表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/20

第11話 線を引く人の、手の出し方

 八月二十六日、午後一時。駅前商店街のアーケードは、影の下でも熱気がこもり、風鈴の音だけが涼しい顔で転がっていた。

  咲希はカフェの裏口に着くと、胸ポケットの名札を見下ろし、深呼吸を一つ。扉を開けた瞬間、焙煎の匂いと、桃の甘さが一緒に押し寄せた。


  バックヤードの机には、クリアファイルが三段積まれている。上から順に、赤い付箋がびっしり。

  悦章が黙ってファイルを開く。罫線の上に、さらに赤ペンの線が引かれている。禁の文字が、小さく、何度も繰り返されていた。


  「これ、全部……?」

  店長が言いかけて、口を閉じた。奥で仕込みをしていたスタッフが、ぴたりと手を止める。誰も言葉を選ぶ時間だけが長い。


  悦章はページをめくり、指先で一か所を叩いた。

  「氷の扱いは危ない。温度が上がったものは戻さない。カップの外側が濡れていたら、床を拭く。追加の動線は作らない。香りの演出は、火気厳禁区域ではしない」

  一つ一つは正しい。けれど、赤線が増えるほど、スタッフの手がどこに置けばいいのか分からなくなる。


  店長は付箋の束を指先でつまみ、そっと机に戻した。

  「すみません、質問してもいいですか。『追加の動線は作らない』って、これ……お客さんが並んだら、試飲の人は、どこに立てば……」

  悦章は答える前に、バックヤードのドアを少し開けて、店内を覗いた。レジ前の列を想像するように目だけ動かす。

  「……立たない」

  店長が瞬きを二回して、笑うタイミングを失った。


  咲希は喉の奥で「そっか」と呟きそうになって、飲み込んだ。否定したくなる衝動を、質問に変える。

  「立たない場合、試飲はどうやって成立させますか。飲みたい人が勝手に受け取る形ですか」

  悦章は、机の上の図面を裏返し、白い面に四角を一つ描いた。

  「ここに置く。手を伸ばした人だけ取る。声かけは最小。床が濡れたら即停止」


  叶空が小さく息を吐いた。

  「置き場、どの高さがいいです? 子どもが触れない高さで、でも、背の低い人が無理しない」

  悦章は言葉を返さず、手元の定規で棚の高さを測り始めた。数字を口にしないのに、周りは勝手に静かになる。スタッフが二人、棚の前で腕を伸ばし、届く範囲を確かめた。


  そこへ、氷を運んでいたスタッフが、冷凍庫の前で足を止めた。

  「すみません……『氷の袋は片手で持たない』って書いてあるから、両手で持ったら、ドアが閉められなくて」

  言い終わる前に、袋の角から水滴が落ち、床に丸い跡ができた。


  店長が慌てて雑巾を掴む。けれど、赤い付箋の中に「雑巾は所定の位置に戻す」と書いてあり、雑巾置き場まで戻ってから拭くべきなのか、手が止まる。

  その一瞬、悦章が黙って一歩出た。床に落ちる水滴の下へ、空いていたトレーを滑り込ませる。トレーの端を指で押さえ、落ちる滴を受ける。

  「今は、これで受ける」

  低い声だった。命令ではなく、手の置き方の提示だった。


  咲希の胸の奥が、かすかに揺れた。線を引く人は、線の外に手を伸ばさないと思い込んでいた。けれど、悦章は必要な瞬間だけ、黙って手を出す。


  咲希はメモ帳を開き、赤ではなく、青のペンを取り出した。

  「禁止の線を増やすのは、事故を減らすためですよね」

  悦章は頷くだけ。

  「なら、同じ枚数くらい、“やっていいこと”を書き足しませんか。迷う時間が一番危ないから」


  叶空が横で、口角だけ動かした。声は出さない。咲希の言葉が、ちゃんと机の上に着地するかを見守るように。


  悦章は一拍置いて、ファイルを閉じた。

  「具体は」

  短い。けれど拒まれてはいない。


  咲希は机の上の手順書を引き寄せ、青ペンで番号を振った。

  「たとえば、結露が出たら“この布をここに置く”。氷の取り出しは“この向きで、ここまで”。手袋は全面禁止じゃなくて、“この作業だけ可”にする。その代わり、替えの手袋をこの棚に常備する」

  店長が、思わず「それなら回ります」と漏らした。


  簡単な動作確認をしよう、と叶空が言った。店長が一人、客役になってレジ前に立つ。もう一人が試飲担当、咲希はメモを握り、悦章は腕時計に視線を落とした。


  「いらっしゃいませ」

  客役の店長が笑って前に出る。試飲担当がカップを差し出そうとして、赤い付箋の「声かけ最小」を思い出し、口を閉じる。差し出す手が宙で止まる。

  列ができたら、この止まり方が連鎖する。咲希は、今の空気の固さをそのまま言葉にしないで、青ペンを走らせた。


  「ここで、許可の線を一つ入れます」

  咲希はバックヤードの壁に貼る想定で、短い文を三つ書いた。


  「一、試飲の声かけは『暑いですね』の一言まで可」

  「二、床が濡れたら、雑巾はその場に置いたまま拭いて可」

  「三、氷の袋は、片手禁止。ただし、ドアを押さえる補助者がいるなら可」


  叶空が「分かりやすい」と言って、文字の横に小さな丸印を付けた。悦章は黙って見ていたが、三つ目の文にだけ、赤ペンで小さく追記した。

  「補助者は、片足を通路に出さない」

  通路に足を出すと、誰かが躓く。言われなくても分かるのに、線が引かれると、逆に安心できる。


  もう一度、動作確認。

  試飲担当が店長にカップを見せ、「暑いですね」とだけ言う。店長が笑って受け取り、一歩横へ。床に落ちた水滴は、その場で雑巾が拭く。氷袋は補助者がドアを押さえ、通路を空けたまま運べる。

  たった数分で、動きがほどけた。


  悦章が腕時計を見て、頷いた。

  「回る」


  悦章は立ち上がり、バックヤードの床を見渡した。足元の通路幅、ゴミ箱の位置、冷凍庫の開き方。目で測って、何も言わずに歩く。

  咲希と叶空も後ろをついて回った。スタッフが一人、手を挙げる。

  「試飲のカップ、ここに積むと落ちるんです。熱で台が少し柔らかくなって」

  叶空がしゃがみ込み、台の縁を指で押した。ふに、と沈む。

  「板、噛ませましょう。コンビニの段ボールでも、硬いのがある」

  店長が笑って、肩をすくめた。

  「うち、今日届いたばかりの豆の箱なら、やたら硬いです」


  悦章がその箱を指さし、初めて声に温度が乗った。

  「それを使う。固定する。テープは剥がれにくい種類」

  スタッフが「了解です」と返し、動き出す。たったそれだけで、空気が流れた。


  咲希はバックヤードの角で、香り見本の小瓶を見つけた。ふたに、細い字で「ピンクフロスト」とある。触れないまま、視線だけ置いて、息を整える。

  叶空が隣に来て、瓶の横に小さなカードをそっと置いた。青字で一行。

  「香りの近くに、飲み終わった人の手が休める場所」

  咲希は頷き、カードの余白に書き足した。

  「椅子一脚。冷たいおしぼりは、ここ」


  最後に、悦章が青ペンのページを見た。赤の付箋の山の中に、青の線が一本、まっすぐ通っている。

  悦章はファイルを閉じ、咲希の方を向いた。視線は短く、言葉はもっと短い。

  「助かった」


  咲希は、返事の代わりに一度だけ頭を下げた。

  外に出ると、アーケードの風鈴が鳴った。暑さは変わらないのに、胸の中の熱だけが少し引いた気がした。


  商店街の出口まで歩く途中、叶空が自販機で水を二本買い、一本を咲希に差し出した。ペットボトルの表面に、すぐに細かな水滴が浮かぶ。

  「さっきの、青ペンの三つ。助かりました」

  叶空はそう言って、蓋を開ける。咲希も蓋を回し、冷たい水を一口飲んだ。喉がやっと夏に追いつく。


  「助かった、って言われると……変な感じ」

  咲希は笑いそうになって、口角だけ動かした。

  叶空が視線を前に置いたまま言う。

  「線を引く人が、手を出した。あれ、店の人も安心したと思う」

  咲希は、先ほどのトレーを滑り込ませる手を思い出す。赤の付箋の山の中で、必要な瞬間だけ伸びた手。


  会社に戻ったら、また数字も締切も来る。それでも、今日の青い線は消えない気がした。

  咲希は胸ポケットの名札を指でなぞり、メモ帳の端に小さく書く。

  「禁止より、許可。迷う時間を減らす」

  書いたあと、線を引いて消さなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ