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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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第5話 記憶に残る香りの扱い方

 八月十二日、午前九時すぎ。咲希の机の上には、桃色の付箋が四枚、まっすぐ並んでいた。上から順に「香り」「安全」「導線」「文言」。それぞれに矢印が伸び、端で結ばれている。結び目のところだけ、強く鉛筆が走って紙が少しへこんでいた。


  机の端に、小さなガラス瓶がある。ピンクフロスト用の香り見本。蓋を開けないままでも、近くに寄ると薄い甘さが鼻に触れた。咲希は指先を瓶の横に置き、すぐに離した。触れてしまうと、夜の店のシャッター音が戻ってきそうだったからだ。


  「咲希、これ見た?」

  背後から声がして、咲希は振り返った。華奈恵がファイルを抱えて立っている。透明なクリアホルダーの中に、印刷物がきっちり収まっている。角が折れていない。


  「香りを出す演出、やるなら、この条件は外せない」

  華奈恵は椅子の背に手を置き、咲希の机へ資料を一枚ずつ並べた。見出しは「香料・アレルギー」「換気」「掲示」。欄外に細かな注釈がぎっしりある。

  「匂いが苦手な人、子ども、妊娠中の人、体調が揺れてる人。駅前は通り道だから、こちらが意図してなくても吸わせてしまう」

  言い終えると、華奈恵は赤いペンのキャップを外し、咲希の付箋の「香り」に丸をつけた。その丸が、少しだけ大きい。


  咲希は喉の奥まで出かけた「でも」を、舌の上で折りたたんだ。

  「通り道で、勝手に吸わせない。そこを守るなら、香りは扱えますか」

  質問にすると、華奈恵の目線が資料から咲希へ移る。咲希は視線を外さず、鉛筆を持ったまま待った。


  「……押しつけない形なら、まだ」

  華奈恵はペン先で、条件の箇条書きを叩く。

  「空間に撒くのは避ける。見本は密封。希望者だけ、自己判断で触れる導線。掲示文も、誇大は不可。『思い出す』とか『癒やす』は言い切らない」

  咲希は頷き、付箋の結び目に短く書き足した。「選べる」「密封」「掲示」。鉛筆の芯が折れ、咲希はそのまま折れた先を指で拾い、引き出しに入れた。


  午前十時半、取引先の会議室。ホワイトボードの前に立つ叶空は、マーカーの蓋を歯で外そうとして、悦章に無言で睨まれ、すぐ手で外し直した。咲希はそれを見て、笑いそうになって飲み込む。


  「香り演出の件、今日決めます」

  悦章は椅子に深く座らず、机の端に指先を置いたまま言った。指先の位置が動かない。

  「クレームが出る可能性があるものは、先に潰す。店舗の負担が増えるなら、やらない」


  叶空がボードに大きく四つ、四角を描いた。

  「入口、レジ横、受け取り口、席。香りを置くのは、レジ横だけ。しかも密封で、触れるのは希望者だけ」

  四角の横に、小さな矢印を描く。「手を伸ばす」「戻す」。さらに、矢印の下に「店員が渡さない」と書いた。


  咲希は、持ってきた案を机に置き、悦章へ紙を滑らせた。紙には大きな文字で「選べる香り見本」とある。下に、注意書きの候補が並ぶ。

  「『香りが気になる方は無理に近づかないでください』ではなく、『香り見本は密封です。体験したい方だけ、ここで触れます』にします。通り道は、香りのないまま通れる導線にします」


  悦章は紙を見下ろし、赤ペンで一点だけ線を引いた。

  「『触れます』は、強い。『試せます』に」

  「分かりました」

  咲希は即答して、言い回しをその場で書き直した。紙に余白が足りなくなり、咲希は裏面へ矢印を書き足す。余白の使い方が荒くなるのを、自分で感じた。


  華奈恵が資料を開き、条件のチェック欄を読み上げる。

  「密封の仕様、清掃手順、掲示の位置、換気の確認。スタッフ説明は、三分で終わる手順に落として」

  その言い方は、拒否ではなく段取りの要求だった。咲希はメモ帳に「三分」と書き、二重線で囲んだ。


  叶空が、ポケットから薄いカードを取り出した。名刺より少し大きい。透明な袋に入っている。

  「香りカード。袋の上から指で軽く押すと、ほんの少しだけ香る。開けない。捨てるときも、袋ごと」

  カードを押した瞬間、桃の甘さがほんの一瞬だけ立った。咲希の胸の奥が、きゅっと縮む。喉が熱くなる。咲希は、机の縁を指で押し、姿勢を崩さないようにした。


  悦章が短く言う。

  「空間に撒かないなら、可。掲示文、今日中に確定。店舗に説明資料も添付」

  叶空は肩で息を吐き、ボードの四角を消さずに残した。消すときに粉が舞くのが嫌なのか、彼は消しゴムではなく、濡れた布で端から拭き取っていく。手が止まらない。


  会議が終わり、廊下に出たところで、咲希は叶空の背中を呼び止めた。

  「叶空さん」

  振り返った彼の手には、さっきの香りカードがまだあった。袋の端が少しだけしわになっている。


  咲希は言い方を探し、見つからないまま口を開いた。

  「……なんで、そこまでやるんですか。香りって、面倒が多いのに」

  自分で言って、冷たい言い方だったと気づく。咲希は続けて言葉を足した。

  「止めたほうが楽でしょう。今日だって、いくつも条件が増えた」


  叶空は廊下の窓を少し開けた。外の熱気が入ってきて、クーラーの冷たさが一瞬だけ押し返される。彼は窓の隙間に指を挟まないよう注意しながら、ゆっくり閉め直した。

  それから、咲希の目を見て、短く答えた。

  「元気になる瞬間が好きなんです」

  言って、彼は自分の胸ポケットを指で叩いた。

  「この間、駅前で。暑くて顔が真っ赤な人が、氷を一口で黙って目を閉じて、次に笑った。あれを増やしたい。店舗が困らない形で」


  咲希は、笑った人の顔を想像しようとして、代わりに、自分の記憶が割り込むのを感じた。閉店の夜。蛍光灯の下で、シロップの瓶を拭いた手。最後に残った甘い匂い。

  咲希は、その場で名前をつけるのをやめた。代わりに、今の現実の言葉を選ぶ。

  「……じゃあ、増やしましょう。無理な人を置き去りにしない形で」

  言うと、叶空は「はい」とだけ返した。返事が短いのに、廊下の空気が少し動いた気がした。


  戻り道、咲希はスマホのメモを開き、今日決まった文言を打ち込む。最後に一行だけ、別のメモを追加する。

  「香りは、押しつけない。選べる導線で、手を止める人を作る」

  送信も保存もせず、画面を閉じる。手のひらにまだ薄い桃の残り香がある。咲希はハンカチを出し、指を包んで、ゆっくり息を吐いた。



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