトを睨みつけている。

「マ……」

凛が声を上げようとした時、マトが転んで桶の中に入っていた馬の排泄物をぶちまけてしまった。

「しっかりなさい!」

クリスティーナの檄が飛び、凛と千代丸はその声の鋭さに飛び上がった。二人は凛と千代丸に気付いていない。土の上に手と膝をついたマトは肩で息をしている。

「汚いわね。でもあなたには馬のフンがお似合いよ」

クリスティーナは跪いているマトの前で高笑いした。するとマトは地面に落ちている馬の汚物を摑み、思いきりクリスティーナに投げつけた。それはクリスティーナのリボンが付いた白いブラウスの胸に当たった。クリスティーナは一瞬何が起こったのか分からないというように自分の胸元を眺め、そして金切り声を上げた。

「この……」

クリスティーナは厩舎の壁に立て掛けてある大きなスコップを握った。凛は胸騒ぎがしたが、脚がすくんで動くことが出来ない。

「この……薄汚い黒人が! 奴隷の分際で!」

クリスティーナはスコップでマトの横っ面をひっぱたいた。マトは勢いよく頭から地面に叩きつけられた。重いスコップを振りぬいたクリスティーナの身体は反動で真横を向いた。再びマトに向けた顔は完全に正気を失い、凛にはまるで鬼のように見えた。

「私を怒らせたらどうなるか……思い知るがいいわ!」

クリスティーナがなおもスコップを振り上げたのを見て、凛は千代丸に向き直り思い切り抱き締めた。恐ろしい蛮行を決して見せまいと。

 すると遠くから馬車の音が聞こえた。アーサーが帰って来たのだ。

「千代、アーサー呼んできて!」

「う、うん」

千代丸が駆け出した直後、厩舎の前から叫び声と共に激しく何かがぶつかる音が聞こえた。凛は母屋の陰に隠れて厩舎の方へ振り向いた。

 クリスティーナが倒れているマトの背中にスコップを打ち付けている。何度も何度も。その度にマトの体が跳ね、鈍い音がする。クリスティーナは息を喘がせ、不明瞭な声で動かないマトに罵声を浴びせながら狂ったようにスコップを振り下ろす。

 クリスティーナの細い身体のどこにそんな力があるのか、まとめていた髪は乱れ目は吊り上り、その顔はまさに鬼の形相だった。

「あ……ああ……」

凛は膝ががくがくと震え立っているのがやっとだった。ふと頭の中に母親の姿が映る。家に押し入ってきた山賊に殺された母親の姿が。廊下に倒れ、その背中に刀が突き刺された場面。母親の断末魔の叫び声。

 視界は霞み息苦しくなってくる。喘ぎながら後退った凛の肩に背後から手が置かれた。弾かれたように振り向くと、目の前にいたのはアーサーだった。アーサーは真っ直ぐにマトとクリスティーナを見ている。

「何てことを……」

眉間に深い皺を寄せ、悲痛な声で呟いた。ガシャンと音がし、凛が振り向くとスコップを脇へ投げ捨てたクリスティーナが崩れるように地面に膝をついた。ふわっと広がった若草色のスカートがあまりにも優雅で、それがかえってクリスティーナの狂気じみた姿を際立たせていた。

 マトはもうぴくりとも動いてはいない。クリスティーナは肩で息をしながら、自分の両手の掌を呆然と見つめている。

「リン、チヨを連れて家に入れ」

アーサーに言われ、凛は背後で震えている千代丸を急いで家に連れて行った。


「マトの姿が見えないが……」

その日の夕食時、トビーは食堂を見渡しながら呟いた。隅で俯いて立っていた凛は躊躇いながら目線を上げる。震えが止まらない両手を揉み合わせ、口を開こうとしたが声が出てこない。すると、平然と食事をしていたクリスティーナが微笑を浮かべてトビーに向き直った。

「そうそう、言い忘れていたわ。マトは死んだの」

いつもの噂話をするような口調の、その言葉の意味を考えるようにトビーが動きを止めた。

「何だって? 今……何て?」

「ですから、マトは死んでしまったの。厩舎の屋根を直すと言って。私は無理だと言ったんですけど、あの子ったら一度言い出したら聞かなくて。案の定、屋根から落ちて、庭道具の上に」

茶目っ気たっぷりに唇をすぼめ、ヒュウという音を立てながら上に挙げた人差し指を下に下ろした。

「な、何故そんな……」

蒼ざめて問い返したトビーに、クリスティーナは人差し指を口元にあて、考えるような仕草をした。

「さぁ、何故かしら。あんな身重の身体でねえ……私は止めたのよ」

トビーの方へ身を乗り出し、自分に責任はないと言い切ったクリスティーナの口元には笑みが浮かんでいる。しかし、その目つきは普通ではなかった。出会った頃に感じた澄み切った青空のような瞳は消え失せ、嵐の後の濁った沼に似た底知れぬ不気味さに凛は身震いした。トビーは言葉を失い、その後は料理にも手を付けられないでいたが、クリスティーナは微笑を絶やさぬまま小さく切った牛肉を口に運んだ。


 凛も千代丸もアーサーもマトのことは話題にはしなかった。というよりも、口に出すことが出来なかったのだ。あまりにも恐ろしくて、口に出した途端にそれが現実だということを認めなくてはならなくなるから。

 夜、当然の如くマトのベッドは空いている。もうマトが使うことはない。それでも凛はいつものベッドで千代丸と一緒に寝た。とてもマトの物だったベッドで眠る気にはなれなかった。

 空のベッドを見つめていると、楽しかった頃のマトの姿が浮かんだ。ワーズワースの詩集を三人で読んだこと。カッコウの話をした時のこと。不意に凛の目に涙が浮かんだ。

「可哀想なマト……」

家族を知らなくて、誰よりも家族を欲しがっていた。将来は愛する人と結婚して、子供が産まれたら片時も離れたくないと言っていたのに。無理矢理犯されて出来た子を、マトは一時も慈しむことはなかった。

 マトの死は事故として闇に葬り去られる。お腹の子は一度も祝福されることなく闇の中に放り込まれたのだ。

「マトは殺されたんだ……こんなことが許されていいはずない……」

心の中で呟いてみたものの、凛自身もそれを声に出して言う勇気はなかった。


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