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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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第14話 君だけを見つめてた、を置く場所

 八月二十八日、午前十時二十五分。咲希のデスクの上には、店頭POPのラフが三枚並んでいた。色味は同じ桃。写真の角度だけが違う。その下に添える短い一文を、咲希は鉛筆で書いては消し、書いては消す。


 「数量限定」「ひんやり」「香り」――全部、正しい。けれど、正しいだけだと、どこにも引っかからない。


 プリンターから吐き出された試し刷りを持って、華奈恵が通りかかった。彼女は紙の端を指で揃えてから目を落とす。咲希が指先で押さえている一行の空白に、すぐ気づいた。


 「今日の議題、そこ?」

 「うん。最後の一文。……また出てきた」


 咲希は三枚目のラフの隅を示した。メモ欄に、薄いグレーで書かれた文字。


 「君だけを見つめてた」


 口に出した瞬間、自分の体温が一段上がるのが分かった。仕事の文字のはずなのに、私信みたいに聞こえる。店頭で、知らない人の前で掲げるには、近すぎる。


 「恋愛押しに見える。駅前、通勤の人も多いし。『買って』より先に、恥ずかしくさせたくない」

 「……誰が書いた?」

 「叶空」


 咲希が言うと、華奈恵は紙を返し、二秒だけ沈黙した。すぐに否定も肯定もしない沈黙。咲希はその間に、自分がまた“決めつけ”に寄っていくのを感じて、鉛筆を置いた。


 「午後、店で合わせる。そこで止めるつもり」

 「止めるなら、止め方も用意しときなよ。代案、ある?」

 「……まだ」


 華奈恵は小さく息を吐き、スケジュール表を片手でめくった。紙が乾いた音を立てる。彼女の指は、昼休みの枠に線を引き、空白を作り直した。


 「じゃあ、午後の十分、私も入る。悦章も巻き込めるなら、巻き込む。可か不可かを先に取らないと、発売週に揉める」

 「……ありがとう」

 「礼は、あと。とりあえず、文章、二つ用意して。『恋』じゃない言い方と、香りの言い方。どっちも短く」


 咲希は頷き、ノートを開いた。短い言葉ほど、怖い。第十話で思い知ったばかりだ。それでも、怖さの前で止まるのは、もう少しだけ先でいい。


 昼をまたいで、咲希たちは駅前の店舗へ向かった。外はまだ夏の色で、日差しが高い。商店街のアーケードの下だけが、別の季節みたいに薄暗い。


 バックヤードの狭い机に、叶空がラフを並べていた。店長が横で頷き、スタッフの子が氷を運びながら耳だけを傾けている。叶空は紙ナプキンを一枚引き寄せ、いつものように線を引き始めた。書き出しが速い。迷いがないように見えるのに、線の途中で止まり、書き直す。


 「今日、POPの一文を決めたい」

 叶空が言い、咲希を見た。

 「咲希、昨日の更新、ありがとう。……で、これ」


 彼が指さしたのは、例の一行だった。咲希は思わず肩に力が入る。華奈恵が先に、紙を机に置いた。置き方がまっすぐで、言葉が逃げない。


 「これ、入れる案、また?」

 「うん。……嫌?」

 叶空の問いが、軽くも重くもない温度で落ちる。咲希は息を整えてから、言葉を選んだ。


 「嫌っていうより、店頭で掲げるには距離が近い。恋愛の告白みたいに見える。ピンクフロストを売るのに、別の意味が先に立つのが怖い」

 「告白……ああ。そう見える人、いるか」

 叶空は頷き、すぐにホワイトボードに目をやった。逃げたのではなく、頭の中の整理を、目に見える形に落とし込む仕草だった。


 「でも、俺は、商品に向けて書いたんじゃない」

 マーカーが止まる。叶空は咲希の方を向いた。

 「背中を押したい人に向けた言葉。暑さで、毎日が同じに見えて、でも、本当は、ひとつずつ終わっていく。……そういう時に、誰かの視線って、救いになるだろ」


 咲希の中で、言葉が一瞬だけ途切れた。


 閉店の夜。蛍光灯の白い光。シャッターが降りる音。床に残る甘い匂い。誰も見ていないと思っていた自分の背中に、もしあの時、誰かの目があったら――。


 咲希は視線を落とした。机の角に、店の伝票が積まれている。現実の紙。現実の数字。現実の、匂い。


 「……分かる。でも、買いに来た人に押しつけたくない」

 「押しつけない。だから、位置を置く。大きくしない。主役にしない」


 叶空はそう言って、紙の隅に小さく四角を描いた。端に寄せた枠。そこに文字が入る場所を、指先でトントンと叩く。


 「ここ。目に入った人だけが拾うくらい」

 「拾う人、いるかな」

 「いる。……俺が、拾った側だから」


 その言い方が、妙に具体で、咲希は胸の奥のどこかが反射的に痛んだ。叶空はその痛みを覗き込もうとしない。覗き込まずに、ただ、机の上の紙の位置を少しだけずらした。


 華奈恵が、咲希のノートを指で叩いた。

 「代案も見せて。比較しないと、悦章が動かない」


 咲希は用意してきた二つの短文を差し出した。

 「“記憶に残る香り”と、“五つ目の季節へ”」

 叶空は読んで、口角を少しだけ上げた。笑った、というより、肩の力が抜けた顔。


 「どっちも、いい。だけど、『君だけを見つめてた』は……俺の中では、香りより先にある」

 「……叶空の中の話だよね」

 「そう。でも、咲希の中にも、たぶんある」


 言い切られたわけじゃない。断定する声じゃない。ただ、咲希が黙った時、葉のない枝に残った水滴みたいに、言葉が落ちないままそこに留まった。


 その時、バックヤードの扉が開いて、悦章が入ってきた。手には、いつものように印刷した規定の束。赤ペンも挟まっている。


 「結論は」

 短い。咲希は紙を差し出し、華奈恵が言った。

 「この一文の扱いで迷ってます。恋愛に見えるリスクと、押しつけない配置の案」


 悦章は紙を受け取り、目だけで一周させた。赤ペンが動く。線が引かれる。咲希の胃がきゅっと縮む。


 「“君だけを見つめてた”。単体で大きいのは不可」

 咲希の肩が一瞬だけ上がる。

 「ただし――」


 悦章は二枚目の案を指で押さえた。華奈恵が持ってきた、隅に置いた小さな枠。フォントを細くし、主文を「ピンクフロスト 五つ目の季節へ」に寄せ、問題の一文は“注釈”の扱いになっている。


 「距離がある。主旨が商品から外れていない。店頭で誤解が起きにくい。……なら可」

 「可、出た」

 華奈恵が小さく言い、すぐにスケジュール表にメモを入れた。叶空はホッとした顔をして、またホワイトボードに向き直る。


 「じゃあ、ここに置く。拾う人だけ拾う。拾わない人は、ピンクフロストだけ持って帰る」


 スタッフの子が、ちょうど氷の入ったバケツを運び終え、紙を覗き込んだ。

 「あの、これって……誰かのこと、ですか」

 叶空は一拍置いてから、真面目に答えた。

 「“今日を頑張ってる人”のこと」

 スタッフの子は「それなら、いいかも」と笑った。笑い方が、軽くて、でも、背中を叩くほど強くない。


 咲希は机の上の紙を見た。大きな文字の下に、小さな枠。そこに置かれた短い一行。


 近すぎる言葉は、人を傷つける。遠すぎる言葉は、届かない。

 その間の距離を、フォントと余白と位置で作る。現実の手つきで、現実の気持ちを守る。


 咲希はペンを握り直した。胸の奥に残る甘い匂いが、さっきより少しだけ、息の形に寄り添っている気がした。


 「……置こう。ここに。置く場所、決まった」



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