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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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第8話 完璧な段取りの、ほころび

 八月十九日、午前九時十二分。咲希がオフィスの自動ドアを抜けると、受付脇の温度計がもう三十度を指していた。冷房の風は足元だけ冷たく、肩のあたりは外の熱をまだ引きずっている。

  デスクに着く前に、咲希は一度だけ、給湯室へ寄った。冷たい水のボトルを二本。一本は自分の、もう一本は――。


  華奈恵の席は、いつもより紙が多かった。コピー案、掲出の一覧、スタッフ向けの手順。付箋は色ごとに列を作り、右端には細いペンで時間が書き込まれている。

  華奈恵はモニターを見たまま、指先でキーボードを叩いていた。入力の音が、一定のリズムで続く。画面の左下に小さく「08:47」の表示が見えた。咲希が来る前から、動いていたらしい。


  咲希は椅子の背もたれに水をかけないよう慎重に近づき、机の角にボトルを置いた。

  華奈恵は視線だけでそれを確認し、言葉の代わりに指でキャップを二回叩いた。


  「昨日の撮影データ、今日中に差し替えですよね」

  華奈恵が言った。声は平らで、平らすぎて、どこにも息が引っかからない。

  咲希は頷き、資料の端をそろえる指を止めた。

  「はい。店の掲出は明後日から、試験販売の告知も入る。……華奈恵さん、朝ごはん、いつ食べました?」


  華奈恵の指が、ほんの一瞬だけ止まった。すぐに動きは戻ったが、画面のスクロールが一行だけずれた。

  「食べました」

  「何時に?」

  「……時間は、覚えてないです」


  咲希は椅子に座らず、華奈恵の机に置かれた段取り表を横から覗いた。分単位の枠が続く中、十一時と十二時の間が綺麗に埋まっている。

  咲希はその余白のなさに、思わず笑いそうになって、やめた。

  笑うと、華奈恵はもっと頑張ってしまう。


  「この表、食べる欄はどこですか」

  咲希が言うと、華奈恵の眉がわずかに動いた。反論が出かけて、出ない。

  その代わり、華奈恵はマウスを強く握り直し、画面の隅の小さな赤い通知を消した。

  「今、消します。差し戻し三件」

  「私も消します。どれから?」

  「……え」

  「どれから消せば、明後日の店が回る?」


  華奈恵は目線を上げた。咲希の顔を見て、少しだけ目を細める。いつも議論を閉じるときの顔ではなく、どこを切り取って渡せばいいか測る顔だった。

  数秒だけ、沈黙が落ちる。


  「店頭のPOP。誇大表現のチェックが戻ってます」

  華奈恵は一枚の紙を引き抜き、咲希の前に置いた。赤字の線が細かく、ページの端まで走っている。

  「次、スタッフ手順。氷追加の文言が、現場で誤解される可能性って……悦章さんの指摘」


  咲希は紙を受け取り、線の意味を一つずつ読んだ。言い返したくなる箇所を飲み込み、質問に変える。

  「この赤字、どこまで直したら“可”になりますか。悦章さんの基準、分かる?」

  華奈恵は、机の引き出しから別の紙を出した。規定の抜粋。蛍光ペンの色が濃い。

  「ここ。温度表現と、持続の言い方。『ずっと冷たい』は不可」

  「じゃあ、“最後まで”も危ない?」

  「危ない。……“ひと口目の冷たさ”なら、まだ」


  咲希は頷き、メモに書いた。紙が擦れる音が、華奈恵の一定のタイピングに混ざる。

  ふと、華奈恵の肩が小さく揺れた。揺れた、というより、息が一回だけ詰まったように見えた。


  「……華奈恵さん、座り直しませんか」

  咲希が言うと、華奈恵は「大丈夫」と返しかけて、口を閉じた。代わりに、椅子の背に背中を一センチだけ預ける。

  その一センチが、今日の一番大きな譲歩に見えた。


  そこへ、叶空がふらりと現れた。手には紙袋。紙袋の口から、コンビニの小さなサンドイッチの包みが覗く。

  「おはよう。……あ、まだ戦ってる?」

  軽い言い方なのに、机の上の紙の山を見て、目の奥だけが真面目になる。

  叶空は紙袋を華奈恵の机の端に置いた。

  「これ、食べられるときに。冷たいのじゃなくて、今日は噛むやつ」


  華奈恵は「いりません」と言いそうな顔をして、言わなかった。代わりに、紙袋の取っ手を指でつまみ、ほんの少しだけ机の内側に寄せた。

  咲希はその動きを見て、胸の奥がすっとする。

  “受け取る”だけでも、今日は大事だ。


  「仕事、分けましょう」

  咲希が言った。

  「華奈恵さんは、差し戻しの優先順位だけ決めて。私は、POPの言い回し直して悦章さんに投げる。叶空さんは、店に確認。氷追加の手順、現場がどう受け取るか」

  叶空が親指を立てる。

  「了解。店長、今ならつかまるはず」


  華奈恵は一瞬、唇を噛んだ。自分の表の外に、人が入ってくるのが嫌なのだ、と咲希は分かった。

  だから咲希は、言葉を足した。

  「勝手に触りません。範囲、決めてください。私が動くのは、ここからここまで」

  咲希は紙に線を引き、指で示す。赤い線ではなく、薄い鉛筆の線。

  華奈恵の視線が、その線の上で止まる。しばらくして、小さく頷いた。

  「……そこだけで。お願いします」

  声が、ほんの少しだけ低くなった。無理を押し込める声だ。


  午前十一時四十分。咲希は修正した文言を三案に絞り、悦章に送った。送信ボタンを押す指先が、いつもより軽い。

  叶空は店から戻り、メモを一枚差し出した。

  「氷追加、言い方次第。『無料で増やせます』は混むからやめて。『暑い日は氷多めもできます、スタッフに声かけて』なら、現場は回る」

  咲希はメモを受け取り、うなずく。

  「“できる”を押しつけない。選べる形にする」


  華奈恵はその会話を聞きながら、段取り表の空白に、初めて小さな文字を書いた。

  『昼 12:10』

  それだけだったが、咲希には大きく見えた。


  十二時十五分。華奈恵が紙袋を開けた。包み紙を剥く音が、静かなフロアにやけに響く。

  華奈恵は一口だけ噛み、すぐに飲み込んだ。味わう時間を取らない癖が、まだ残っている。

  咲希は何も言わず、自分のペン先を整えた。


  叶空が、咲希の隣で小さく呟いた。

  「“無理しないで”って、言える人が増えるといいよね」

  その言い方は、誰かを責める形じゃなくて、願いに近かった。

  咲希は返事の代わりに、机の端に置いた水のボトルを、華奈恵の手の届く位置へそっと動かした。


  午後一時。悦章から返信が来た。短い。

  『修正案2で可。手順文は「希望時」追記。』

  咲希は画面を見て、息を吐いた。可。今日はそれで十分だ。


  華奈恵はその文字を見て、肩の高さが一ミリだけ下がった。咲希は、その一ミリを見逃さない。

  「次は、試験販売の告知。明日の午前中までに、店に貼る」

  華奈恵が言い、咲希は頷いた。

  「明日も、分けましょう」

  咲希の言葉に、華奈恵は一度だけ視線を上げる。頷きはない。でも、否定もない。


  机の上の紙の山が、少しだけ低くなった。完璧な段取りの端っこに、やっと人の呼吸が入り込む。

  咲希は、夏の熱に負けない小さな涼しさを、胸の奥に置いた。



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