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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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第19話 重ね書き

 九月十日、火曜日。定時を少し過ぎた夜、咲希は駅前の人波から外れて、山手線の反対側へ回った。スマホの地図に従えば二十分。家族が住む団地までの道は、子どものころの足の感覚のまま残っていて、信号が青になるタイミングまで覚えている気がした。


 玄関のチャイムを押すと、母がすぐに出てきた。室内の匂いは、味噌汁と洗剤と、タオルの乾ききらない気配。咲希は靴をそろえ、言葉を一つずつ選ぶ。

 「少しだけ、話したい」

 母は返事の代わりにスリッパを差し出し、台所へ向かった。背中に「座って」が見える。


 テーブルの上に、古いノートが置かれていた。氷菓店の売上帳。紙の角が丸くなり、ページの端に桃色のシロップが染みた跡がある。

 父が湯のみを二つ置いて、正面に座った。湯気が上がり、咲希はその向こうで父の指先を見る。昔より荒れている。指の節が少し太い。


 「咲希が、あの夜のことを覚えてるのは知ってる」

 父が先に言った。咲希は頷く。頷くだけで喉の奥が狭くなる。

 「私が、最後の仕込みを台無しにした。……そう思ってた」

 言い切る前に、息がひゅっと漏れた。


 母が鍋の火を弱める音がして、台所から戻ってきた。母は椅子に座る前に、売上帳の表紙をそっとなでた。

 「台無しになんて、なってないよ。あの夜、泣いてたのは咲希だけじゃない」

 母は笑おうとして、途中で口を閉じた。笑いに逃げない形だ。


 父が売上帳を開き、最後の月のページを指で押さえた。数字の列の横に、小さく「家賃改定」と書いてある。

 「閉めるって決めたのは、あの夜より前だ。駅前の区画が再開発で、家賃が跳ねた。冷凍庫も限界で、修理の見積もりが出た。……それに、俺の腰がな」

 父は自分の腰を片手でさすり、何でもないように言う。その仕草が、何でもないわけがない。


 咲希の胸に溜まっていたものが、ゆっくり溶けた。溶けるときの痛みは、冷たい。

 「言ってくれれば、私、何か……」

 母が首を振った。

 「言ったら、咲希は背負うでしょう。学校の帰りに手伝って、家でまで仕込みの匂いを嗅いで。それでも笑ってた。あれ以上、背中に乗せたくなかった」

 咲希は、指先で湯のみの縁をなぞった。熱いのに、涙は勝手に出る。


 「私、閉店の夜の匂いが、ずっと怖かった」

 声が震えた。言葉が崩れないよう、机の木目を見つめる。

 父が短く息をついた。

 「怖い匂いにしたのは、俺だ。怒鳴った。……ごめん」

 父の「ごめん」は、過去の上に石を置くみたいに重かった。でも、その石は、咲希を押しつぶさない位置に置かれた。


 咲希は笑ってしまった。泣きながら笑う、変な息の仕方になった。

 「……私、今、桃の香りの仕事をしてるよ」

 母が目を丸くした。

 「桃?」

 「うん。夏限定のドリンク。飲むと、昔の夏が戻ってくるって言われてる」

 父が売上帳の染みを見て、少しだけ口角を上げた。

 「戻ってくるのは、いいことばかりじゃないな」


 咲希は頷き、今度は顔を上げた。

 「でも、今の店では、押しつけない形にした。嫌な人は近づかなくていいって、ちゃんと書いてある。……私も、近づける距離を、自分で選べる」

 言ってみると、不思議に言葉が自分の足で立った。


 夜九時過ぎ、団地を出ると、空気が少し涼しかった。咲希は駅へ向かいながら、スマホを握りしめる。指が勝手に名前を押した。

 「叶空さん。今、少しだけ……会える?」

 返事はすぐだった。

 『駅の改札? 五分で行く』


 改札前の小さなベンチ。咲希が腰を下ろした瞬間、胸の中で溜めていたものが一気にほどけた。涙が落ちる。肩が揺れる。止めようとすると、余計に息が詰まる。

 目の前に白い布が差し出された。ハンカチ。無地で、角がきれいに折られている。

 咲希はそれを受け取り、顔を押さえた。叶空は隣に座らず、少し離れて立った。駅の風が通る位置。咲希の呼吸が落ち着くまで、何も足さない距離。


 やっと息を吸えたとき、咲希はハンカチ越しに言った。

 「うちの店、私のせいで閉まったんじゃなかった」

 叶空は頷いただけだった。頷き方が、軽くない。


 咲希は鼻をすするのが恥ずかしくて、笑ってごまかしかけ、途中でやめた。

 「……この香り、嫌いじゃなくなった」

 自分で言って、自分で驚く。過去を消したわけじゃない。上書きしたわけでもない。今日の台所の湯気と、売上帳の染みと、改札の風と、ハンカチの布の感触が、同じ場所に並んだだけだ。


 叶空が、ようやく口を開いた。

 「じゃあ、次は……その香りで、笑える日を増やそう」

 咲希は返事の代わりに、ハンカチを畳んだ。角を合わせ、きっちり折る。現実に戻る動作。

 「うん。九月十三日、最後の日まで」

 言うと、叶空の目が一瞬だけ笑った。


 咲希は立ち上がり、改札の掲示板を見た。帰りの電車の時間。明日の段取り。現実はまだ続いている。

 でも、胸の奥は少し軽い。桃色の“記憶に残る香り”が、怖さだけじゃなく、今日の呼吸まで連れてくる。

 それなら、持って帰れる。



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