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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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第4話 五つ目の季節、って何

 八月七日、午後三時。駅前商店街の入口にある案内板の前で、咲希はスマホの地図を指で広げたり縮めたりしていた。熱にゆがむアスファルトの上を、子どもの手を引いた親が急ぎ足で通り過ぎる。日陰を選んでも、頬にまとわりつく空気はほどけない。


  「ここ、午後になると風、通りますよ」

  隣で叶空が、商店街の上に張られた日よけ布を見上げた。色あせた布が少しだけ揺れ、風鈴の音が、かすれた銀色みたいに落ちてくる。


  「風鈴って、涼しい気分になるだけで実際は涼しくならないって聞いた」

  咲希が言うと、叶空は即座に頷いた。

  「気分だけです。……でも、気分って、けっこう強いです」


  咲希はメモ帳を開き、今日の欄に「下見」「日陰」「逃げ場」と書いた。書き終えたところで、もう一つ、叶空が先ほど会議で投げた言葉を思い出す。


  「さっきの。『五つ目の季節』って、何」

  叶空は歩きながら、指で数える仕草をした。

  「春、夏、秋、冬、で……五つ目。あれ、変ですよね」

  「変。だから聞いてる」


  叶空は笑って、商店街の角を曲がった先の小さな公園を指さした。ベンチの背に、子どもが脱いだ帽子がひっかけられている。水飲み場の蛇口から、ちょろちょろと水が流れていた。


  「夏の終わりにだけ、急に空気が軽くなる日、ないですか。まだ暑いのに、夕方が早くなる感じ。風が、ちょっとだけ秋の匂いになる」

  咲希は、その言い方に反射で眉を寄せた。「匂い」みたいな曖昧な言葉は、会議室だと一瞬で潰れる。だから、口に出す前に一拍置く。

  「……それを、店の人にも分かるように言うと?」

  叶空は一度立ち止まって、胸ポケットから小さな付せんを取り出した。そこに何か書くでもなく、指先で折り目だけつける。

  「夏が終わる前の、数週間。暑さは続くのに、心の温度が変わる期間。焦りと、少しの余裕が同居する」

  「数週間、ね」

  咲希はメモ帳に「八月末から九月頭、心の温度」と走り書きし、線を引いて整えた。言葉は削るほど、現実の手触りに近づく。


  商店街の中央に、カフェの新店が見えてきた。入口は広いが、外の席は直射日光が容赦ない。咲希が「ここ、昼はきつい」と言いかける前に、叶空が店長に向かって深く頭を下げた。


  「この時間帯、外席は避けます。試飲は店内のこの角、冷房の風が当たりすぎない場所で。並ぶ人の列は、日陰のあるこちら側に寄せられますか」

  店長が少し驚いた顔をして、それから「助かります」と息を吐いた。咲希はその横顔を見て、胸の奥で小さく納得する。勢いだけの人じゃない。現場の息の仕方を、ちゃんと見ている。


  店の裏口からバックヤードも確認し、氷の保管場所、動線、ゴミの出し方までひと通り見た。咲希は、メモ帳の余白に小さく「押しつけない」と書き添えた。香りも、言葉も。


  外に出た瞬間、空が暗くなった。さっきまで白く焼けていた雲が、墨汁を落としたみたいに広がっていく。

  「やばい、来る」

  叶空がそう言ったと同時に、最初の大粒がアスファルトを叩いた。音が急に増えて、商店街の屋根が一斉に鳴った。


  「傘、ない」

  咲希が言うと、叶空は迷わず自分の肩掛けバッグを咲希の頭上にかざした。

  「走ります。駅、こっち」

  「そのバッグ、濡れる」

  「中身、紙じゃないんで」


  二人は走った。商店街の灯りが雨粒に滲み、足元の水たまりが、桃色のネオンを揺らす。咲希の髪が頬に張りつき、息が短くなる。笑いそうになるのを、飲み込んだ。大人が、夏の夕立に本気で走っている。


  角を曲がったところで、軒先に避難した。雨はまだ強く、目の前の路地が薄いカーテンになっている。

  叶空がバッグを下ろし、濡れた前髪を指で払う。その動きで、ふっと甘い香りが立った。さっき店で嗅いだ、淡い桃。だけどそれだけじゃない。もっと古い、砂糖が熱で溶ける匂い。鉄の匂い。シャッターの冷たさ。


  咲希は息を止めた。胸の奥の扉が、勝手に開きかける。

  「咲希さん?」

  叶空の声が、近い。心配そうな色を含むのに、踏み込みすぎない距離。


  咲希は視線を路地の水の流れに落とし、唇を結んだまま、首だけ横に振った。言葉にしたら、今は戻れない気がした。


  沈黙の代わりに、叶空がポケットから小さなハンカチを出した。白い布に、薄いピンクの糸で小さな刺繍がある。咲希の髪に触れないように、手のひらに置くみたいに渡してくる。

  「……使ってください。髪、目に入ると危ない」


  咲希は受け取り、指先で布の端をつまんだ。柔らかい。濡れた髪を押さえると、冷えた水気が布に移り、代わりに手のひらが少し温かくなる。


  雨音の向こうで、風鈴が一つだけ鳴った。さっきより低い音。夏の音なのに、なぜか急に、終わりが近い気がした。


  「五つ目の季節って」

  咲希は、ようやく声を出した。

  「こういう感じ?」

  叶空が頷く。

  「暑いのに、少しだけ、次が来る感じ」

  咲希はハンカチを握り直し、笑うでもなく、泣くでもない顔のまま息を吐いた。

  「……じゃあ、その数週間を、ちゃんと売るんじゃなくて、ちゃんと渡す言葉にする」

  「はい」

  叶空の返事は短いのに、なぜか頼もしかった。


  雨が少し弱まり、路地の向こうが見え始める。咲希は濡れた靴の先を見て、もう一度深呼吸した。

  過去の匂いが戻ってきても、今の手触りを離さない。そう決めるには、まだ早い。けれど、今なら、決めつけない質問を重ねていける気がした。



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