第10話 短いから、怖い
八月二十五日、午後九時十七分。制作会社のフロアは半分が消灯され、残っている島だけが白く浮いていた。プリンターの待機音と、空調の低い唸り。紙とトナーの匂いが混ざって、昼間とは別の顔をしている。
咲希の受信箱には、店長からの短い報告が並んでいた。
「明日も問い合わせ多そうです」「“いつ入荷しますか”が一番多いです」「列ができると近隣から苦情が出そうで……」
画面の文字が、胸の奥を軽く突く。怒鳴り声ではないのに、責任が重い。
隣のモニターには、華奈恵が残した段取り表が開きっぱなしだった。分単位で色が変わり、修正履歴が蜘蛛の巣みたいに残っている。
咲希はその表の端に、赤く「供給:安定まで告知抑制」と書かれた一行を見つけ、喉を鳴らした。
「“数量限定”は入れる。だけど、冷たさの楽しさまで削りたくない」
キーボードから指を離して呟くと、自分の声が空調に吸われていく。
向かいの席で、叶空が紙コップの氷をかき回した。さっき買ってきたコンビニの麦茶だ。氷が溶ける音が、やけに大きい。
「削るんじゃなくて、守る順番を変える。……今日はそれを、ちゃんとやれたよ」
軽い言い方なのに、咲希は胸の内を見透かされた気がして、笑えなかった。
「今日、店長さんの顔、見た?」
叶空が聞く。
咲希は頷く。バックヤードで“本日分終了”の札を出すとき、店長の頬が引きつっていたのを思い出す。
「見た。……あれ以上続けたら、誰かが倒れるって顔だった」
「うん。だから、正解」
叶空は断言して、すぐに「でも」と続けた。
「正解だけだと、続かない。続けるための言葉、作ろう」
机の端に、香り見本の小瓶がある。桃のやわらかい甘さの奥に、氷菓の冷たい金属みたいな匂いが潜んでいる。試験販売のバックヤードで一瞬嗅いだ残り香と同じだ。
咲希は蓋に触れかけて、指を止めた。
「ねえ、叶空さん」
呼んだ瞬間、言葉が喉に引っかかった。短い期間に賭けるのは怖い、と言ってしまったら、自分の弱さが形になる気がした。
叶空は椅子を回し、背もたれに肘を掛けた。
「うん」
咲希は視線を外し、モニターの余白を見つめた。
「……“五つ目の季節”って、短いって言ったよね。あの数週間に、全部を乗せるみたいな言い方。私、怖いんだ」
言い終えてから、舌の奥が苦くなった。言ったのは自分なのに、聞きたくなかった。
叶空は頷くでも否定するでもなく、机の上のメモを裏返した。紙の音が、静かな部屋の中心を作る。
「短いから、逃げ道がない。……だから、今やる」
言い切ったあと、そうだろ、みたいな顔はしなかった。咲希の目線に合わせる代わりに、画面の段落を指先でトントンと叩く。
「“五つ目の季節”って言葉、好き?」
突然の質問に、咲希は瞬きをした。
「……嫌いじゃない。だけど、怖い」
叶空は小さく笑って、指を上げた。
「じゃあ、説明を添えよう。“夏の終わりにだけ、ふっと温度が変わる数週間”って。短いのを、短いまま扱う」
短いまま。盛らない。誤魔化さない。咲希の胸の奥で、何かが少しだけ解けた。
咲希は小瓶を手に取り、そっと蓋を回した。
ふわり、と桃が立ち上がる。次の瞬間、甘い匂いの奥に、シャッターの鉄の冷たさが混じった。閉店の夜。子どもの頃、台の上に並べた氷菓が溶けていくのを、見ないふりした自分。
目の奥が、じわりと熱い。涙になる前の薄い膜が、視界を曇らせる。
咲希は慌てて蓋を閉めようとして、指が震えた。
叶空が立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音がした。咲希は身構えた。理由を聞かれる、掘られる、そう思った。
けれど叶空は、咲希の机には来ない。窓の前へ行き、ロックを外して、外気を入れた。
夜の風が、ほんの少しだけ涼しい。遠くの車の音と、交差点の信号の電子音が混ざって、夏の終わりが近いことを知らせる。
「……息、しやすい?」
叶空は背中のまま、そう聞いた。
咲希は小瓶を机に置き、両手を太ももに押しつけた。
「うん。……ありがとう」
声が掠れた。謝る代わりに、礼を言えたことが、少しだけ救いだった。
叶空は頷き、戻ってこない。代わりに、咲希のモニターを指差す。
「コピー、ここ。“数量限定”の後に、安心の一文を足す。『暑い日は店内席へご案内します』とか。今日は、できたんだから」
咲希は頷き、文章を選択した。
「“暑さをしのぐ技”の、言い方も変える」
咲希が言うと、叶空は口角を上げた。
「具体にする?」
「うん。『日陰の待機場所』『冷たいおしぼり』『氷の追加』。……書ける範囲で、嘘なく」
「それ、それ。守る言葉だ」
咲希はカーソルを動かし、言葉を入れ替える。短い季節の中で、今やれる範囲を増やす。怖さを消すんじゃない。怖さの隣に、手順と選択肢を置く。
窓から入る風が、紙の端を揺らした。
画面の一番下に、咲希は小さくメモを残した。
『短いから、丁寧に』




