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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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第17話 入口に立つ

 九月一日、午後八時四十六分。駅前商店街のアーケードは、昼の白さをしまい込んで、看板の光だけが丸く残っていた。

 カフェのガラス扉の前に立つと、テープで貼り替えた掲示が、夜の照明に少しだけ浮く。「本日分は数量限定」。短い。短いから、今日の一日がそこに畳まれているみたいだった。


 店内では、スタッフが床を拭いている。氷の欠片みたいな水滴が、モップの先で集まり、排水溝に吸い込まれていく。昼間の尖った空気は、やっと裏へ引っ込んだ。

 咲希は扉の取っ手に手をかけたまま、足を動かせなかった。


 「お疲れ」

 隣で、叶空が同じくらいの声量で言った。今日は、あの明るい声を何度も使ったはずなのに、夜になると、ちゃんと疲れているのが分かる。

 咲希は頷こうとして、喉の奥がつまった。喉がつまると、笑い方だけが先に出そうになる。昼間と同じ、あの「似合わない」やつ。

 咲希は息を吸って、吐いた。息をしのぐ技。自分の胸の中で、その言葉を転がす。


 扉が閉まり、冷房の匂いが背中で切れた。代わりに、外の匂いが入ってくる。

 夜風に混じって、甘い匂いが一瞬だけ立った。桃のシロップみたいな、でももう少しだけ湿った匂い。氷が溶けたあとの、濡れた台の匂いが重なる。


 咲希の足が止まった。


 「……ごめん。ちょっと、今」

 言いながら、自分でも何が「今」なのか分からない。ただ、胸の奥の引き出しが勝手に開きかけた。

 叶空は「うん」とだけ言った。急かさない。手で背中を押さない。入口で立ち止まった人の横に、同じ速度で立つ。


 商店街の端まで歩くと、アーケードの外は空が広かった。公園のベンチが見えて、街灯が葉っぱの影を地面に落とす。

 咲希はベンチに腰を下ろし、指先を膝の上で組み直した。ほどけそうになって、組み直して、またほどける。まるで今日の自分だ。


 叶空は少し離れた自販機へ行き、冷たい水を二本買って戻ってきた。一本を差し出す。昼と違って、無言でも怖くない。

 咲希は受け取り、キャップを回して、ひと口だけ飲んだ。冷たさが喉を通った瞬間、さっきの匂いが、もう一度、胸の奥から湧いた。


 「……昔、うち、氷のお店だったの」

 言葉が出た。出てしまった、じゃなく、出た。自分で選んで出したのだと、あとから分かる出方。

 叶空は目を丸くした。でも驚きの勢いで割り込まない。頷きだけで続きを待つ。


 「駅の向こうの、もっと小さな通り。夏になると、削り機の音がして……シロップの匂いが、夜まで残ってた。店を閉めた日の床って、ずっと濡れてるでしょ。氷が溶けて。……さっき、あの匂いを思い出した」

 咲希は言いながら、指先で膝をなぞった。ベンチの木目がざらついていて、現実に引っかかれる。


 叶空は、そこで「その匂い、販促に使える」とは言わなかった。

 代わりに、視線を咲希の手元へ落とし、静かに言った。

 「閉めた日って、どんな音がした?」

 質問が、優しい。掘り返すためじゃなく、咲希の言葉が落ち着く場所を作るための質問だ。


 咲希は少し笑ってしまった。今度は、頬が固まらない。

 「……冷蔵庫のモーターが止まった音。あと、シャッターのガラガラ。最後に、氷のスコップを洗う音」

 「それ、耳に残るやつだ」

 「残る。匂いも。だから……『記憶に残る香り』って言われた時、ちょっと怖かった」

 咲希がそう言うと、叶空は水のラベルを指で潰した。紙じゃなく、薄いビニールが、きゅっと鳴る。


 「怖いのに、今日も入口に立った」

 叶空が言った。褒め言葉みたいに言わない。事実として置く。

 咲希は視線を上げ、街灯の光の下で、彼の横顔を見た。昼間、列の前で頭を下げた時と同じ横顔。汗の筋だけが、もうない。


 「……私、最初に会った時、勢いだけの人だって思った」

 咲希は、言葉を選んで、でも逃げずに言った。

 「紙ナプキンに走り書きして、図まで描いて。面白いけど、あとで困るのは現場だって、決めつけた」

 叶空は笑った。否定の笑いじゃない。

 「俺も、そう見えると思う」

 「でも今日、あなたが私の分まで頭を下げたでしょ。あれ、勢いじゃなくて……守り方だった」

 咲希は喉の奥が熱くなりそうで、もう一度、水を飲んだ。冷たいのに、熱い。


 「表面だけで決めてたのは、私のほう」

 咲希が言い切ると、叶空は少しだけ肩の力を抜いた。

 「今は?」

 「……今は、ちゃんと見てる。入口に立つ背中とか、手の震えとか」

 咲希が言うと、叶空は短く息を吐いた。笑いとため息の間みたいな音。

 「そっか。じゃあ、俺も言う」

 叶空は咲希を見て、言葉をまっすぐ置いた。

 「今の咲希は、ちゃんと見てる。だから、入口で止まっても、大丈夫」


 咲希は、その言い方が嬉しかった。励ますための大きい言葉じゃない。今日の現実のサイズの言葉。

 ベンチの横を、夜の自転車が一台、音を立てずに通り過ぎる。商店街の明かりが遠くで揺れ、風鈴の音がどこかで一つ鳴った。


 「……ねえ。あの店、閉めた日。私、笑ってたんだ。似合わない笑顔で」

 咲希は自分でも意外なくらい、はっきり言えた。

 「泣くと迷惑だと思って。大丈夫って言えば、家族が動けると思って。……今日と同じ」

 叶空はすぐには答えなかった。答えを探す沈黙じゃない。咲希の言葉が自分の中で落ちるのを待つ沈黙。


 「似合わない笑顔って、守るための形なんだな」

 ようやく、叶空が言った。

 咲希は首を振りかけて、途中で止めた。違うとも言えない。正しいとも言えない。

 「……守りたいなら、入口に立つ方がいいのかも」

 ぽつりと出た言葉に、叶空の目が少しだけ笑った。


 「じゃあ、次は一緒に立とう。入口に」

 その「一緒に」が、軽いのに、軽くない。重たい約束じゃないのに、足元が地面に吸い付くみたいに現実だった。


 咲希は立ち上がり、ベンチの背を一度だけ手で押した。体の中の乱れを、そこへ預けるみたいに。

 「明日、また現場、見に行く?」

 「行く。入口の掲示、曲がってたら直す」

 「曲がってたの、見てたの」

 「見てた。俺、入口担当」

 「勝手に担当決めないで」

 「じゃあ、咲希も。入口担当」

 「……それなら、いい」


 二人で歩き出すと、商店街の匂いはもう薄くなっていた。代わりに、夜の空気が、少しだけ涼しい。

 咲希は自分の手首に残る気配を見つめた。香りじゃない。今日の言葉の残り香。

 それを、消さずに持って帰ってもいい気がした。



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