第16話 似合わない笑顔
九月一日、午前九時十二分。咲希のデスクの上には、二種類の原稿が並んでいた。
ひとつは、入口の掲示を「数量限定」とはっきり書いた最新版。もうひとつは、発売前の勢いのまま、「本日から」とだけ告げる古い版だ。
どちらも白い紙で、似たフォントで、似た余白。違いは、ほんの数行。ほんの数行が、現場の一日を変える。
咲希はマウスを握ったまま、画面を見つめていた。プリンタの匂いが微かにして、社内の空気は冷えたままなのに、首筋だけ汗がにじむ。
「送信……完了」
小さく呟いて、息を吐いた瞬間。
スマホが震えた。店長の番号。咲希は一拍遅れて出た。
「もしもし、咲希です」
『……貼ってある掲示、違う。お客さまが「昨日と話が違う」って。列、また伸びてる』
咲希の胸の奥が、冷たい水に落ちたみたいに沈んだ。
「え……どの掲示ですか」
『入口の。限定って書いてない。昨日は限定って言えたのに、今日は「今日から」って……』
咲希は画面の送信履歴を開き、添付ファイル名を見た。見覚えのある、あまりに短い文字列。
古い版だ。古い版を、今朝、送った。
指先が白くなるほど机の端を握り、咲希は声を絞った。
「……すぐ行きます。貼り替え、持って行きます。申し訳ありません」
電話を切ったあと、咲希は笑ってしまいそうになった。笑えないのに。勝手に頬が上がりかけて、すぐ落ちる。
机の引き出しから予備の掲示を掴み、マーカーを放り込み、バッグの肩紐を引っ張った。華奈恵に声をかける余裕もないと思ったが、足が勝手に彼女の席の前で止まった。
「華奈恵、入口掲示……私、古い版送った。貼り替え、今から行く」
華奈恵はキーボードから目を離さずに言う。
「誤送信。了解。全店舗の掲示データ、差し替える。送信先リスト、今出す」
「……ごめん」
「謝罪は現場で。今は手。走って」
その一言で、咲希は走れた。駅までの道の熱が、昼の顔に近い。地下鉄のホームで自販機の光が滲む。電車の窓に映った自分の口元が、笑っているようで笑っていない。
似合わない。咲希は小さく歯を噛み、目線を落とした。
駅前商店街は、九月に入ってもまだ夏の匂いが残っていた。日傘の白が揺れ、アーケードの外側だけが眩しい。
カフェの前に着くと、列は昨日より短いはずなのに、空気が尖っていた。入口の掲示を覗き込む人がいて、眉が寄る。
「……今日から、って書いてある」
「じゃあ、昨日も今日もあるってことじゃないの?」
「限定って言われたのに」
咲希は掲示の前に立ち、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。掲示が古い版になっていました。今すぐ貼り替えます」
言いながら、口角を上げようとした。空気を丸くする癖が出る。でも、頬が固い。笑顔の形だけが浮いて、余計に目立つ。
店長が裏口から飛び出してきた。目が赤い。怒っているのか、必死なのか、どっちにも見える。
「咲希さん、今朝から説明が二転三転で……スタッフが、持たない」
「……すみません。全部、私の——」
言い切る前に、外から一段明るい声が被った。
「すみません! こちらの連絡が行き届きませんでした!」
叶空が、列の前に出てきた。息が上がっている。走ってきたのが分かる。彼は、咲希より深く頭を下げた。
「本日分は数量が決まっています。並んでくださった方に無駄足をさせないために、入口で先にお伝えします。いま、掲示も直します」
列の先頭の男性が、「じゃあ何杯なんだ」と声を荒げた。店長の肩が跳ねる。咲希は口を開きかけたが、言葉が喉で固まった。
叶空は笑って、でも笑いでごまかさず、手のひらを上に向けた。
「いま、店長さんと確認します。暑いので、先に日陰に詰めてもらっていいですか。待機線、こちら。水分、ここで一回、しのぎましょう」
「暑さをしのぐ技」が、唐突に現実へ落ちる。列の中から、誰かが小さく笑った。尖っていた空気に、ほんの一滴だけ水が落ちたみたいに、ひびが入る。
叶空は店長へ目線を投げ、咲希へは背中で合図をした。今は、貼り替え。言い訳は後。
咲希は掲示を剥がし、持ってきた最新版を貼った。手が震えて、テープの端が少し曲がる。すぐ直す。曲がりは、現場を余計に不安にさせる。
裏で店長が杯数の見込みを言い、叶空が列へ短く伝える。悦章がいつの間にか現れていて、待機線の位置を靴先で整えた。
「入口の説明、短く。『本日分は数量限定』。それ以外、言うな」
短い声。短いから、刺さる。刺さるから、効く。
店内の流れが、ゆっくり戻り始めた。スタッフの肩の高さが少し下がる。咲希はバックヤードへ入り、膝の力が抜けそうになるのを堪えた。
そこへ、華奈恵からメッセージが来た。
『全店舗へ差し替え送信済み。掲示の回収手順も添付。今から電話フォロー入れる』
咲希は返信した。短く。
『ありがとう。私のミス。次は絶対しない』
スマホをしまった瞬間、目の奥が熱くなった。泣くのは後。今は、笑うべきでもない。呼吸だけ整える。
咲希が水を飲もうとすると、叶空が横にしゃがみ、冷えたペットボトルを差し出した。無言。置くのではなく、手渡しだった。
咲希は受け取り、キャップを回した。指がまだ震えている。
「……ごめん。私、笑ってた。おかしいよね。こんな時に」
叶空は首を振った。汗が頬を伝っている。さっきまで外で頭を下げていた顔だ。
「笑おうとしただけ。守ろうとしたんだろ。……失敗した人ほど、次に強い」
言い切って、彼は自分の言葉に少し照れたのか、視線を逸らした。強い言葉を吐いたのに、肩はほんの少しだけ落ちている。
その落ち方に、咲希は気づいた。叶空の前のめりは、格好つけたいからじゃない。誰かの矢面に立って、背中を守るための癖だ。
叶空は、咲希の代わりに頭を下げた時、指先を握っていた。怯えを隠すみたいに。なのに、声だけは明るく出した。
咲希は自分の胸の奥で、何かが形を変えるのを感じた。勢いだけだと思っていた人は、勢いで人を隠していた。
「……次は、強くなる。強がりじゃなくて」
咲希がそう言うと、叶空は小さく笑った。
「うん。強くなる前に、まず、息。息をしのぐ技」
「それ、技なの」
「技。俺の得意分野」
咲希はやっと、ちゃんと笑えた気がした。似合わない笑顔じゃなく、今ここにある呼吸の形の笑い。
ノートを開き、余白に一行だけ書いた。
“笑顔は、守れた時に出す”
その下に、さっき浮かびかけた言葉——“似合わない笑顔”——を書いて、線を引いて消した。




