第7話 影の記憶
モルテの件を聞いたのは、ルシェラからだった。
魔王城に来て半月ほど経った日の夕方。
医務室の片付けを終え、廊下でルシェラと擦れ違った時だ。
「エイル。少し時間をもらえるかしら」
いつものルシェラとは声の調子が違った。
会議室での保護宣言の時に似ている。真剣な目。
北棟の空き部屋に通された。
ルシェラは扉を閉め、壁に背を預けた。
「モルテのこと。あの子の体には、人間が埋め込んだ術式がある」
「……術式?」
「拘束術式。体内の魔力を制限する鎖のようなもの。人間の魔法技術で構成されていて、魔族の魔法では手が出せない」
ルシェラの声は静かだったが、目の奥に怒りがあった。
紫の瞳が暗く燃えている。
「モルテは——かつて、人間の研究機関に囚われていた。魔族の体を調べるための実験体として」
息を呑んだ。
実験体。
あの小柄な体が、人間の研究者に——
「ヴィーラ様が救い出したのは十年ほど前よ。でも、体内の術式だけは除去できなかった。魔族のどんな魔法も通じない。人間の技術で作られたものだから」
「俺に、除去を頼みたいのか」
「可能性があるのは、あなただけよ。回復魔法で術式を"傷"として認識できれば——あるいは」
ルシェラが言葉を切った。
あるいは、の先を言わない。
確証がないからだ。
「モルテに話は通しているのか」
「……まだよ。あの子は人間を信用していないから。当然の話だけれど」
ルシェラの目が俺を見た。
「エイル。無理にとは言わない。でも——もし、やってくれるなら」
「やるよ」
即答した。
ルシェラが目を瞬かせた。
「……聞いてから考えないの?」
「目の前に治せるかもしれない傷がある。考える必要がない」
我ながら馬鹿な答えだと思う。
でも嘘じゃない。
ルシェラは一瞬黙り——それから、小さく笑った。
「あなたは本当に——変わった人間ね」
◇
翌日。
モルテの部屋を訪ねた。
城の東棟、最も奥まった場所。
窓のない小さな部屋だった。
扉を叩くと、しばらく間があって、低い声が返った。
「……入れ」
部屋は暗かった。
蝋燭が一本だけ灯っている。壁には地図や書類が貼られている。
情報収集の魔将らしい部屋だ。
モルテは椅子に座っていた。
白い仮面。黒いローブ。
蝋燭の光が仮面に反射して、影が揺れている。
「ルシェラに聞いたな。余計なことを」
「余計じゃない。治せる可能性がある」
「人間の治療なんて受けない。——人間に埋め込まれたものを、人間に頼んで取ってもらう? 冗談じゃない」
声は平坦だったが、僅かに震えていた。
怒りなのか、恐怖なのか——仮面の奥は見えない。
「俺はお前を傷つけた研究者じゃない」
「人間は人間だ。種族は変わらない」
「そうだな。でも、個人は違う」
モルテは黙った。
沈黙が長かった。
蝋燭の炎が揺れる音だけがする。
「……仮面を外すぞ」
モルテの手が仮面に伸びた。
ゆっくりと——外した。
蝋燭の光が、素顔を照らした。
若い顔だった。
性別の判断が難しい中性的な顔立ち。
肌は白く、髪は灰色。
目は——左目は金色で、右目は閉じられたまま。
右目を覆うように、複雑な紋様が頬から額にかけて刻まれていた。
術式の痕だ。
皮膚に直接刻まれた魔法陣。
「これが、人間がやったこと」
モルテの声は静かだった。
「右目は見えない。体内の術式が魔力を常に吸い取っている。本来の半分も力が出せない」
俺は一歩近づいた。
モルテの体が強張ったのが分かった。
「触っていいか。診断だけだ」
「……好きにしろ」
右手をモルテの顔に近づける。
回復魔法の光を微かに灯す。診断用の微弱な魔力。
手のひらに、情報が流れ込んできた。
——これは。
体内に張り巡らされた術式の構造が「見えた」。
魔力の流れを阻害する細い鎖のようなもの。
全身に根を張り、内臓にまで食い込んでいる。
だが——回復魔法は、これを「異物」として認識している。
体に本来存在しないもの。外部から埋め込まれた傷。
除去できる。
「モルテ。取れる」
「……何?」
「術式を傷として認識できた。時間はかかるが、一本ずつ抜ける。痛みはあるかもしれない」
モルテの金色の目が揺れた。
「……本当に?」
その声は——初めて、感情が滲んでいた。
「やる。今からやる。横になれ」
モルテは数秒迷い——それから寝台に横たわった。
俺は右手をかざした。
光が手のひらから流れ出す。
一本目の術式に触れた。
引き抜く。
モルテの体がびくりと跳ねた。
「——っ」
「痛いか」
「……続けろ」
二本目。三本目。
術式が解けるたびに、モルテの体から黒い霧のようなものが浮き上がり、消える。
三十分かかった。
最後の一本を抜いた時、俺の体から力が抜けた。
膝をつく。息が荒い。
モルテがゆっくり体を起こした。
右手を見つめ——握り、開く。
何度か繰り返して、息を吐いた。
「軽い」
小さな声だった。
「体が——軽い。十年ぶりに」
右目を開いた。
金色の瞳が、もう一つ現れた。
両目でこちらを見ている。
「……右目が——見える」
モルテの手が自分の顔に触れた。
頬の術式紋様が薄れ、消えていくのが見えた。
沈黙。
モルテは俺を見つめていた。
両目の金色が、蝋燭の光を受けて揺れている。
「お前は」
声が掠れていた。
「お前は——何なんだ」
「ただの回復術師だよ」
モルテは俺をしばらく見つめ——それから、目を逸らした。
「……礼は、言わない」
「別にいい」
「でも——」
長い間があった。
「——覚えておく」
それだけ言って、モルテは仮面を拾った。
だが、すぐには付けなかった。
しばらく仮面を手の中で回し——結局、机の上に置いた。
「今日は、いいか。これは」
「好きにしろ」
モルテの薄い唇が——ほんの少しだけ——持ち上がった。
◇
部屋に戻る廊下で、膝が震えた。
壁に手をついて呼吸を整える。
三十本以上の術式を抜いた。
体力の消耗がひどい。明日は一日休んだ方がいいかもしれない。
だが——
両目を開いたモルテの顔を思い出す。
十年間、片目で生きてきた奴が、両目で世界を見た。
あの瞬間の金色の瞳を、俺は忘れないだろう。
部屋に辿り着き、寝台に倒れた。
窓を開ける気力もない。
赤い月は見えないが——たぶん、今夜もそこにあるのだろう。
目を閉じた。
明日は休む。明後日からまた治療だ。
やることが、また一つ増えた。




