ダンゴムシとお嬢様
目覚めた時、オリビアはふと、ここはどこだろう?と疑問に思った。
「あれ??」
次に、なぜこんなこと思っているのだろう?とさらに疑問が追加された。その時、怒涛のように現代日本で社会人として生きた記憶が流れ込んで来た。
「きゃー!!!!いやー!!!!」
この時オリビアは2歳で、あまりの情報量の多さに驚いて火がついたように泣き叫んだ。周りにいた大人が駆けつけ、何か言いながらオリビアを抱きしめた。その腕の温もりを感じながら、オリビアはすーっと意識を手放した。
この時からずっとオリビアには前世の記憶が身近にあり、それが当たり前で特に疑問にも思わず毎日を過ごしていた。
そして、前世の記憶を取り戻したすぐ後、オリビアは周りを見渡し、自分がどうやら上流階級の家に生まれたらしいと気がついた。
「……これはあれか???はやりの異世界転生とか???……いや??別に魔法とか無さそうだから……なんじゃ???」
まだ2歳だったが、社会人だった記憶があるためか、冷静に自分が置かれた状況を観察することができた。
(なぜ、社会人だった私の記憶があるのかしら……)
繰り返し、思い起こされる疑問……。
でもどんなに考えてもその答えは見つからなかった。
オリビアには、穏やかで優しい父と時々オリビアを叱るがいつもはよく笑う母、優しく頼りがいのある姉と武術や剣術が好きな兄がいた。
家族仲はよく、いつもハーネット家自慢の庭園で皆が集まり会話を楽しんでいる。
そして、オリビアには常に二人の侍女がおり、時折、オリビアに声をかけながら仕事をしていた。
そして今、侍女の目の前ではオリビアが手足を丸くして柔らかな絨毯の上に転がっていた。
「……お嬢様、何をなさっているのですか?」
茶色の髪の侍女が怪訝そうにオリビアに声をかけると、オリビアは元気いっぱいに答えた。
「ダンゴムシごっこ!」
「……それは……楽しそうでなによりです……」
戸惑いながらも侍女がそう答えると、
「うん!楽しいよ!ミリアも一緒にする?」
「………………いえ、仕事がありますので失礼します。」
茶色の髪の侍女ミリアは戸惑いながらもそう答えた。目の前にいる幼子は外見は非常に可愛らしいにもかかわらず、常日頃からの言動が想像を超えて残念なのである。自分がお仕えするお嬢様の将来を思うと、さらに不憫で不安になるミリアだった。
穏やかな時間は足早にすぎて、気がついたらオリビアは4歳になっていた。
現代の日本での記憶があるため、子供はよく食べてたくさん外で遊ばないとと考えていたオリビアは、午前中の勉強が終わると、午後には侍女の目を盗んで館を飛び出し、広く美しい庭園の中で日が傾くまで遊んで過ごした。
もちろん、遊び終わった時にはふわふわとした金髪には小枝や葉っぱが絡み、良く似合う可愛らしい服には泥がついていた。
「見て見て!ダンゴムシ捕まえてきたんだよ!瓶にいっぱい集めたんだよ!可愛いでしょー!!」
オリビアはニコニコと満足そうに、そして、少し胸を張って自慢げに、瓶いっぱいに詰め込まれたダンゴムシ達を見せながらそう言った。
「きゃー!!!はやく!はやく、捨ててきてください!!!」
ミリアが悲鳴を上げて繰り返し捨てるように叫んでいると、
「…………バタン。」
隣にいた赤毛の侍女が白目を向いて倒れた。
「きゃー!!!エマ!しっかりして!」
ミリアは慌ててエマを抱きかかえて助けを呼んだ。
「誰かー!誰か、エマが倒れました!!!」
悲鳴を聞いて少し遠くから他の侍女や庭師が急いで駆けつけてくるのが見える。周りがバタバタと忙しく動く様子を見ながら、オリビアはこれからやってくるお小言を想像してはぁーっとため息をついた。
その日の夕方には、オリビアは母サフィアに呼び出され、非常に厳しく叱られてしまった。いつもは大輪の花のようにたおやかに笑っている母が、
(今は鬼婆様だわ……)
ガミガミと怒るサフィアを見て、オリビアは項垂れ反省しているアピールをしながら、のんびりそんなことを考えていた。
あまりに散々な様子に、必ず母に怒られるのだが、本人は全く懲りず、次の日も美しく整えられた庭園で元気に遊んでいた。
毎日毎日そんなことをして過ごしていたため、家族からは、何をするか分からない、手に負えないお転婆だと呆れられていた。
繰り返し言うが本人は全く気にしていなかった。
そんなオリビアにはリックという幼馴染がいた。お互いの親同士が仲が良く、また領地が隣り合っていてよく行き来していたので、二人は一緒に遊び仲良く過ごしていた。
初めて出会ったのは、オリビアが5歳でリックが7歳。
お互いの母が楽しむお茶会に連れていかれた時だった。
「初めまして、オリビアと申します。」
オリビアは先程まで繰り返ししつこくサフィアに、
「今日は大人しくしててね!挨拶したら口は開かないのよ!」
と、言われていたので、仕方なくマナーの先生に教わった通り礼をした後は黙っていた。
挨拶した相手のリックは少し目と口が開き、身動きしていなかった。オリビアとリックは同時にこう思っていた。
(あれ?返事はないのかしら)
(……綺麗な子だ……)
リックは初めて見た、白く淡い金髪に翡翠のようにきらめく緑の瞳の可憐な美少女、オリビアに見惚れており、返事を返すのを忘れていた。
「んん!!」
リックの隣に立つ母アリアナが、リックの背中を軽く叩きながら合図した。
はっと気がついて、リックは慌てて挨拶を返した。
「リック・ヴィントと申します。どうぞ見知りおきください。」
その後、ハーネット邸の庭園に案内され、お茶会が始まった。この時リックは緊張でオリビアに何を話しかけたか覚えていない。すっとする柑橘系の香り高いお茶に、きつね色の美しい焼き菓子が目の前に並べられて、オリビアのお腹は小さくぐぅっとなった。
(やだやだ!鳴るなお腹!)
隣でサフィアがこちらを見て苦笑いを浮かべた。
オリビアは下品にならないように、ゆっくり慎重にティーカップを持ち、赤みがかった綺麗な琥珀色のお茶を飲んだ。
しばらくすると、アリアナが二人に遊んでいらっしゃいと声をかけた。
オリビアの顔がぱぁと明るくなり、リックに向かって弾んだ声で言った。
「リック様!お庭を案内しますわ!」
という言葉をきっかけに、リックは走り回るオリビアに半日振り回されることになった。
(まさかあんなに体力があるなんて……)
しかし、オリビアは庭園をパタパタ走って回る間、ずっとにこにこと満面の笑みを浮かべ、時には少し大きいが可愛い声で笑っていた。
「リック様!この花を見てください!これはチューリップっていいます!球根を寒い時に私が植えたんです!」
「へぇ、チューリップっていうんだね。うちの庭でも見るけれど名前までは知らなかったな。ピンク色が可愛らしいね。」
リックがのんびり答えると
「でしょ!でしょ!」
と、オリビアが両手を口元に持ってきてくふふと笑う。
次に、爽やかな風に揺られて、さわさわと葉を鳴らしている木の前に来ると、
「リック様!これはソヨゴの木です!あのバードハウスは私が考えて作ってもらいました
ここにはオレンジの羽の小鳥がやってくるの!」
「へぇ、ソヨゴってこんなにきれいな葉をしているんだね。」
さらに、奥に行ったところにある花壇の綺麗な栗色の石を、白く柔らかそうな可愛い指で差して言った。
「リック様!この前、ここの石を転がしたらたくさんダンゴムシがいたんですよ!」
「そう、ダンゴムシが……怖くなかったの?」
「ダンゴムシは大好きです!クルクルになるので!」
「……そう……」
大きく手を広げ元気いっぱいに話すオリビアは、とても可愛らしくてキラキラと輝いて見えた。
ところどころで、あれっ?と気になる部分があったが、本来おおらかなリック少年はまぁいいかと流し、オリビアの楽しそうな笑顔を見て穏やかに微笑んでいた。
その様子を興味深そうに見ていたアリアナが持っていたティーカップをそっと置いて言った。
「相性は良さそうね?」
「……どう見てもリック様がうちの娘に振り回されてますが……」
「先程のマナーは完璧だったわよ。とても5歳には思えなかったわ。それに、あの可愛らしい容姿は先が楽しみよ。成績も非常に優秀と聞いているわ。」
「過分に評価いただいて、ありがたいですが……ともかくあの性格で……」
サフィアは、諦め溜息をつきながら答えた。目の前では、オリビアがリックの手を引きながら、少し駆け足で美しい薔薇が咲く庭を進んでいる。その姿はとても令嬢とは言い難かった。
「私はオリビアを気に入ったわ。」
アリアナは楽しそうにコロコロと笑った。
「……私は……心配でたまりません。」
サフィアは頬に手を当てながら、大きくため息混じりに答えた。
そして、その数日後には無事にオリビアとリックの婚約が整ったのである。
婚約が決まった後、サフィアから婚約者には手紙を書くものだと教えてもらったオリビアは、早速、机の前に座り手紙を書き始めた。
「……拝啓、リック様……いかがお過ごしでしょうか。私は毎日、自己研鑽に励んでおります。最近は王国の中世の歴史に興味があり、その文化に触れることで多様性を理解し、さらに視野が広がったように思います。リック様は何がお好きでしょうか?またお会いできる日を心からお待ちしております……こんな感じかしら??」
5分程度でサラサラと書いて、封筒に入れようとしたところで、慌てたミリアに止められた。ミリアは神妙な面持ちでこう言った。
「……お嬢様。婚約者様に送るお手紙が、このように事務的ではふさわしくないかと思われます。」
「そう?どの辺がおかしいかしら??」
「………」
オリビアはきょとんとした顔をして、小首を傾げた。大変愛らしく見ている者をほんわか温かい気持ちにさせる仕草だった。しかし、ミリアは目を瞑りただただ沈黙した。いつものように残念感が漂う。オリビアは前世の記憶がまじり、自分が書いた手紙がとても5歳児が書くような内容になっておらず、また、婚約者に向けて送る手紙とは程遠いものになっている事に気づいてなかった。
「まぁ、いいじゃない!これにダンゴムシつけたら喜んでくれるかしら?!」
間髪入れずにエマが大きな声で叫んだ。
「お嬢様!!!ダンゴムシで遊んではいけません!!!」
「ええー。ダンゴムシのために箱も用意したのよ??ピンクのレースがついた箱。ほら!」
そう言って、オリビアは王都でも有名な服飾店で作られた小さな白地に淡いピンク色のレースとリボンが付いた宝石箱を取り出した。エマは目の前にいる可憐でたまらなく可愛らしいと評判のオリビアを、今まで見たことがない虚無の表情で見つめた。
そんな、周りから風変わりで変わった子と思われていたオリビアが10歳になった。ふわふわの金髪はなめらかに軽くウェーブした白金色の長い髪に、透明度の高い鮮やかな翡翠色の瞳は輝き、丹念に作られた彫刻の様に完璧な配置をしている顔立ちはまさに天使のようだと評判だった。しかし、彼女の中身を知る者たちはみな口を揃えて、いや、むしろイタズラを好む悪魔のようだと思っていた。
ある時、王国の北側から徐々に流行病が広がり、オリビアが住むハーネット領にも感染による死者が相次いだ。ミリアから領内の様子を聞いたオリビアは、不意に前世の記憶から日本の感染症対策について思い出した。
(もしかしたら、効果があるかもしれない……)
この世界で直接、治療を行うといったことは無理だが、感染予防に換気や手洗いうがいといった身近にできる対策はできるはずだと思ったオリビアは、父親のエリックに突進し直談判した。
「お父様!私を教会に連れていってください!」
(実際の様子をこの目で見たい、その上で知ってることを伝えたい。)
オリビアはまずは現状を確認することが必要だと考えたのだ。この時、教会は流行病に倒れた人達を集めて、シスターを中心に献身的に世話をしていた。当然、流行病に感染するリスクは大きい。
少し顔を顰めたエリックがオリビアに言い聞かせるようにしっかりと答えた。
「……無理だ。お前を教会には行かせられない。」
「どうしてですか!」
(現代日本の知識が役に立つかもしれないのに。)
自分の思いを否定されたかのように受け取ったオリビアが、キッと強い目でエリックを見つめ詰め寄った。
エリックの隣にいたサフィアがオリビアに近づき屈んでゆっくりと口を開いた。
「あのね、オリビア。教会は今大変なことになっているの。流行病で倒れた人たちのお世話をしているのよ。そんなところにオリビアみたいな子供が行っても迷惑になるだけよ。」
「そんなことないわ!私にも何かお手伝い出来るかもしれないでしょ!」
「……オリビア……」
「ミリアやエマの家族もみんな街にいるのよ!誰が病に倒れてもおかしくないでしょ!早く何かしないと、誰かの大切な家族が死んでしまうわ!」
オリビアは目の前が歪んでくるのに気づいた。少しずつ涙が溜まってくる。オリビアには、目の前にいる人の死がどれほど大きいことなのか、正しく理解できていた。
「駄目だ。どうしても行かさない。」
「お父様!!!」
「ともかく家で大人しくしているんだ。しばらくは外出禁止だよ。」
エリックが重々しく貫禄ある声で命令した。オリビアは胸の奥で強く燃える炎のような怒りを、唇をかみしめて何とか押さえ込んだ。
「……わかりました。」
悔し涙がすーっと頬を伝う。それでもオリビアは美しく一礼して部屋を出ていった。エリックとサフィアは、お互いに見つめ合い、はぁーっと大きなため息をついた。ただ、この時二人はオリビアについてすっかり忘れていた事があった。オリビアは非常にしつこい性格をしていたのである。自分がこうだと思ったことを必ずやり遂げようとする強い信念を持った娘だった。
その日の昼過ぎ、悲しむふりをして大人しく部屋に戻ったオリビアは、侍女達にしばらく1人にして欲しいと頼み、自室に籠った。当然、内緒で教会に行くためである。まずは飾りの少ないスカートに着替え、荷物をまとめる。そもそも、教会へ行くつもりだったので、準備は万端だった。
「お父様もお母様も甘いわね!何のために毎日外で遊んでると思ってるの!体力には自信があるんだから!」
そういいながら、オリビアはシーツを素手で引き裂いた。それを結んで繋げていく。頭の中に浮かぶのは、前世の記憶で確かロープワークと呼ばれた技術だった。解けにくい結び方は……
「もやい結びってこうだっけ?」
引きちぎったシーツを持ち、手を器用に動かしていく。5mほど繋げて、オリビアは満足したように不敵に笑った。
「よし!後は……この辺りでいいかな?」
ベッドの足にシーツの端を結ぶと反対側を窓へ向かって投げた。窓の外を見て、うんうんと2回頷き荷物を背負う。ちなみにオリビアの部屋は2階にあった。
「なんとかなるでしょ!きっと!」
えいっとオリビアはシーツを握り窓から飛び降りた。シーツを掴みスルスルと降りる予定だったが、そんなことはなく、そのまま下へドスンと落ちた。
「いったー!!」
右の腰が痛い……。落ちるとは思っていなかったので、びっくりして少しその場で丸くなり呼吸を整えた。
「いたたたっ………………まぁ……出れたからいいかな……」
オリビアはさっさと切り替えて、窓から落ちたことには構わず立ち上がると走り出した。どこに行けば人に見つからずに外へ出られるのかなんて、毎日庭で遊びながら観察していればわかってくる。ハーネット邸に住む家族や全ての使用人を合わせても、この広い庭を隅々まで知り尽くしているのは、群を抜いてオリビアなのである。
裏庭の大きな樫の木の近くには昔使っていた使用人のための扉がある。ここは以前から鍵が壊れかけており、それを見つけた時にオリビアは、これ壊したらこっそり出れるかも??と思い黙っていた。そして、今その扉まで来ると、近くにあった石を拾い、思いっきり殴った。ガシャという音ともに古びた鍵は壊れ落ち、ギィっという音と共に扉は開く。
「やった!!!」
急いで扉から外に出たオリビアは、一番近くにある教会に向かって街中をかけていく。
(早く!早く何とかしなきゃ!)
逸る気持ちがオリビアの足に力を与える。オリビアは必死に走った。
(こんな流行病で死ぬなんて!それはダメだよ!何とか!何とかしなきゃ!)
オリビアの心は、間に合わないかもしれないという不安でいっぱいだった。
そして、いつも母と慰問に訪れる教会へたどり着いた。オリビアはすぐさま教会の扉を叩き、大きな声で必死に叫んだ。
「シスター!シスター!ここを開けてください!」
少しして内側から扉が開き、中からいつも優しげな微笑みを浮かべている年配のシスターが現れた。オリビアを一目見ると、シスターはすぐに怪訝な表情を浮かべた。
「……オリビア様?どうなさったのですか?」
「シスター!お願いです!私に患者さんの様子を見せてください!お願いします!」
突然、教会に来て流行病の患者に会いたがるオリビアを見て、シスターは一瞬戸惑った。しかし、すぐに落ち着きオリビアを諭す。
「お嬢様、ここは入ってはなりません。危ないのです」
「少しだけでいいから!シスターお願いします!街の人たちの様子を見たいの!」
「いいえ、駄目です。」
何度か押し問答を繰り返したが、シスターの意志は固かった。無理かもしれないと思ったオリビアは、これだけでもとシスターに向かって話し始めた。
「シスター、病室の様子はどうですか?病が伝染るからと窓を閉めていませんか?窓は定期的に開けて新鮮な空気を取り入れてください。患者さんにはいつも以上に水分と塩分をしっかり与えてください。それから看病に当たる皆さんには、口元を覆うように布を巻いてください。繰り返し何度も手を洗うことも忘れずにしてください。それから、汚れたものはすぐに外に出して洗ってください。口元の布と洗い終わったあとの手洗いも忘れずにしてください。それから、無理をしてはいけません。疲れたら必ず休んでください。それから……。」
次から次に言葉が出てくる。心配でたまらない。いつもは鮮やかな翡翠色の目には涙が溜まり、ポロポロとこぼれ落ちた。そんなオリビアを見たシスターはオリビアの目線までしゃがんで答えた。
「わかりました。窓を開けるのですね。水分と塩分を与えて、お世話する者は口元に布を当てるのですね。後は手をこまめに洗う、でしょうか?」
「そうです!シスター!お願いします。やってみてください。」
「わかりました。みんなに伝えて気をつけるようにしますね。」
「……ありがとうございます。」
オリビアは涙を両手で拭きながら、シスターにお願いしますとありがとうを繰り返した。
この後、すぐにシスターがハーネット家へ連絡し、目を赤く腫らした母が迎えに来てオリビアは素直に家に帰って行った。家に帰るとエリックが玄関で待っており、オリビアは冷静かつ凄みのある言い方でしばらく叱られたのである。
(……本物の鬼だわ……)
今回はさすがにオリビアもやりすぎたと思い、素直に心を込めて謝った。
教会でオリビアが感染予防として伝えたことを、シスターは疑いを持たずに皆に知らせた。どんな事でもいい……目の前の患者が少しでも楽になるのなら、この流行病がおさまってくれるのなら……そう願いながら、藁にもすがる思いで行動したのだ。しかし、他の看護に携わる人たちはみな半信半疑で戸惑っていた。それでもシスターの説得で自分たちにできることだからと、信じて行動したのだ。それが効果があったのか、数週間後には流行病の患者数は徐々に減っていき、ハーネット領は王国内でも犠牲者が群を抜いて少なかった。
「オリビアは正しい事を言っていたのか……」
領内で流行病が収束に向かっているとの報告を聞き、エリックは安堵のため息とともにそう呟いた。
(なぜ知っていたのだろう……)
エリックの中で大きな疑問が浮かんだので、何気ないフリをして、オリビアに聞いてみた。
「王国だけでなく他国の歴史を描いた本の中に、ヒントがあって、もしかしたらと思ったのです。」
オリビアはきっと聞かれるだろうと思い、用意していた答えを伝えた。ただ、これでエリックが納得するとは思っていなかったが、オリビアには次の答えがどう考えても用意できなかった。しかし、娘の表情を正確に読んだエリックは、それ以上深く追求することなく、ただ娘に優しい声で礼を言ったのだった。
「そうか……オリビア、お前のその知識で助かった者がいたんだよ。本当にありがとう。」
その言葉を聞いたオリビアは、ぱぁっと花が咲いたように嬉しそうに笑った。
その後、エリックはオリビアが言った感染症対策の内容をまとめ、王宮に報告した。そして、王宮で専門家たちが集まり真剣に協議した結果、もしかしたら効果があるかもしれないと国王に進言し、王国全体に広く通知した。流行病は徐々に収束に向かい、人々にようやく日常が戻ってきたのだった。この事をきっかけに、オリビアの名前は王宮で轟くことになったのだが、本人はそんな事に無関心で、いつものように庭園を走り回っていた。
月日は流れ、オリビアは15歳になった。貴族の娘は15歳になると社交界デビューする。オリビアも王宮での舞踏会で社交界デビューする日が近づいていた。
「何故かしら…舞踏会が全然楽しみでは無いのだけど……」
オリビアは深いため息とともに呟いた。オリビアの周りでは、サフィアを中心にオリビアの社交界デビューに向けた準備が進められていた。
「オリビア?どの生地にする?レースはどれを使おうかしら?……こっちは華やかだけど、オリビアに似合うかしら……これもいいわね、上品な感じが素敵だわ!ねえ、オリビア?どれがいい??」
サフィアはとても華やかな笑顔を浮かべ興奮した様子で娘のドレス選びをしていた。
「…………お母様。私は、お母様が私に選んでくださるドレスがいいですわ。」
(レースなんてつけなくていいのに……でもそんなこと言ったらお母様が鬼婆様に変身しちゃうわね……)
オリビアは、心の中で盛大に繰り返し溜息をつきながら、何とか笑顔を作りサフィアに答えた。
社交界デビューの日、婚約者のリックがエスコートすることになっていた。オリビアはリックと出会ってからずっと、文や贈り物を交わし合い、折に触れて直接会って会話を楽しんでいた。他愛のない出来事を伝え合う日々を嬉しく楽しみに思い重ねてきた。ただ1つだけオリビアは不安に思っていることがある。
(リック様はきっと……私の事、妹のように思ってくださっているのよね……)
二人の結婚はお互いの家同士が決めた政略結婚で、それは王国ではごく一般的な結婚の形だった。ただ、オリビアの中に前世の記憶があり、そのために政略結婚に対してなんとも言えない違和感を感じていたのだった。
(仕方がないのよね……私、変わってるらしいから……)
幼い頃には変わっていると言われても全く気にならなかった。なのにここ数年、それが気になって仕方がなかった。だから、淑女として見られる様に庭を走り回ることをやめて、部屋で刺繍をしたり本を読んだりしていた。庭園には毎日行くけれど、日傘をさしてゆっくり散歩する程度にしていた。庭園にやってくる鈴を転がすように鳴く鳥やすばしっこい小動物、飛んだり跳ねたり賑やかな虫たちを見つけては追いかけていた日々が懐かしい。
(ダンゴムシ達にも会えてないのよね……好きなことだけをして過ごす訳には行かない……)
仕方ないかと、またため息をついて諦めてしまった。淑女らしく完璧に振る舞うことは、実は以前からできていた。指先まで意識して動き、体幹もしっかりと鍛えられたオリビアのカーテシーは可憐な妖精のように軽やかで美しかった。ただ、マナーを必要としないところでは、思い通りに毎日を楽しんだのである。オリビアの心の中ではなんとも言えない寂寥感が広がっていた。
舞踏会の朝、オリビアは早くに起こされ、侍女達に総出で磨きあげられていた。サフィアが悩みに悩んで作られたドレスは、スッキリとしたデザインだが薄く繊細な刺繍の入ったレースが重ねられており、品格のある美しさが際立つものだった。そのドレスを身にまとい、白金の美しく見事な髪を結い上げたオリビアは、まるで女神のように神々しくたおやかだった。
「素晴らしい出来だわ。皆さん、ありがとう。」
サフィアは満面の笑顔で朝から一生懸命に働いた侍女達を労った。そしてすぐに顔を引き締めて、オリビアに向かって釘を刺す様に強く言った。
「オリビア……お願いだから大人しく、大人しくしていてね。ちゃんとしていたら完璧な淑女で、私の自慢の娘なんだから。」
「……お母様?それは私を褒めてくださってますか?」
「褒めてるわよ。もちろん。心から素晴らしい娘だと思っていますとも!」
オリビアはそんなことを言うサフィアを胡乱な目で見つめていた。その時、エマから声がかけられた。
「リック様がいらっしゃいました。」
「わかりました。……くれぐれも、くれぐれも大人しくしていてね。」
サフィアが重ねて言うと、オリビアは深く大きい溜息をついた。
玄関に向かうとリックとエリックが談笑しながら待っていた。二人がゆっくりと振り向くと、軽やかな足取りで階段を降りてくるオリビアがいた。リックはオリビアを見つめて固まった。
「素晴らしいよ!オリビア!まるで色とりどりの花が咲く春を司る女神のようだよ。」
満面の笑みで娘を褒めるエリック。対照的にリックはまだ固まったままだ。
「ありがとうございます。お父様。……リック様?リック様はどう思われますか?どこか変なとこがあるのでしょうか……」
黙ったままのリックを見て、オリビアは急に不安になってきた。ドレスが似合わなかったのだろうかとすこし俯きかけた時、リックがはっと我に返り興奮したように言った。
「そんなことはないよ!とっても素敵だよ。……えっとなんて言うっけ、オリビアが好きな花……そう!マリーゴールド!マリーゴールドみたいに可憐だよ!」
リックは耳まで赤くして、一生懸命に言い募った。それを聞いたオリビアの顔には、ぱぁっと笑顔が広がり満面の笑みで、ありがとうございますとリックに伝えた。二人が頬を寄せ柔らかい笑顔で仲良く話している様子を見て、サフィアは囁き声でエリックに声をかけた。
「何とかオリビアも1人前の令嬢らしく見えるようになってきました。」
「良かったな。……このままお転婆のままで大人になったらどうしようかと本当に心配したよ。」
オリビアの成長を目の当たりにして、二人は胸の前で手を組み深く神に感謝した。
王宮にある舞踏会の会場は、豪奢な造りの大広間だった。美しく荘厳な調度品が並べられて、白を基調とした上品な花があちらこちらに飾られている。高い天井からは琥珀色に輝く華麗なシャンデリアが吊り下げられて、その輝きが会場全体を照らしていた。
リックと一緒に会場に入ったオリビアは、その厳かな雰囲気にのまれ、少し怖くなっていた。
(なんか場違いなところに来ちゃったわ。……どうしよう、何か失敗したら……きっとリック様が笑われてしまうわ……)
オリビアは手を添えていたリックの腕を、緊張からか無意識に掴んでしまっていた。その様子に気づき、リックは掴んで来たオリビアの手をそっと安心するようにポンポンと叩いた。オリビアがゆっくりと視線を上げると、優しい眼差しで見ていたリックと目が合った。オリビアの心がすーっと温かくなり、冷たかった指先もじんわりと心地よくなった。オリビアの口元が柔らかく綻び、ふんわりと微笑んだ。
そんな時に後ろから低く落ち着いた声がかけられた。
「君がオリビア・ハーネット嬢かな?」
振り返ると、そこには黒い軍服を着て胸に勲章を飾った背の高い男が立っていた。
(……誰???)
貴族名鑑はすべて頭に入っていたが、名前が顔と一致しない者も多く、彼はその一人だった。返事に困り戸惑っていると相手が名乗りをあげた。
「私はリカルド。リカルド・グラハードだ。」
(リカルドって、グラハード侯爵家の長男だったわね。……この人か!美しいと評判で、片っ端から出会った女性と遊び散らかしてる男は!)
彼のあまり宜しくない噂を耳にしていたオリビアは眉間に皺を寄せた。女の敵と関わり合いになりたくない。
「私と1曲踊ってくれませんか?」
リカルドが礼儀正しくオリビアに願い出た。しかし、急に声をかけられて焦っていたオリビアは、どう断ればいいのか咄嗟に思い浮かばなかった。焦りと不安を覚えたオリビアはつい叫んでしまった。
「私には婚約者がいますので、踊れません!」
しっかりとよく通る声で叫んでしまったため、周りの人々はその場に立ち止まり何事かとオリビアの方を見た。リカルドは全く意に介さず、むしろ揶揄うような色を目に浮かべてさらに言った。
「親の決めた婚約者でしょう?別にわたしと踊るくらいは問題ないのでは?」
「ちっ、違います。……わ、私が好きで婚約してるんです!!」
リカルドがクスッと小さく笑ったような気がした。オリビアの顔が瞬く間に赤く染まり、熱くなった。心臓がドキドキと跳ねるが、どう止めていいのか分からない。オリビアは今初めてリックのことが好きだと言ったのだった。
「……え??」
隣にいたリックから驚いたような声がした。弾かれたように横にいるリックを見たオリビアは思わず言い募った。
「え?って……どうしてリック様が!!!当たり前でしょう!嫌だったらそもそも婚約なんかしてません!」
「……そうなの??……てっきりオリビアは親が決めた結婚だと思っているのかと……」
「何言ってるんですか!だから嫌いだったら婚約しません!……リック様は私の初恋です!!!」
「えー!!!」
本当に驚いている様子のリックを見て、オリビアの目にどんどんと涙が溜まってくる。とても混乱して感情のコントロールができなくなったオリビアは急にこの場所から逃げ出したくなった。
「もう!もうもう!!しらない!!!帰ります!!!」
「え?!ちょっ!ちょっと待って!待ってオリビア!!待ってよ!!」
リックの腕を振り払って、オリビアは出口に向かって走り出した。リックはすぐにオリビアを追いかけるが、オリビアはヒールのある靴を履いているにもかかわらず、人混みの中をスイスイと縫うように進み見失いかけた。
「くそっ」
先回りしようと近くのバルコニーから外階段へと向かい、飛びながら降りて、来た道を真っ直ぐに走った。すると視線の先にオリビアの白金の髪が見えた。急いで追いかけて、オリビアの後ろから右腕を掴むと、立ち止まったオリビアの前に移動し顔を覗き込んだ。オリビアはポロポロと涙を零しながら静かに泣いていた。その顔を見るとリックの心は少し落ち着き、ふっと小さく笑った。
「ごめんね、オリビア。……言ってなかったよね。……僕は初めて会った時からオリビアが好きだったんだよ。」
丁寧に率直に……リックは真っ直ぐにオリビアへの想いを語りかける。あの日の出来事は繰り返し思い返していた。天使に出会ったあの時、リックは初めて恋を知ったのだ。
「初めて会ったあのお茶会で、君を見た時、なんて綺麗な子なんだろうって思って……その後も一緒に遊んだよね。ずっとキラキラした目で笑ってて本当に可愛らしかったよ。」
そこで言葉を止めて、すっと息を吸うと、想いを込めて言った。
「……それからずっと君が好きだよ。」
オリビアの目からさらに大粒の涙が溢れ出す。慌てたリックはそっとオリビアを抱きしめた。
「泣かせてごめんね。」
腕の中でオリビアが首を軽く振り、小さな声で答えた。
「……私も好きです。」
オリビアを抱きしめるリックの腕に力がこもる。二人の心にじんわりと温かいお互いへの愛情が溢れ、心地よい幸福感に満たされた。
舞踏会の数日後、リックはオリビアとハーネット邸の庭園でゆったりと穏やかな午後を過ごしていた。オリビアが花壇の前にしゃがみこみ、何かを熱心に見ていた。気になってリックが近づくと、オリビアの白く柔らかそうな手には、ちいさな虫が1匹歩いていた。ダンゴムシである。オリビアはそのダンゴムシに微笑みながら、自由に手のひらの上を歩かせている。
「ねえ、どうしてそんなにダンゴムシが好きなの??」
リックは少し緊張しながら初めてオリビアに聞いた。実はリックはずっと理由が知りたかったのだが、聞いていいものなのか分からず、そっとしておいたのだ。それを今やっとオリビアに伝えた。オリビアは驚いて、美しく輝く翡翠色の目を見開いた。そして真っ直ぐにリックを見つめて、ゆっくりと丁寧に口を開いた。
「昔、見た本の中に出てくるんです。汚れた世界を浄化する賢い虫がいて、命を賭して森を守るの。ダンゴムシはその虫に似ているんです。」
オリビアは噛み締めるように、そして遠い昔を懐かしむように、そう言った。陽の光を浴びて美しく煌めき微笑むオリビアの横顔を、リックは眩しそうに目を細めながら見つめて言った。
「そうか。オリビアにはダンゴムシは特別な虫だったんだね。」
オリビアとリックは顔を見合わせ見つめ合うと、2人同時に声を出して笑い合った。それはとても幸せで温かいひと時だった。
前世の記憶と今の記憶が合わさり、今のオリビアという女性を作り上げた。凛とした表情で前を向くオリビアの周りを、瑞々しく澄んだ風が祝福するかのように舞っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。




