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ピンクフロストと五つ目の季節  作者: 乾為天女


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第1話 紙ナプキンの落書き

 七月二十八日、朝八時四十五分。汐留寄りの制作会社の会議室は、冷房の風が机の角を撫でるだけで、窓の外はすでに白く揺れていた。

  咲希は資料の角を揃え、ホチキスの針の向きを指でなぞる。朝会の順番表に目を落とし、呼ばれる前に一度だけ深呼吸した。


  「駅前の新店、夏限定ドリンクの販促。担当、咲希ね」

  上司の声が短く落ちる。隣の席の華奈恵が、タブレットを開いたまま頷いた。目線はもう次の予定に移っている。


  会議が終わると同時に、咲希のスマホが震える。取引先から到着連絡。咲希は肩の力を抜き、資料一式を抱えてエレベーターに乗った。

  エントランスを出ると、道路の向こうで救急車が遠ざかる音がした。朝なのに暑い。いつもより早い季節の盛りが、ビルのガラスに貼りついている。


  打ち合わせ場所は、駅前商店街にできたばかりのカフェ店舗の二階。まだ看板のビニールが一部だけ残っていて、窓には「近日オープン」の紙が貼られている。階段を上がる途中、甘いミルクの匂いと、薄い桃の香りが混ざって鼻に触れた。


  二階の奥に、小さな会議スペースがある。カウンター越しに、エプロン姿の店長が「どうぞ」と頭を下げた。叶空も同じ角度で頭を下げ、帰りがけに使うらしい配膳台の位置まで確認している。

  咲希はその様子を見て、胸の奥でこっそり訂正した。

  ――勢いだけ、ではないかもしれない。


  会議スペースに通されると、先に来ていた叶空が立ち上がった。白いシャツの袖をひとつ折り、名刺を差し出す手は、急いでいないのに動きだけが軽い。

  「開発担当の叶空です。今日、紙が足りなくなるかもなんで」

  そう言うなり、彼はテーブルの端に置かれていた紙ナプキンを一枚つまみ、ペンを取り出した。


  咲希は一瞬だけ目を瞬く。メモ用紙は、こちらが持っている。ナプキンは、飲み物をこぼしたときのものだ。

  喉の奥まで出かけた判断を、咲希は飲み込んで、質問に変えた。

  「紙が足りなくなる、って、どういう意味ですか」


  叶空は笑って、ナプキンに大きく書いた。

  『暑さをしのぐ技教えます』

  文字は少し右上がりで、最後の「す」が跳ねている。

  「夏の限定って、味だけじゃ足りない気がして。買う理由と、待つ理由と、作る理由。三つまとめて作りたいんです」

  彼はナプキンの端に、丸と矢印を描き足した。入口、レジ、受け取り、席。矢印の途中に小さく「日陰」「冷たいタオル」「氷追加」と書く。


  咲希は、資料の中の“店頭POP案”を思い浮かべる。見栄えのいい言葉は並んでいる。でも、この矢印には、裏側の手が映っている。

  「スタッフさんの動きまで考えてるんですね」

  言ったあとで、咲希は自分の声が柔らかくなったのに気づく。


  叶空はペン先で矢印を軽く叩いた。

  「作る側がしんどいと、飲む側も落ち着かないじゃないですか。行列の中で、誰か倒れたら、全部が嫌な夏になる」

  言い切ってから、彼は少しだけ声を落とした。

  「だから、暑さから逃げられる場所がある、って伝えたい。逃げていい、って」


  店長が隣の席からそっと手を挙げた。

  「それ、助かります。夏の昼は、レジ前が一番熱いので……」

  叶空はすぐに椅子を引き、店長の目線に合わせて頷く。

  「じゃあ、レジ前に一枚だけ扇風機を。電源位置、ここですよね」

  店長は驚いた顔をしてから、笑って頷いた。咲希は、その反応が答えだと感じる。


  咲希の胸の奥が、また小さくざわつく。桃の香りが、冷房の風に乗って強くなった気がした。

  氷の甘さ。シャッターの鉄の匂い。夜の灯り。

  思い出の扉が、勝手に軋んだ。

  咲希は視線を資料に落とし、指先でページを一枚めくる音を立てた。


  「ドリンク名は“ピンクフロスト”。淡い桃色のフローズン、ですよね」

  平静を装うように、咲希は確認を重ねる。叶空は頷き、ナプキンの余白に小さく「記憶に残る香り」と書き足した。

  「香りで、昔の夏が戻る感じ。戻ってほしい人がいる、っていうより、戻っても大丈夫だって思える感じにしたいです」

  咲希は返事の代わりに、ペンを持つ叶空の手元を見た。指先に薄いインクがついている。話しながら、何度も書き直した跡だ。


  打ち合わせは一時間で終わった。最後に叶空は、ナプキンを丁寧に折って咲希に渡す。

  「これ、今日の議事録です。あとでちゃんと清書します」

  咲希は笑いそうになって、口角だけを持ち上げた。

  「ナプキンの議事録、初めて見ました」

 「濡れたら読めなくなるので、持ち歩きはおすすめしません」

  彼は真面目な顔で言ってから、自分で吹き出した。


  咲希は鞄の中のクリアファイルを探し、ナプキンをそっと挟んだ。紙なのに、妙に大事なものを預かった気分になる。

  階段を下り、商店街のアーケードを抜ける。外の熱気に触れた瞬間、咲希の頬がじわりと汗ばむ。


  駅へ向かう人波の中で、ふっと、桃とミルクの香りが追いかけてきた。さっきの試飲の残り香だ。

  咲希は足を止めた。ホームへ続く階段の手前で、クリアファイルを開き、折り目をそっとほどく。

  『暑さをしのぐ技教えます』

  その字が、なぜか、昔の夏の端を掴もうとしてくる。


  電車が来るまでの三分、咲希はスマホのメモを開いた。

  「決めつけそうになったら、質問に変える」

  そう打って、いったん消す。もう一度、同じ文を打ち直す。消さない。

  いまはまだ、思い出に名前をつけない。

  そう決めて、改札へ向かった。



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