第11話 線を引く人の、手の出し方
八月二十六日、午後一時。駅前商店街のアーケードは、影の下でも熱気がこもり、風鈴の音だけが涼しい顔で転がっていた。
咲希はカフェの裏口に着くと、胸ポケットの名札を見下ろし、深呼吸を一つ。扉を開けた瞬間、焙煎の匂いと、桃の甘さが一緒に押し寄せた。
バックヤードの机には、クリアファイルが三段積まれている。上から順に、赤い付箋がびっしり。
悦章が黙ってファイルを開く。罫線の上に、さらに赤ペンの線が引かれている。禁の文字が、小さく、何度も繰り返されていた。
「これ、全部……?」
店長が言いかけて、口を閉じた。奥で仕込みをしていたスタッフが、ぴたりと手を止める。誰も言葉を選ぶ時間だけが長い。
悦章はページをめくり、指先で一か所を叩いた。
「氷の扱いは危ない。温度が上がったものは戻さない。カップの外側が濡れていたら、床を拭く。追加の動線は作らない。香りの演出は、火気厳禁区域ではしない」
一つ一つは正しい。けれど、赤線が増えるほど、スタッフの手がどこに置けばいいのか分からなくなる。
店長は付箋の束を指先でつまみ、そっと机に戻した。
「すみません、質問してもいいですか。『追加の動線は作らない』って、これ……お客さんが並んだら、試飲の人は、どこに立てば……」
悦章は答える前に、バックヤードのドアを少し開けて、店内を覗いた。レジ前の列を想像するように目だけ動かす。
「……立たない」
店長が瞬きを二回して、笑うタイミングを失った。
咲希は喉の奥で「そっか」と呟きそうになって、飲み込んだ。否定したくなる衝動を、質問に変える。
「立たない場合、試飲はどうやって成立させますか。飲みたい人が勝手に受け取る形ですか」
悦章は、机の上の図面を裏返し、白い面に四角を一つ描いた。
「ここに置く。手を伸ばした人だけ取る。声かけは最小。床が濡れたら即停止」
叶空が小さく息を吐いた。
「置き場、どの高さがいいです? 子どもが触れない高さで、でも、背の低い人が無理しない」
悦章は言葉を返さず、手元の定規で棚の高さを測り始めた。数字を口にしないのに、周りは勝手に静かになる。スタッフが二人、棚の前で腕を伸ばし、届く範囲を確かめた。
そこへ、氷を運んでいたスタッフが、冷凍庫の前で足を止めた。
「すみません……『氷の袋は片手で持たない』って書いてあるから、両手で持ったら、ドアが閉められなくて」
言い終わる前に、袋の角から水滴が落ち、床に丸い跡ができた。
店長が慌てて雑巾を掴む。けれど、赤い付箋の中に「雑巾は所定の位置に戻す」と書いてあり、雑巾置き場まで戻ってから拭くべきなのか、手が止まる。
その一瞬、悦章が黙って一歩出た。床に落ちる水滴の下へ、空いていたトレーを滑り込ませる。トレーの端を指で押さえ、落ちる滴を受ける。
「今は、これで受ける」
低い声だった。命令ではなく、手の置き方の提示だった。
咲希の胸の奥が、かすかに揺れた。線を引く人は、線の外に手を伸ばさないと思い込んでいた。けれど、悦章は必要な瞬間だけ、黙って手を出す。
咲希はメモ帳を開き、赤ではなく、青のペンを取り出した。
「禁止の線を増やすのは、事故を減らすためですよね」
悦章は頷くだけ。
「なら、同じ枚数くらい、“やっていいこと”を書き足しませんか。迷う時間が一番危ないから」
叶空が横で、口角だけ動かした。声は出さない。咲希の言葉が、ちゃんと机の上に着地するかを見守るように。
悦章は一拍置いて、ファイルを閉じた。
「具体は」
短い。けれど拒まれてはいない。
咲希は机の上の手順書を引き寄せ、青ペンで番号を振った。
「たとえば、結露が出たら“この布をここに置く”。氷の取り出しは“この向きで、ここまで”。手袋は全面禁止じゃなくて、“この作業だけ可”にする。その代わり、替えの手袋をこの棚に常備する」
店長が、思わず「それなら回ります」と漏らした。
簡単な動作確認をしよう、と叶空が言った。店長が一人、客役になってレジ前に立つ。もう一人が試飲担当、咲希はメモを握り、悦章は腕時計に視線を落とした。
「いらっしゃいませ」
客役の店長が笑って前に出る。試飲担当がカップを差し出そうとして、赤い付箋の「声かけ最小」を思い出し、口を閉じる。差し出す手が宙で止まる。
列ができたら、この止まり方が連鎖する。咲希は、今の空気の固さをそのまま言葉にしないで、青ペンを走らせた。
「ここで、許可の線を一つ入れます」
咲希はバックヤードの壁に貼る想定で、短い文を三つ書いた。
「一、試飲の声かけは『暑いですね』の一言まで可」
「二、床が濡れたら、雑巾はその場に置いたまま拭いて可」
「三、氷の袋は、片手禁止。ただし、ドアを押さえる補助者がいるなら可」
叶空が「分かりやすい」と言って、文字の横に小さな丸印を付けた。悦章は黙って見ていたが、三つ目の文にだけ、赤ペンで小さく追記した。
「補助者は、片足を通路に出さない」
通路に足を出すと、誰かが躓く。言われなくても分かるのに、線が引かれると、逆に安心できる。
もう一度、動作確認。
試飲担当が店長にカップを見せ、「暑いですね」とだけ言う。店長が笑って受け取り、一歩横へ。床に落ちた水滴は、その場で雑巾が拭く。氷袋は補助者がドアを押さえ、通路を空けたまま運べる。
たった数分で、動きがほどけた。
悦章が腕時計を見て、頷いた。
「回る」
悦章は立ち上がり、バックヤードの床を見渡した。足元の通路幅、ゴミ箱の位置、冷凍庫の開き方。目で測って、何も言わずに歩く。
咲希と叶空も後ろをついて回った。スタッフが一人、手を挙げる。
「試飲のカップ、ここに積むと落ちるんです。熱で台が少し柔らかくなって」
叶空がしゃがみ込み、台の縁を指で押した。ふに、と沈む。
「板、噛ませましょう。コンビニの段ボールでも、硬いのがある」
店長が笑って、肩をすくめた。
「うち、今日届いたばかりの豆の箱なら、やたら硬いです」
悦章がその箱を指さし、初めて声に温度が乗った。
「それを使う。固定する。テープは剥がれにくい種類」
スタッフが「了解です」と返し、動き出す。たったそれだけで、空気が流れた。
咲希はバックヤードの角で、香り見本の小瓶を見つけた。ふたに、細い字で「ピンクフロスト」とある。触れないまま、視線だけ置いて、息を整える。
叶空が隣に来て、瓶の横に小さなカードをそっと置いた。青字で一行。
「香りの近くに、飲み終わった人の手が休める場所」
咲希は頷き、カードの余白に書き足した。
「椅子一脚。冷たいおしぼりは、ここ」
最後に、悦章が青ペンのページを見た。赤の付箋の山の中に、青の線が一本、まっすぐ通っている。
悦章はファイルを閉じ、咲希の方を向いた。視線は短く、言葉はもっと短い。
「助かった」
咲希は、返事の代わりに一度だけ頭を下げた。
外に出ると、アーケードの風鈴が鳴った。暑さは変わらないのに、胸の中の熱だけが少し引いた気がした。
商店街の出口まで歩く途中、叶空が自販機で水を二本買い、一本を咲希に差し出した。ペットボトルの表面に、すぐに細かな水滴が浮かぶ。
「さっきの、青ペンの三つ。助かりました」
叶空はそう言って、蓋を開ける。咲希も蓋を回し、冷たい水を一口飲んだ。喉がやっと夏に追いつく。
「助かった、って言われると……変な感じ」
咲希は笑いそうになって、口角だけ動かした。
叶空が視線を前に置いたまま言う。
「線を引く人が、手を出した。あれ、店の人も安心したと思う」
咲希は、先ほどのトレーを滑り込ませる手を思い出す。赤の付箋の山の中で、必要な瞬間だけ伸びた手。
会社に戻ったら、また数字も締切も来る。それでも、今日の青い線は消えない気がした。
咲希は胸ポケットの名札を指でなぞり、メモ帳の端に小さく書く。
「禁止より、許可。迷う時間を減らす」
書いたあと、線を引いて消さなかった。




