十
その日からクリスティーナは人が変わってしまった。あんなに優しかった人間がこうも変わるものかと、凛は恐怖を感じた。笑顔が消え、さらに言葉も消えた。周りの人間全てが敵だと言わんばかりに、殺気立った鋭い視線を投げ掛ける。千代丸もクリスティーナを怖がっているようでアーサーから離れようとしない。
週末に帰って来たアンディーとリサも戸惑いを隠せないでいた。ギクシャクとした両親。お腹の大きなマト。以前は華やかだったロバートソン邸には一触即発の不穏な空気が流れている。食事の時はそんな両親をちらちら見遣りながら様子を窺い、兄妹で困ったように顔を見合わせていた。そして日曜日の午後になると、挨拶もそこそこに急いで学校へ戻って行ってしまう。
夜にはいつも寝室からトビーとクリスティーナが怒鳴り合う声が響く。一度はトビーが「マトにこの家から出て行ってもらおう」と言い出した。しかしクリスティーナは「とんでもない!」と激昂した。
「あの子を外に出して、あなたの子供を身籠ってるなんて言いふらされたらどうするの? それこそ破滅だわ!」
こんなやりとりが聞こえるうちに、段々と二人に対して憎悪を募らせていくマトを凛は心配していた。
ある日の夕食時、何かと嫌味を並べるクリスティーナにとうとうトビーが爆発した。
「その口を閉じろ!」
それまで黙って耐えていたトビーの突然の大声に、部屋の隅にいた凛は飛び上がりそうなほど慄いた。クリスティーナも身体をびくつかせて黙り込んだが、その目は鋭くトビーを睨みつけている。
「もううんざりだ! 自分がやったことぐらい分かってる! 何も分かってないのは君の方だ!」
「何ですって? わ、私が悪いと言うの?」
クリスティーナの声は上ずっていた。真っ赤な顔をしたトビーは、責任転嫁された怒りで目を吊り上げているクリスティーナを指差して続ける。
「結婚する前の君は魅力的だった。知的で聡明でユーモアもあった。ところが今はどうだ? 君の話といえばファッションと噂話だけ。毎日家族のために働いてるのに、そんな下らないことを毎日聞かされる身にもなってくれ!」
「ひどいわ! 結婚する時にあなたが『もう働かなくていい』って言って……私から仕事を取り上げたくせに!」
クリスティーナはわなわなと震えだしたが、トビーはもう止まらないという感じだ。
「まるでガーガーうるさい着飾ったガチョウと暮らしてるみたいだ!」
「ああー!」
突然クリスティーナが金切り声を上げ、フォークとナイフを料理が載った皿に叩き付けた。皿が割れ、破片が肉や野菜と混じってテーブルの上に飛び散る。耳をつんざくような音と壮絶な光景に凛の脚は震え出した。
気がふれたように叫び続けるクリスティーナは勢い良く立ち上がると走って食堂を飛び出し階段を上がって行った。凛はその後を追おうとしたが、トビーに呼び止められた。
「リン! 下げてくれ」
散らかったテーブルの上を払うように手を振った。
「は、はい……」
凛が片付けをしている横でトビーはテーブルに肘をつき、両手で頭を抱え込んだ。
凛はクリスティーナをとても哀れに思った。元教師だったクリスティーナは、千代丸に読み書きを教えていた時にはとても生き生きとしていたのだ。凛やマトに詩集を選んでくれた時も。
結婚して家庭に入ったクリスティーナは家族のために尽力した。トビーの会社で度々開かれる夫人同伴のパーティーでは、男達が酒を飲みながら仕事や政治の話をしている間、クリスティーナは彼らの妻達の相手をして会話を盛り上げなければならない。クリスティーナはその役目も立派にこなしてきた。決して高尚とはいえない彼女達の興味のあることを熱心に研究して。全てトビーのために。それなのに、今のトビーの言葉はクリスティーナにとっては裏切り以外の何物でもない。しかもトビーは既にクリスティーナの旅行中にとんでもない裏切り行為を犯しているのだ。
食器が載ったトレイを持ってキッチンに戻ると、マトが一人で茹でたジャガイモとチーズを食べていた。二階からはまだクリスティーナの泣き叫ぶ声が聞こえてくる。それを聞きながら、マトは形のいい唇を歪めて笑っていた。
翌日からマトの態度は豹変した。まるでロバートソン一家を挑発しているかのように見える。顎をつんと上げ、大きなお腹を突き出す。トビーのしたことを、この現実を皆に知らしめるように。
「ああもう! 身体が重いったらないわ! 忌々しい!」
トビーの家族の前で大きな声で悪態をつく。自分がこの家から追い出されることはないと知ったマトは、夫妻に対する憎しみを隠そうともしなくなった。そうするとトビーはいたたまれなくなったように、その場から逃げ出す。クリスティーナはそんなトビーとマトを交互に睨みつける。
マトのお腹の子はその誕生を誰にも望まれていない。母親であるマトにさえも。それでもマトは黒人の血が通ったトビーの子供をこの家で産むのを楽しみにしている。クリスティーナがおぞましいと言ったその子供を二人の目の前に突きつけてやるのだ。そうしてマトの復讐は完成する。
それまで横柄だったアンディーとリサも、開き直ったマトに対して気味の悪いものを見るように怖がり、ただ黙って顔を見合わせているだけだった。
ある日の夜、マトの態度を見かねたアーサーが部屋にやって来た。
「お前がされたことは確かに酷いことで気の毒に思う。だがなマト、俺達は黒人で使用人なんだ。俺は自分が何者なのかを分かってる。分をわきまえてる。それが出来ない奴は、そのうち酷いことになるぞ」
凛は千代丸が寝ていて良かったと思った。アーサーは、自分達は生まれながらの奴隷だと言いたいのだ。
凛は元々武士の家に生まれた。もちろん奴隷などではない。しかし、今の自分はどうだろうか。父は「どんなことがあっても自分を見失うな」と言っていた。孤児になった凛と千代丸はロバートソン一家に拾われたのと同じだ。彼らがいなければ今頃どうなっていたか。それはマトにとっても同じことだろう。それならば主である者に、どんな目に遭わされても、どんな屈辱を受けても仕方がないのだろうか。
そんな疑問を心に浮かべた後、凛はハッと気付いた。父は武士と言ってもそれほど位が高かったわけではない。下級武士だ。その証拠に生活は苦しかった。そして藩の命令は絶対だ。死ねと言われれば死ぬしかない。
世の中には上に立つ人間と、その下に跪く人間がいる。凛達の上にいるのがロバートソン一家だ。社会全体を見ればトビーの上に立っている人間もいるのだろうが、自分達はロバートソン一家の足元に跪いていなければいけない。己を知る、それが父の言っていたことなのだろうか。
アーサーは何も言わないマトの肩を軽く叩き部屋を後にした。マトの表情は変わらない。憎しみと復讐に取り憑かれた顔。アーサーの言葉など聞いていなかったに違いない。