第13話 閉店の夜の匂い
八月二十七日、午後七時十分。更新した店頭POPのデータを送ったあと、咲希は紙の見本を数枚だけ封筒に入れて、エレベーターを降りた。外へ出ると、夕方のはずの空気がまだ熱く、ビルの間を抜ける風もぬるい。
駅前商店街の店舗には、叶空が先に着いていた。入口の横で腕時計を見ていたのに、咲希が近づくと、見ていないふりをして手を振る。
「間に合った。今日、バックヤードに貼る手順も見たいって」
「悦章さん、来てる?」
「さっき入った。赤ペン持ってた」
その言い方が妙に想像できて、咲希は口の端だけ動かした。
店内は客が途切れたタイミングで、スタッフが床を拭き、氷の機械の音だけが響いていた。バックヤードの扉が開くと、冷気に混じって、淡い桃とミルクの匂いが濃くなる。香りは目に見えないのに、まっすぐ胸の奥へ押し込んでくる。
咲希は封筒を抱え直した。指先が少しだけ痺れる。視界の端で、ステンレスの棚が白く光り、床の排水溝が黒く口を開けている。
「この香り、強いね」
悦章の声が短く落ちた。咲希は返事をしようとして、舌が乾いていることに気づく。
叶空が手順書の貼り位置を確認し、スタッフの肩越しに「ここ、見える?」と尋ねる。咲希は頷きながらも、匂いの奥に別の音が混ざってくるのを止められなかった。
鉄が擦れる重たい音。シャッターの鎖が引かれる音。甘い匂いと、冷蔵庫のモーターの唸り。
――閉店の夜。
小さな氷菓店の蛍光灯。夏の終わりの湿った空気。溶け残ったシロップの甘さが床に残り、父が最後にシャッターを下ろす。金属の波が降りてくるたび、もう戻らない、と喉の奥が固くなる。
咲希は、いまのバックヤードで、同じように息が浅くなるのを感じた。
「咲希?」
叶空が名前を呼んだ。声は大きくない。けれど、耳に届いた瞬間だけ、現在の床の冷たさが戻ってくる。
咲希は一度、封筒を胸に押し当てた。
「……ちょっと、外、行く」
彼女は悦章に短く会釈し、バックヤードを出た。カウンター脇の扉を押すと、店の外の熱気がまとわりつく。冷房と外気の境目で、肌が一瞬だけざらついた。
追ってきた足音が隣に並ぶ。叶空は何も言わず、歩幅だけ合わせた。
商店街のアーケードを抜けると、路地の影が長く伸びている。自転車が一台、ゆっくり通り過ぎ、遠くで子どもの笑い声が弾んだ。咲希は息を吸い直そうとして、胸の奥が詰まるのを感じ、言葉を先に出した。
「思い出すと……胸が、苦しい」
叶空は立ち止まらずに頷いた。横顔だけが、街灯の光で淡く切り取られる。
「無理に掘らなくていい」
それだけ言って、彼は自分のポケットからペットボトルを取り出した。冷えた水滴が指に付いている。
「これ。さっき、買いすぎた」
咲希は受け取った。口をつける前に、ボトルの冷たさを掌で確かめる。冷たさが、呼吸の形を少し整えてくれた。
二人は黙ったまま、駅前へ戻る方向に歩いた。咲希の視線は看板の文字ではなく、路面の白線の途切れ目を追う。叶空は無理に話題を作らず、ただ、咲希のペースが戻るのを待っている。
その沈黙が、責められていない沈黙だと分かった瞬間、咲希の肩が少し落ちた。
駅前の角に、自販機が並んでいる。叶空が小銭を入れ、何の気なしにボタンを押した。
「……あれ」
ガタン、と音がして、二本落ちた。
「当たり、ってやつ?」
叶空は缶を二本抱え、困った顔で咲希を見る。咲希は思わず笑ってしまい、笑った拍子に息が深く入った。
「困るね。荷物、増える」
「増えたぶん、配る。……咲希、どっち」
差し出された缶は、桃味と、なぜかコーンスープ。夏の自販機のくせに、ぬけぬけと書いてある。
咲希はコーンスープを指さしてしまい、二人の目が合った。
「そっち?」
「……いま、塩気がほしい気がした」
言い訳が自分でもおかしくて、咲希はもう一度笑った。
缶の口を開けると、温度は冷たいのに、匂いはとうもろこしで、現実味が強すぎる。咲希は喉を鳴らし、目尻を指でこすった。
叶空は桃味を開け、ひと口飲んでから、こちらを見ないまま言った。
「さっきの匂い、きつかった?」
咲希はコーンスープの缶を持ち上げ、ラベルの文字を一つずつ読むようにして答えた。
「……昔、家の店がね。氷菓の。終わるとき、ああいう甘い匂いが残ってて」
言葉は短く、尻尾は切れた。それでも、叶空は「そっか」とだけ返し、次の言葉を押し込まなかった。
駅へ向かう人波が増えていく。咲希は缶の底の冷たさを指で確かめ、もう一度息を吸った。
甘い匂いは消えない。けれど、鉄の音だけで埋め尽くされる感じではなくなっている。
咲希は隣を歩く足音を聞きながら、封筒の中の紙の角を思い浮かべた。紙の上の言葉は、いま、誰かの手を守るためにある。
そのことだけを、いまは握っていようと思った。




