第2話 桃色の氷菓、社内で溶ける
八月二日、朝十時。咲希は自席のモニターに、ピンクフロストの試飲写真を並べた。淡い桃色は、画面の中では可愛くまとまるのに、言葉にすると急に軽くなる気がする。
咲希はキーボードから手を離し、机の端に置いた紙ナプキンの議事録を見た。クリアファイル越しでも、あの跳ねる字が目に入る。
社内の提案会議は、壁のホワイトボードに「八月二日 駅前カフェ 夏限定」とだけ書かれて始まった。
華奈恵は、席につく前にプロジェクターの投影位置を二センチ直し、ノートPCを開く。画面には、数値と表がもう整列していた。
「安全と運用を優先。店頭導線は混雑時でも崩れない形に」
短い一文のあと、彼女はアンケートの回収数、想定来店数、スタッフの同時対応数を次々に示す。咲希は頷きながら、胸の内で小さく焦った。数字が出ると、言葉は溶ける。
咲希の番になる。
「味の説明だけじゃなくて、暑さから逃げられる導線を……」
言いかけたところで、華奈恵が指先でスライドを止めた。
「“逃げられる”は、曖昧。具体は?」
咲希は唇を結びかけ、すぐに息を入れ直す。
「日陰席への案内表示と、冷たいタオルの受け取り場所です。列の途中に、立ち止まっても邪魔にならない待避点を一つ。店長さんがレジ前の熱を気にしていました」
咲希がそう言うと、華奈恵の目線が一瞬だけ上がった。数字の外側に、誰かの顔が置かれたからだ。
華奈恵はペンで表の端を叩き、ぽつりと言う。
「待避点を置くなら、滞留時間の想定も要る。……午後までに、秒でいいから出して」
咲希は即座に頷いた。叱責ではない。条件付きの許可だ。
会議室を出てすぐ、オンラインで取引先との合議が始まった。画面の向こうで、品質・運用の統括だという悦章が、資料を紙で印刷して並べているのが見えた。
「表現、確認します」
悦章は赤ペンを持ち、咲希の原稿に線を引く。
「“一口で昔の夏が戻る”――不可。断定は避ける」
「“記憶に残る香り”――根拠の提示がないなら不可」
声は淡々としていて、語尾が短い。咲希は喉が乾くのを感じた。
叶空が画面の端で手を挙げた。
「香りの強さは、第三者機関の評価資料を出せます。あと、“戻る”じゃなくて、“思い出すきっかけになる”ならどうでしょう」
悦章は一拍置き、赤ペンを机に置いた。
「なら検討。誇張はしない」
短い言葉が、許可の線になった。
合議が終わると、咲希は自席に戻った。机の上に、見覚えのないカップが置かれている。蓋の内側に、薄い氷の粒が張りつき、ストローの袋がきれいに折られていた。
ピンクフロストだ。
咲希は周囲を見回す。叶空の姿は、オフィスにはない。受け取りの棚に置かれた名刺入れの横に、小さな付箋が一枚だけ貼られている。
『氷、多め。午後、暑いので。』
署名もないのに、誰の字か分かる。
咲希はカップを手に取り、冷たさを掌に移す。礼の言葉を送る代わりに、スマホを開いた。
「香りの根拠資料、いつまでに出せますか」
送信して、すぐにもう一通。
「“記憶に残る”を言葉にするなら、どの場面を想定していますか。飲む人、作る人、待つ人、どれが優先ですか」
自分でも少し可笑しかった。ありがとう、の前に質問が出ている。
コピー機の前で、華奈恵が紙束を揃えていた。咲希はカップを持ったまま近づき、机の角に置いた。
「さっきの秒のやつ、出します。待避点の前後で、列が崩れないように」
華奈恵は紙の端を指で揃えたまま、カップを見る。
「糖分?」
「取引先の人が置いていきました。……氷、多め」
華奈恵は一瞬だけ眉を動かした。咲希はその小さな反応を見逃さない。
「味見します?」
「私は午後、会議が二本」
断りながらも、華奈恵はカップの蓋に貼られた付箋を読み、ほんの少しだけ口角を緩めた。
「……一口だけなら」
言い訳みたいに言って、ストローを借りる。氷の音が小さく鳴った。
自席に戻ると、返信が来ていた。
「明日午前中に資料出せます。優先は作る人、待つ人、飲む人の順。飲む人は最後にちゃんと笑えるように」
画面を見た咲希は、ストローを刺す手を止めた。順番が、普通と逆だ。
咲希は一口だけ飲む。桃の香りは軽いのに、後からミルクの甘さが追いかけてくる。冷たいのに、胸の奥が少し温かい。
目の前のモニターには、悦章の赤字が残っている。華奈恵の表も開いたままだ。
そのどちらにも、今日の正解がある。
咲希は椅子に深く座り直し、ナプキンの議事録を机の隅へ置いた。折り目をまっすぐにするように、指でそっと押さえる。
「記憶に残る香り」
口の中で小さく転がしてみる。溶けて消える言葉じゃなく、現場の手を冷やす言葉に変える。
咲希はキーボードに指を戻し、赤字の上に、新しい文章を重ねて打ち始めた。




