第9話 ピンクフロスト、品切れ
八月二十三日、午前十時五分。駅前商店街の入口で、咲希は一度だけ足を止めた。
空気が熱い。アスファルトの上に透明な膜が張っていて、吐いた息がその膜に押し返されるみたいだ。なのに、カフェの前だけ人の密度が違う。日傘の列が、店の角を曲がって伸びている。
「……あの、これ、全部……?」
店長が小声で言いながら、カウンター下の伝票を指で叩く。指先が白くなっていた。
バックヤードの床には段ボールがいくつも並び、空になった箱が端に積まれている。冷凍庫の扉は開け閉めが続いたせいで、縁にうっすら霜がついていた。
「午前中に半分以上出ました。氷もシロップも、予定より早い。スタッフが回らないって怒ってるんじゃなくて……」
店長は言い直した。
「外で待ってるお客さんが。『せっかく休憩で来たのに』って。こっちだって出したいのに、材料が……」
咲希は胸の奥で、紙がくしゃっと音を立てるような感覚を飲み込んだ。昨日までに貼った告知。短い文章。あの短さが、こんなふうに人を呼んだ。
咲希は店長の目を見る。
「まず、今ある分の数字をください。あと、いつまでに何が届くか、分かる範囲で」
店長は頷き、端末を操作した。画面の数字が増えるたび、咲希の背中に汗がつたう。冷房の風が届かない位置にいるのに、なぜか寒い。
そのとき、入口の方で声がした。
「すみませーん、もうないんですか?」
スタッフの返事が震える。「確認します」を繰り返しながら、列の視線を受け止めきれずにいる。
咲希は表に出た。カウンター脇の隙間に立ち、列の先頭に向かって頭を下げる。
「お待たせしてしまって、すみません。いま店内で在庫の確認をしています。分かり次第、すぐお伝えします」
言い終わった瞬間、誰かが「また後で来ればいい?」と聞く。別の人が「今日じゃないとダメなの?」と重ねる。
咲希は言葉を選ぶ。気持ちだけで答えると、約束になってしまう。
バックヤードに戻ると、悦章から着信が入った。咲希が出ると、声は短い。
「品切れか」
「はい。想定より早いです」
「表現を抑える。供給が整うまで、店頭掲出の文言を切り替えろ。試飲も、在庫が読めないなら止める」
悦章の言葉は、赤ペンで線を引くみたいに迷いがない。
咲希の喉の奥が熱くなった。
「でも、楽しみに来た人が……」
「楽しみは、危ない。現場が回らないと事故が起きる。『次回入荷』は確定してから。曖昧な希望は不可」
「……分かりました」
分かった、と言いながら、分かりたくない部分が胸の中で暴れる。楽しみを削る。自分の手で。
そのとき、扉が二回ノックされ、叶空が入ってきた。額に汗が光っている。手には保冷バッグ。
「遅れた。列、すごいね」
咲希が状況を言いかける前に、叶空は空箱の山を見て、口角だけで笑った。
「うん、分かった。出たね、想定外」
叶空はバッグから、紙とペンと小さなシールを出した。冷たい水のボトルも二本。
「店長、いま出せる代わり、二つ。ひとつは“ミニ”にして回転上げる。もうひとつは、ピンクフロストが終わった人に、桃の香りの冷たい水を渡す。味じゃなくて、香りだけでも涼しくなる」
店長の眉が動く。「無料で?」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。列の外の目が、もう背中に刺さっている。
叶空は続ける。
「無料って言い切ると集まるから、言い方は咲希さんに任せる。あと、列の先で“暑さをしのぐ技教えます”の札、出そう。並んでる間に、日陰の位置案内と、氷多めの頼み方、スタッフが一言で言えるようにする」
葉っぱの形のシールに、叶空が短い言葉を書き始める。ペン先が途中でかすれ、「あ、やば」と言って書き直す。緊張の中で、その小さな失敗が不思議と息を通した。
咲希は机の上の白紙に向かった。悦章の「不可」が頭の中に残っている。だから、約束しない。だけど、切り捨てもしない。
咲希は文字を置く。
『本日のピンクフロストは、ご用意分が終了しました。暑い中お越しいただき、ありがとうございます。店内で別の冷たいご案内を準備しています。スタッフへお声がけください。』
短い。けれど、誰かの喉を少し楽にする短さにしたい。
店長が紙を受け取り、頷いた。
「これなら……怒鳴られにくい」
咲希は頷き返しながら、心の中で「怒鳴られない」を目標にしている現場の苦さを噛む。
表に出ると、叶空が列の横で、日陰の位置を示していた。
「この先の看板の影、ちょっと涼しいです。よかったら、そっちへ。水分、取ってくださいね」
言い方が柔らかいのに、列が少しずつ動く。誰かが「ありがとう」と言い、別の誰かが「じゃあ影行く」と笑う。
咲希はその様子を見て、胸の奥の暴れが少しだけ静まった。
午後一時四十分。店長がバックヤードで深く息を吐いた。
「……今日は、ここまでで締めます。外の札、出します」
“本日分終了”。その札は厳しい。でも、今は守るための線だ。
咲希は水のボトルを開け、一口飲んだ。冷たさが喉を滑り落ち、胃のあたりでやっと夏が落ち着く。
叶空が隣で同じように飲む。
「削ったって思う?」
咲希は少しだけ笑ってしまった。悔しいのに、笑ってしまう。
「思う。……でも、形を変えたって思いたい」
叶空は頷き、視線を列の跡に向けた。
「うん。楽しいって、ひとつじゃない。今日は“来た人が倒れない”のが一番の楽しさだよ」
咲希はその言葉を胸の奥に置いた。甘い桃の匂いは、まだどこかで揺れている。でも今は、閉じ込めなくてもいい気がした。上書きじゃなくて、重ねる。
咲希はメモ帳の端に、短く書いた。
『約束しないで、寄り添う』




