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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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20/20

第20話 五つ目の季節、ふたりの現実

 九月十三日、金曜日。夕方五時過ぎ。駅前商店街のアスファルトは、昼の熱をまだ抱えているのに、風の端だけが少し涼しい。咲希はカフェの店頭に立ち、日よけの影が伸びる方向を見て、胸の奥で小さく数を数えた。

 残り時間。残り杯数。撤収の段取り。最終日という言葉を頭の上に置くと、手が止まりそうになる。だから、目の前の一つを拾う。


 入口の横には、夏限定の告知ボードがある。

 白いボードに、桃色のチョークで「ピンクフロスト」。その下に、少しだけ間を空けて、手書き風の一行。

 『暑さをしのぐ技教えます』

 最初の打ち合わせで、叶空が紙ナプキンに走り書きした文字と、ほぼ同じ言い回しだ。咲希はその一行の端が少し欠けているのを見つけ、指先でそっと直した。文字を整える動きは、気持ちの整理にも似ている。


 店内から「咲希さん」と声が飛ぶ。店長が紙袋を抱えて出てきた。

 「本日分、あと二十杯。氷は大丈夫。桃ソースは……残りがこれです」

 透明な計量カップの底に、淡い桃色が揺れている。咲希は頷き、手元のチェック表に丸をつけた。

 「二十杯で区切ります。入口の告知も、今から『本日分は残りわずか』に差し替えましょう。列が伸びても、店の前の歩道は塞がない。ここ、コーンを一つ前に」


 返事の代わりに、店長が小さく笑った。

 「最初の頃、こんなふうに落ち着く日が来ると思わなかったです」

 「来ましたね。……皆さんが倒れないように、が一番です」


 そのとき、隣の歩道で男の子が母親の手を引っ張った。

 「ねえ、技ってなに」

 母親が困った顔をする前に、叶空が店内から出てきた。白いシャツの袖は今日も折ってある。紙コップの束を抱えているのに、歩き方が軽い。

 「技、知りたい?」

 男の子が頷く。叶空はしゃがんで、指を二本立てた。

 「一つ目。水を飲む。二つ目。日陰に逃げる。三つ目、ここ大事。冷たいのを飲む前に、いきなり走らない」

 「え、走ったらだめ?」

 「走りたいなら、まず水。で、ここで一回、息を吸う」

 叶空が大きく息を吸うと、男の子も真似して息を吸った。母親が「ありがとうございます」と頭を下げる。叶空は笑って手を振った。


 咲希はその光景を見て、胸の奥が少しだけ緩む。誰かを無理に引っ張らず、入口に立って、止まれる場所を作る。最初に感じた「勢い」とは違う。現実に触れる手つきだ。


 華奈恵は、入口横の柱に寄りかかってタブレットを操作していた。画面を見ながら、咲希にだけ聞こえる声で言う。

 「ラストの掲出、紙の予備、全部回収リストに入れた。明日の午前中、クライアントへの最終報告資料、私が数字まとめる」

 咲希は目を上げ、礼の言葉を探し、いつもの癖で飲み込みかけた。代わりに、短く言う。

 「助かる。……華奈恵さん、今日は何時に帰る?」

 華奈恵の指が一瞬止まり、すぐに動き直した。

 「閉店まで。最後、現場見て帰る」

 「じゃあ、終わったら店裏で一回だけ座りましょう。水、持ってきます」

 華奈恵は返事をせず、タブレットの端を指で叩いた。いつもの「了解」の代わりだ。


 悦章は店内のバックヤードで、スタッフの手順書の最終版を回収している。紙の角を揃え、禁則事項の赤字が入った箇所に付箋を貼っていく。咲希が声をかけると、悦章は短く答えた。

 「最終日だからこそ、手順は崩すな」

 「崩しません。……ただ、最後の二十杯は、作る人が選べる範囲を増やしたいです。氷の量だけ、二段階に」

 悦章は一枚だけ手順書をめくり、ペンで線を引いた。

 「許可。二段階まで」

 それだけ言って、付箋を貼る。咲希はその背中に、言い過ぎない「ありがとう」を置いた。


 日が沈み始めると、列は短くなり、店内の声が少し落ち着く。咲希は入口のボードを差し替え、「本日分 残りわずか」の紙を貼った。紙の端を揃える。風で剥がれないよう、テープを余らせずに切る。

 たったそれだけで、心がほどける。

 現実は、こういう小さい作業でできている。


 閉店時間の九時。最後の一杯が、店頭で手渡される。

 客が「夏が終わる感じですね」と笑って去っていく。店長が深く頭を下げ、スタッフが拍手をした。拍手の中に、安堵の息が混ざる。

 叶空がカウンターの端で、紙コップの山を見下ろし、肩を落とした。笑っているのに、手が少し震えている。咲希はそれを見て、言葉の順番を決めた。


 店裏の狭い通路。スタッフルームの前。自販機の白い光が、二人の間に薄く落ちる。

 咲希は、鞄の中のメモ帳を一度だけ触ってから、触らないままにした。線を引いて消すのは、今日は違う。

 「叶空さん」

 「うん」

 返事が早い。逃げ場を作らない返事だ。


 咲希は、息を吸う。男の子に教えていたのと同じ深さで。

 「私、仕事も恋も、言い訳で逃げたくない」

 言った瞬間、足元が少しだけ揺れた気がした。けれど、倒れない。咲希は続ける。

 「……一緒に、次の季節を作りたい」

 自分の言葉が、現実の地面に着地する音がした。


 叶空は口を開いて、閉じて、笑った。照れ隠しの笑い方だ。咲希はそれを見て、怖さが少し減る。

 「じゃあさ」

 叶空は指で、空中に小さな丸を描いた。

 「暑さをしのぐ技の次は、寒さをしのぐ技でも教える?」

 咲希は思わず笑ってしまう。笑いながら、頷いた。

 「うん。……それと、私も教える。言葉を、押しつけない置き方」

 叶空が眉を上げる。咲希は続けた。

 「『君だけを見つめてた』、あれ。今日まで、店頭でちゃんと生きてた。私も、同じにしたい。誰かを振り回すためじゃなくて、背中を押すために」


 叶空は少しだけ真面目な顔になり、咲希の手元を見た。手は震えていない。たぶん、震える前に息を吸ったからだ。

 「咲希さん、ちゃんと立ってるね」

 咲希は返事の代わりに、指先で自分の掌を確かめた。ハンカチの布の感触はもうない。でも、代わりに、今の空気がある。


 店のシャッターが下りる音がして、商店街の灯りが一つずつ点く。夏の終わりにだけ混ざる匂いが、風に乗って流れてきた。桃の甘さの残り香に、駅の金属の冷たさが混じる。

 咲希はそれを吸い込み、吐いた。

 「これが、五つ目の季節?」

 叶空が頷く。

 「うん。短いけど、ちゃんとある。だから、見逃さない」

 咲希は横を見て、歩き出す。叶空も並ぶ。手を繋ぐのは、今じゃなくていい。歩幅が揃うだけで、十分に現実だ。


 改札の前、次の電車の時刻が表示される。明日の予定が頭をよぎる。最終報告。請求書。秋のメニューの打ち合わせ日程。生活は、恋の外側で止まらない。

 だからこそ、咲希は声に出した。

 「来週の水曜、打ち合わせのあと、時間ある?」

 叶空が笑った。

 「ある。寒さをしのぐ技、初回講習ね」

 「じゃあ、遅れたら置いていく」

 「それは困る」

 二人の会話は、駅の雑音に溶けた。けれど、消えない。夏の終わりの短い時期に、確かに重なっていく。


 咲希は改札を抜ける前に、もう一度だけ振り返った。店の看板の下、桃色の光が小さく残っている。

 あの香りは、怖さだけじゃなく、今日の呼吸まで連れてくる。

 なら、これからも、選べる距離で持っていける。


 二人は同じホームへ向かい、同じ方向の電車を待った。



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