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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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3/12

第3話 白か黒か、グレーの汗

 八月二日、午後一時。会議室の壁際で、卓上扇風機が「弱」のまま唸っていた。空調の設定温度は二十八度。誰かが「省エネです」と笑って、誰も笑えなかった。


  咲希は冷えかけたペットボトルを握り直し、議事録の行間に赤字の見出しを入れる。

  〈撮影案:見直し〉

  言葉にした途端、喉の奥が乾いた。


  今日の議題は、販促用の写真と短い動画の撮影。駅前商店街の店頭で、ピンクフロストを渡す瞬間を撮って、店頭POPと告知文に使う。咲希は「いつもの段取り」を頭の中で並べてきたはずなのに、机の向かいの悦章は最初から首を振っていた。


  「屋外で提供しているように見える構図は不可」

  悦章は言い切り、印刷した手順書の該当箇所に赤線を引いた。

  「温度管理。日向。氷。誤解が起きる」


  咲希は「見える構図は演出で、実際は――」と口を開きかけて、すぐ閉じた。説明を盛ると、相手はもっと硬くなる。ここで必要なのは、正しさの言い合いじゃない。

  咲希は指先でペンを転がし、言葉の角を丸めてから投げた。


  「じゃあ、店頭“付近”で。背景に外が入らないように――」


  悦章は首を縦に振らない。

  「“付近”も不可。外を連想させるのは避ける」


  咲希は思わず笑いそうになった。笑うと負ける気がして、奥歯で堪える。

  外を連想させる――駅前なのに。

  頭の中で、今日の予定表がずれていく。華奈恵のタブレットの画面が一瞬よぎった。分単位の段取り表。撮影が崩れると、印刷所の締め切りも、掲出の日も、全部が芋づる式に動く。


  「だったら」

  叶空が手を挙げた。肘から下が汗で光っている。袖をもう一つ折り、ホワイトボードの前に立つ。

  「撮る場所は店内のカウンター前。窓は背にしない。客導線が写り込まない角度で、手元と表情だけ。氷は、実物じゃなくて撮影用に“見た目だけ冷たい”やつにします」


  悦章が眉を動かす。

  「見た目だけ?」


  叶空は笑って、バッグから小さなジップ袋を出した。中には透明な粒。氷みたいで、触っても溶けないやつ。

  「展示用の疑似氷。食品に触れない位置で、外観だけ使います。あと、提供中は蓋つきカップで統一。写真も蓋つきの状態で撮ります」


  咲希は、思わずペットボトルの水を一口飲んだ。舌が冷たさを拾って、頭が少しだけ回り始める。

  叶空はさらに続けた。

  「“記憶に残る香り”の表現も、匂いが戻るとかじゃなくて、“思い出すきっかけ”って言い方に寄せる。根拠資料は明日午前に提出。スタッフ向けの手順も、撮影前に一枚でまとめます」


  悦章は赤ペンを止め、紙を一度だけめくった。

  「温度管理の手順は?」


  「アイスは店内保管。撮影は一杯ずつ。撮る前に作って、撮り終えたらすぐ提供用に回すか、廃棄。列ができた時の待避点は――」

  叶空はボードに矢印を描き、待機場所に丸をつける。線が一本増えるたび、咲希の胸の中のざらつきが減っていった。言葉が、現場の動きに繋がっている。


  悦章は最後まで黙って聞き、赤ペンで「可」と書いた。

  「なら可。写真は蓋つき。背景は店内。手順書、明日」


  短い許可が落ちた瞬間、咲希は肩の力が抜け、汗が背中を伝うのが分かった。冷房のない夏じゃないのに、身体は正直だ。白か黒かを決める言葉が落ちるまで、ずっとグレーのまま立っていた。


  会議が終わり、廊下に出たところで、咲希は足を止めた。ポケットからメモ帳を取り出し、さっきまで書きかけていた言葉の上に、太く一行。

  「決めつけ注意」

  書いて、すぐに線を引いて消す。消しゴムのカスが指に付く。指先でつまんで丸めると、ちいさな雪みたいに白い。


  「咲希さん」

  後ろから、叶空の声がした。振り返ると、彼は扇風機の前で髪を乾かしていたのか、前髪が少しだけ立っている。本人は気づいていない。

  咲希は、それが可笑しくて、今度はちゃんと笑った。


  「今の、すごかった。……疑似氷、持ち歩いてるんだ」

  「夏の間は。誰かが困るんで」

  あっさり言って、叶空はジップ袋を咲希に差し出した。

  「触ります?」


  咲希は恐る恐る指先で粒をつまんだ。冷たくないのに、見た目だけは完璧に氷だ。拍子抜けして、また笑ってしまう。

  「これ、私の頭の中みたい。冷えてるふりして、全然冷えてない」

  言ってから、少し恥ずかしくなる。大人が会議の廊下で何を言っているのか。

  叶空は首を傾けた。

  「冷えてるふり、してるんですか」

  「……してる。少なくとも、今日は」


  叶空は、咲希の手元を見て頷いた。

  「じゃあ、明日はちゃんと冷やしましょう。氷、多めで」

  それだけ言って、彼はエレベーターの方へ歩いていく。背中が遠ざかるのに、言葉だけが近くに残る。


  咲希はメモ帳を閉じ、消しゴムのカスが残った指をハンカチで拭いた。汗はまだ引かない。でも、胸の奥はさっきよりも軽い。

  グレーは、悪い色じゃない。白と黒の間に立って、具体の線を引き直すための色だ。

  咲希はそう思いながら、自席へ戻る足を少しだけ早めた。



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