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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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第7話 猛暑日、撮影班が倒れそう

 八月十八日、午前六時三十分。集合場所の公園は、朝なのに空気が甘く重かった。芝の上に置いた三脚の脚が、もう少しで地面に沈みそうなほど湿っている。

  咲希は首から下げたスタッフパスを指で押さえ、簡易テントの影を探した。影は薄い。太陽はまだ低いのに、皮膚の上に透明な膜を張ってくる。


  「今日、外は……危ないね」

  小さな声で言ったのは、撮影監督だった。汗を拭くタオルの端が、もう濡れている。


  咲希は頷き、スマホで気温を確認した。最高気温の予報は三十七度。数字が出ると、迷いは短くなる。

  「屋外のカット、先に全部は無理です。店内を先に撮ります。外は、夕方に回しましょう」


  咲希がそう言うと、撮影班の空気が一瞬だけゆるむ。だが次の瞬間、スケジュール表が頭の中で音を立てて崩れた。時間、移動、電源、許可。崩れたものを拾って並べ直す作業は、手が止まると負ける。

  咲希はバッグから紙を出し、膝の上で線を引いた。午前中は店内。外は十七時以降。公園カットは短く、路地は日陰側のみ。反射板は二枚で足りる。足りないなら、白い発泡ボードで代用。


  背後で、パキ、と軽い音がした。

  振り向くと、叶空がクーラーボックスの蓋を開け、氷嚢と凍らせたペットボトルを並べていた。首に巻く冷却タオルも、袋から出して一枚ずつ整える。黙って、けれど早い。

  叶空は一枚の紙を掲げた。印刷された見出しは太字だった。


  『暑さをしのぐ技 当日版』


  咲希は思わず、口元だけで笑った。

  「……それ、いつの間に」

  「昨日の夜。寝る前に思いつくのって、だいたい当日の自分を助けるやつだから」

  叶空は紙を咲希に渡し、指で一行ずつ指した。

  「一、飲む前に冷たい水。二、首と手首を冷やす。三、列は日陰へ誘導。四、氷は追加できるって明記。五、作り手の休憩を先に決める」

  「四が、撮影と関係ある?」

  「ある。『氷追加』って言うと、急に“この店、暑さに勝つ気ある”って伝わる」


  咲希は紙を受け取り、目を走らせた。言葉が、具体の手触りを持っている。しかも、笑える。

  胸の奥の緊張が、ほんの少しほどけた。


  そこへ、華奈恵が現れた。腕にはファイル、肩には折り畳みの椅子。さらに、ハンディ扇風機が二つぶら下がっている。

  「暑さ指数、危険。撮影は店内優先。外は短縮。代替カット案、ここ」

  彼女は淡々と紙を差し出した。秒単位で区切られた表の下に、予備の絵コンテが三案。しかも、移動時間まで含まれている。

  咲希は、息を吸ってから吐いた。

  「助かる。私の線引き、これに寄せる」


  最後に悦章が来た。手にはクリップボード。紙が挟まれ、赤ペンが一本刺さっている。

  悦章は集合した機材と人の数を一瞥し、温度計を確認し、短く言った。

  「屋外は、十五分ごとに中断。誰かがふらついたら即中止。水分と塩分、携行。スタッフも客も同じ」

  誰も反論しない。反論する余裕がないのではなく、その言い方が、現場を守る形をしているからだ。


  店へ移動すると、冷房が胸の奥まで届いた。咲希は一瞬だけ立ち止まり、喉の奥の熱が引く感覚を確かめる。

  バックヤードでは、店長が大きな保冷庫の前で待っていた。

  「今日は、冷却用の氷も多めに用意しました。……あの、撮影の人も、使っていいです」

  咲希は頭を下げた。言葉が追いつかないとき、動作が先に出る。

  叶空も同じ角度で頭を下げ、次にすぐ、撮影班へ氷嚢を配り始めた。


  店内の撮影は順調だった。ピンクフロストの淡い桃色は、ライトを当てると少しだけ白く見える。咲希はモニターを覗き込み、露出の数値よりも、カップの縁につく霜の厚さを見た。

  霜が薄いと、嘘っぽい。

  霜が厚すぎると、冷たさが痛そうに見える。


  「氷、もう少し角を立てたい」

  咲希が呟くと、叶空がすぐに、氷の形を変えた。器具の奥から、四角い氷を一つ取り出し、カップの上にそっと置く。

  それを見た瞬間、咲希の胸が小さく鳴った。

  昔、自分の家の店で、父が氷を“角が残るように”切っていた。溶けて丸くならないように。客が口に入れたとき、最後まで冷たいように。


  咲希は視線を落とし、深呼吸した。過去の扉がきしむ音がしたのに、今日は倒れない。

  倒れるわけにはいかない。


  「咲希さん、顔、白い」

  叶空が小さく言った。声は、熱に負けない温度だった。

  咲希はすぐに首を横に振ろうとして、やめた。嘘をつくと、余計に疲れる。

  「……冷房が効きすぎてるだけ」

  仕事の言葉が先に出る。自分でも笑ってしまいそうになる。

  叶空は笑わない。代わりに、ポケットから塩飴を一つ出し、咲希の手のひらに乗せた。前と同じ、桃味の包装紙。

  「効きすぎてるなら、ちょうどいい。冷たいの、味方にしよ」


  午後三時。外はさらに熱くなり、窓の向こうのアスファルトが揺れていた。撮影班の一人が、額の汗を拭きながら言った。

  「外、いけますかね……」

  咲希は、すぐに答えない。答えを急ぐと、誰かが無理をする。

  代わりに、悦章を見た。

  悦章は温度計を見て、赤ペンで紙に線を引き、短く言った。

  「今は不可。十七時から。日陰側だけ」


  その一言で、決まった。咲希は華奈恵の表を見て、葉の影が伸びる時間帯にだけ丸を付ける。

  叶空は『暑さをしのぐ技 当日版』の紙の裏に、太字で書き足した。


  『無理しない』


  夕方、路地の撮影に出ると、日陰は涼しく、陽の当たる部分はまだ刺すように熱い。咲希は通行の邪魔にならない位置にスタッフを立たせ、店の看板が見える角度を探した。

  「ここ、三歩下がる。……いや、二歩。電柱、切れる」

  口から出るのは指示ばかりなのに、胸の奥は落ち着いていた。段取りが戻ると、呼吸が戻る。


  最後のカットは、カップを受け取った客役が、日陰席へ誘導されるシーンだった。

  叶空が手で示した先に、店内の涼しい席が見える。視線が自然に逃げ場へ向かう。

  咲希はモニターの端で、さっきの言葉を思い出す。

  逃げていい。


  撮影が終わり、機材を片付けるころ、空が少しだけ薄紫になった。咲希は汗で湿ったスタッフパスを外し、首元を拭いた。

  叶空が横に来て、紙を一枚差し出した。今日の“技”の紙だ。折り目が増えている。

  「これ、使えた?」

  咲希は紙の端をつまみ、軽く振った。

  「使えた。……紙じゃなくて、中身が」

  叶空が少しだけ笑う。

  「じゃあ、次は、もっと増やす。涼しいやつ」


  咲希は言葉を探し、見つけたのは短い一つだった。

  「ありがとう」

  仕事の礼じゃない、と自分で分かる程度に、声が小さくなった。


  叶空は頷き、遠くの駅前の灯りを見た。

  「明日、喉、痛くならないといいね。叫び過ぎた」

  「誰のせいですか」

  「暑さのせい。……あと、僕の筆圧」


  咲希は、やっと笑った。笑うと、胸の奥の“言えないもの”が少しだけ軽くなる。

  夏はまだ続く。でも今日みたいに、段取りを組み直せるなら、怖さの形も変えられる気がした。



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