第6話 恋愛コピーの誤爆
八月十四日、午後一時。制作会社の会議室は、ホワイトボードの下だけ妙に冷えていた。咲希はリモコンを握り、プロジェクターの青い光が壁に滲むのを見つめる。指先が乾く。資料を作り直し過ぎて、紙より先に自分が薄くなった気がした。
午前中、咲希は自席で三度、同じ見出しを打ち直した。『記憶に残る香り』は魅力的だ。でも押しつけになれば、ただの宣伝文句になる。『昔の夏が戻る』は甘い。『一口で、夏が戻る』は短い。短いほど、怖い。
メモ帳の端に、昨夜の自分が書いたらしい一文がある。消しゴムで擦った跡だけ残り、文字は読めない。咲希はその跡にペン先を当て、何も書かないまま引っ込めた。
扉が開き、悦章が入ってくる。腕に抱えたファイルは角が揃っている。後ろから叶空も顔を出し、紙コップの水を二つ、机の端にそっと置いた。何も言わない。置き方だけが「ここにあるよ」と言っている。
華奈恵は既に席にいて、タブレットの画面を二本指で拡大し、予定表の行を上から下へ滑らせる。咲希の手元には、校正用に印刷した原稿が重ねてある。赤ペンを置いたのは自分なのに、赤が怖い。
「始めます」
咲希は言って、スライドを進めた。冒頭は、導線。次が、注意書き。香りカードの扱い。三分で終わる手順。悦章は頷きもせず、紙に線を引いていく。叶空はボードに簡単な図を描き、店頭での立ち位置を矢印で示した。
華奈恵は、時間帯別の来客数の予測を一枚だけ差し込む。「列が伸びるなら、試飲はここで止める」と、淡々と話した。咲希は、その淡々さに救われる。現実の話は、足場になる。
「ここで、試飲の一言を」
咲希は画面を切り替える。次の瞬間、視界の端で華奈恵の指が止まった。空気が一拍、静かになる。
大きな文字が、白い壁に映っていた。
『君だけを見つめてた』
咲希は、呼吸の仕方を忘れた。喉が熱い。首筋から耳の裏へ、じわりと熱が上がる。指が勝手にリモコンを押そうとするのに、ボタンが見つからない。画面の文字だけが、ど真ん中で堂々と立っている。
昨夜、机の上に並べた案の中に、ふざけ半分で打った一文があった。誰にも見せないつもりで、スライドのメモ欄に放り込んだ。なのに、メモ欄ごと貼り付けてしまった。自分で自分の指を信じ過ぎた。
悦章が赤ペンを置き、短く言った。
「不可」
それだけで終わるはずなのに、会議室の空気がざわつく。店頭の看板みたいに、言葉が立ってしまった。
「違います、これは……」
咲希は言いながら、唇が乾くのが分かった。謝るべき相手が、壁にいる気がする。
「誤って入ってしまって。今の案は、こちらで――」
華奈恵が、咲希の手元の紙を一枚だけ引き寄せた。指の腹で、該当の行をそっと隠す。声は低い。
「差し替え、ここ。『一口で、夏が戻る』。その下に『香りは選べます』を入れて、押しつけにならないように」
数字の人が、言葉を救ってくれた。咲希は頷く代わりに、ペンで丸を付けて見せた。
叶空が、わざとらしく咳払いをしてから、壁の文字を見上げた。
「……すみません、これ、僕の目が悪いだけかもなんですけど。『君だけを見つめてた』って、ドリンクが言ってます?」
言い切ったところで、自分で首を傾げる。さらに、ボードに小さなカップの絵を描き、吹き出しを付けた。
『見てた』
絵の下に、そっと氷の四角を二つ足す。子どもっぽいのに、会議室の空気が一段、柔らかくなる。
華奈恵の口角が、ほんの一ミリだけ上がった。咲希の胸の締め付けが、少しだけほどける。笑っていいのか分からないまま、息だけが戻った。
悦章は笑わない。だが、赤ペンを取り直し、別の行に線を引いた。
「恋愛の強調は、誇大になりやすい。文言は、飲み物の体験に寄せる。『記憶』も扱いは慎重に。『思い出す』は人によって刺さる」
咲希は、刺さる、という言葉に小さく肩が揺れたのを、誰にも見せないように背筋を伸ばす。
悦章は続けて言う。
「ただし、『香りは選べる』『苦手な人は避けられる』を明記するなら可」
可、という一文字で、咲希の肩が落ちた。落ちた拍子に、机の角に肘が当たり、小さく痛む。痛みが現実を連れてきた。
会議が終わり、廊下へ出る。冷房の風が背中を押し、外の熱気がガラス越しに揺れている。咲希はトイレの鏡を一瞬だけ見て、すぐ目を逸らした。頬が熱い。なのに、目だけが冷えている。
叶空が横に並び、歩幅を合わせた。彼はポケットから小さな飴を一つ出し、咲希の手のひらに置く。桃味の包装紙。さっきの水みたいに、言葉はない。
咲希は包み紙を握り、喉の奥の熱を飲み込んだ。
「本音、隠すの上手いよね」
叶空の声は、冗談の後の落ち着いた温度だった。
咲希は足を止めかける。返す言葉を探す。資料のミスの話なら、いくらでも謝れる。でも、今の一言は、紙の外にある。
「……次から気をつけます」
口から出たのは、仕事の言葉だけだった。
叶空はそれ以上追わない。ただ、咲希の歩調に合わせて、エレベーターのボタンを先に押した。
夕方、駅のホーム。電車待ちの列の隙間から、熱い風が上がってくる。向かいのホームでは、学生が水筒を振って氷を鳴らしていた。咲希はハンカチを出し、手首を一度だけ拭いた。香りカードに触れた指先が、まだ甘い。桃の匂いが、勝手に過去へ連れていきそうになる。
咲希は、手首を見つめたまま、目を閉じる。
見つめていたのは、誰かではなく、自分の中の、言えないものだった。




