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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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12/20

第12話 誰のための言葉か

 八月二十七日、午前十時二十分。制作会社の窓に貼られた遮熱フィルムが、外の光を薄く曇らせていた。咲希はデスクの引き出しから赤鉛筆を取り出し、書類の端を揃える。昨日、商店街で見た赤い付箋の山が、まだ指先に残っている気がした。


  モニターには、店頭POPの初稿が開かれている。

  『記憶に残る香りで、昔の夏へ。』

  行を見た瞬間、咲希の肩がわずかに上がった。香りに引っ張られる。飲む人の顔が、書き手の都合で勝手に過去へ連れていかれる。そう思うと、喉の奥が乾く。


  咲希はキーボードに触れかけて、いったん手を離した。机の角に置いたメモ帳を開き、昨日書いた「禁止より、許可」の横に、新しく一行だけ足す。

  「誰のため」


  社内チャットの通知が鳴った。華奈恵からの確認依頼で、添付はリスク表の更新。列の見出しが短くなっていて、余計な言葉が消されている。咲希は一つずつ目を追い、削られた行間に、現場の疲れが透けて見える気がした。

  咲希は返信欄に、「ありがとう」の代わりに数字を一つ添える。

  「試飲導線の滞留、三十秒増えると列が割れます。椅子の位置、もう一案ください」

  送信してから、息を吐いた。自分の言葉が、誰かの手を動かす。なら、もっと慎重でいい。


  そこへ、叶空から動画が一件届いた。タイトルはなく、短い。

  咲希は音量を落とし、再生ボタンを押した。


  画面の中で、バックヤードのスタッフがピンクフロストを作っている。ブレンダーの音に合わせて肩が揺れ、カップに注ぐ瞬間、桃色の氷が少しこぼれた。誰かが「あっ」と声を上げ、すぐに布巾が飛んでくる。店長が指で丸を作って笑い、隣の新人が、力を入れすぎてストローを折ってしまい、皆で一瞬固まってから、同時に笑った。


  咲希は、画面の端に映る手元ばかりを見ていた。爪の短さ、指の動きの速さ。氷を扱う指先が、熱の中で働いている。

  動画が終わると同時に、メッセージが一行だけ続いた。

  「これ、見てほしくて。元気になるのが大事だよね」


  咲希は椅子の背にもたれ、目を閉じた。店頭で飲む人の涼しい顔だけじゃない。作る人の笑い声が、ちゃんとここにある。

  胸の奥で、何かがほどける音がした。香りに頼って売るのではなく、今そこにいる手と息に、言葉を添える。


  咲希は、初稿の文章をすべて選択し、削除した。白い画面が一瞬だけ眩しい。

  代わりに、ゆっくり打つ。


  『一口で、ひと息。

  香りは、そっと。選べます。』


  次の行に、小さく注意書きを入れる。

  『混雑時は涼しい席へご案内します。スタッフへ遠慮なく声をかけてください。』


  文字が「売り物」の顔をやめて、「案内」の顔になる。読む人が自分の足で選べるように、余白を残す。

  咲希は、印刷プレビューを開き、紙の上に落ちる文字の重さを確かめた。強すぎない。薄すぎない。背中を押すというより、肩に手を置く距離。


  机の上の小瓶が視界の端に入る。桃の香り。昔の夜のシャッターの音が一瞬だけ近づいて、すぐに離れた。

  咲希は、そのままにしておく。引き戻さない。閉じ込めない。



  印刷機の前で、紙が一枚だけ斜めに噛んだ。咲希は慌てて引っ張らず、カバーを開けて、熱いローラーを避けながら紙をそっと抜く。薄い桃色のインクの匂いが、紙から立ち上がった。

  そのとき、プリンター画面の広告欄に、過去に検索したらしい「恋愛コピー集」が小さく表示されていた。

  『君だけを見つめてた』

  咲希は反射で画面を閉じ、誰も見ていないのに頬が熱くなる。昨日の赤い付箋より、自分の癖の方が厄介だと思ってしまい、笑いそうになって口を噛んだ。


  午後四時三十分。会議室の白いテーブルに、咲希は新しい原稿を二部並べた。華奈恵が入ってくると、鞄から定規を取り出し、紙の余白を測るみたいに視線を滑らせる。

  「この注意書き、行数増えた分、文字を小さくすると読めない」

  華奈恵はそう言って、ボールペンで二カ所だけ丸をつけた。削るのではなく、置き方を決める丸。

  咲希は頷き、別案のレイアウトを出す。大きい文字で一行、小さい文字で二行。椅子の位置の図は、ピクトで。

  華奈恵は一瞬だけ口を閉じ、次に、タブレットで計算表を開いた。

  「なら、滞留が減る。列の伸びも抑えられる。……この文、残していい」

  許可の線が一つ増えた気がして、咲希は胸の奥を軽く叩いた。


  オンライン会議の画面に、悦章が映る。背景は店舗のバックヤードで、段ボールが整列している。

  悦章は原稿を手に取ると、赤ペンを置き、青ペンだけを持った。

  「『昔の夏へ』は消したな」

  「はい。飲む人が、過去に連れていかれないように」

  咲希がそう言うと、悦章は短く頷いた。視線が注意書きへ移る。

  「この『声をかけてください』。現場が困らない表現だ。可」

  悦章は、青で一本線を引いた。たった一本の線が、画面越しにまっすぐ届く。


  会議が終わり、咲希は原稿を胸に抱えて廊下を歩いた。ガラス越しに見える外はまだ白く、夕方の気配が遠い。

  それでも、紙の上の言葉は、誰かの手の動きを想像できる形になっている。


  午後の打ち合わせに向けて、原稿の束をクリップで留める。最後のページの余白に、咲希は小さく書き足した。

  「読む人。飲む人。作る人。」


  送信ボタンを押す前に、叶空へ短く返した。

  「動画、ありがとう。言葉、変えます」

  すぐに既読がつき、返事は一行だけ。

  「うん。楽しさ、守ろう」


  咲希はマグカップの冷めた水を飲み干し、立ち上がった。暑さは変わらない。けれど、書いた文字の行先が、少しだけ具体になった気がした。



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